第30話

 部室棟のものとは違い、完全な個室の小奇麗なシャワー室を出て、朔耶はまだ湿り気のある制服を持って談話室に入った。

 手早く、と思ったのだが、体操着を見つけるのに手間取って少し遅くなった。

 が、まだ他の二人は来ていないようで部屋が微妙に暗かったため、電気を点けてテーブルを囲むように配置されたソファに千影と並んで座る。

 談話室は通常の教室ぐらいの大きさで、設備を見た限りではリビングダイニングという感じだった。

 入口側半分はリビング風でテレビやソファが置かれ、奥にはキッチンカウンターに微妙に遮られているが、簡易的な調理場や冷蔵庫が見える。


『こうしてゆっくり話せるのって、何だか久しぶりな気がするね』


 少し時間を置き、あの微妙な雰囲気も和らいだところで千影が口を開いた。

 当然、二人きり用の柔らかい口調だ。


「そう、だな。でも、四日振り、ぐらいか」


 日数を口にして、そんな程度しか経っていないのか、と朔耶は心の中で驚いた。

 千影の言う通り、本当に長い間彼女と会話していなかった気がする。

 それだけ色々なことを一気に経験した証拠か。

 いや、むしろ、それだけ普段彼女と一緒だった、ということなのかもしれない。


「何にせよ、これも先輩達のおかげ、だな」


 最初のアノミアで助けられたこともそうだが、二人の協力なしでは千影と再会することは叶わなかったに違いない。二人には感謝してもし切れない。


『……ねえ、朔耶君。先輩達のこと、どう思う?』

「どう、って?」

『その、己刃先輩は美人だし、晶先輩は可愛いし、その……』


 もごもごと口ごもってしまう千影。

 何となく言いたいことは理解できた。


「そう、だなあ。何て言うか、姉が二人できたみたいな感じ、かな。己刃先輩はしっかりした人だし、晶先輩は基本的に姉御肌な感じだし。小さいけど。それはともかく、俺は小理屈が先立つタイプだから、晶先輩みたいな人には特に憧れる」


 彼女はどちらかと言えば、直感的、感情的な判断を大事にしそうだ。

 勿論、直情的な馬鹿だと言いたい訳ではない。

 理屈と感情が拮抗した際には感情側の判断を取るだろう、という意味だ。


「それに何より二人共、人がいい。ずっと使徒として、誰かを守るために戦い続けてきただけのことはあると思う」

『……うん。中から見てたけど、本当にいい人達だよね。朔耶君の傍にいて欲しくないって少し思っちゃうぐらい』


 その言葉に驚いて千影を見る。

 彼女自身もそんな風に考えるのはよくないと思っているのだろう。

 そう呟いた千影の表情は自己嫌悪で満ちていた。


『わたし、自分がそんな嫌な子だったなんて思わなかった』

「千影……」

『最初は嫉妬。わたしの声は届かないのに、朔耶君と話してるのが羨ましくて。それと独占欲、みたいなものなのかな』


 千影は自分の気持ちを固めるように一つ大きく息を吸った。


『わたしね。朔耶君のことが大好きなんだよ。多分、朔耶君がわたしと友達になってくれたあの日からずっと。こう言うと責任転嫁みたいに聞こえるかもしれないけど、この気持ちが強過ぎて、自分の嫌な部分が出てきちゃったんだと思う』


 手に微かな温もりを感じてそこを見ると、千影が弱々しい力で握っていた。


『ごめんね。一方的に喋って。でも、どうしても朔耶君にはわたしの気持ち、全部伝えたかったから。晶先輩の言う通り、いつ別れが来るかなんて誰にも分からない。それを実感したから。自分の想いはちゃんと言わないといけないって思ったの』


 朔耶は晶に言われ、真っ先に考えた千影に伝えたいことを思い起こしながら彼女の手を握り返した。

 しかし、千影は自分の気持ちを言葉にするので精一杯でそれに気づいていないようだった。


『だから、だからね。こんなわたしでもよかったら、傍にいさせて欲しい。朔耶君を守らせて欲しい。わたし、朔耶君とずっと一緒にいたいの。その、正式な、彼女として』


 そう必死な様子で言いながら不安を湛えた瞳を逸らさず、真っ直ぐに向けてくる千影を見詰め返す。

 晶のアドバイス通り、自分もまた気持ちを今この場で伝えるために。


「千影。あの時の晶先輩の言葉を聞いてたなら、その後俺が呟いたことだって覚えてるだろ? それが俺の答えだよ」


 だが、まだ照れがあるせいで、回りくどい言い方をしてしまう。


『で、でも、あれだと、何だか不安なの。解釈の余地がまだある気がして。もっとはっきりした言葉が欲しいの』


 そうは言いながらも頬を赤くしてもじもじしている千影の様子を見る限り、ある程度気持ちは伝わったようだ。しかし、やはりこういうことはきちんと言葉にすべきなのだろう。


『……ごめんね、わがままで』


 千影の言葉に首を横に振って、朔耶は彼女の目を見据えた。

 既に千影から告白を受けているので、答えは分かっている状態だ。

 それでも、いざ言葉にしようとするとこれまで抱いたどんな羞恥より恥ずかしく、不安で躊躇われる。

 だが、千影はそれ以上の不安を感じながら、勇気を出して言葉にしたのだ。

 そんな彼女を見習わなければならない。


「俺は千影が好きだ。それは間違いなく恋愛感情としての好きで、だから、俺は千影とずっと一緒に生きていきたい。……俺の、彼女になって欲しい」


 朔耶がそう言った瞬間、千影は嬉しさとまだ不安が微妙に入り混じった、半分泣いたような表情で抱き着いてきた。


『本当? 朔耶君、本当にわたしなんかでいいの?』

「千影。わたしなんか、なんて言うな。俺は千影だからいいんだ」

『朔耶君……うん、ありがとう』


 今度こそ純粋な嬉しさに満ちた笑顔を浮かべた彼女を、朔耶は強く抱き締めた。


『朔耶君……』


 間近にある千影の潤んだ瞳が閉じられ、彼女は静かに顔を上げる。

 その意図を理解し、自然と吸い寄せられるようにして彼女の顔に近づく。

 緊張したような彼女の激しく紅潮した顔をぎりぎりまで見届けて、朔耶は目を閉じた。

 そして――。


「そこまでだ!」


 そんな叫びに唇が触れる寸前で顔を止め、朔耶と千影は慌てて距離を取った。

 声のした方向を咄嗟に見ると、キッチンカウンター越しに己刃と晶の姿があった。

 どうやら、そこにしゃがんで隠れていたらしい。

 晶は顔を赤くしつつ右の掌を突き出していて、隣に立つ己刃は申し訳なさそうにしながらも、晶と同様に頬を朱に染めていた。

 千影はそんな二人の姿を見て一瞬呆然とし、次いで羞恥のメーターが振り切れて混乱したように、あわあわと口を動かしていた。

 今にも倒れてしまいそうな錯乱振りだ。


「ふ、二人共、何を、してるんです?」


 顔から火が出そうなのを無理矢理隠そうと眉間に深くしわを寄せながら問うと、晶は笑みを浮かべて誤魔化しにかかったので、朔耶はさすがに不満を隠さず睨んだ。


「い、いや、すまん、つい」

「つい、って何ですか!」

「その、な。お前と二人きりの時の千影の様子がどんなものか興味を持ってな。シャワーは手早く済ませて隠れていたのだ」


 視線を逸らしたまま頬をかく晶に自然と深い溜息が出る。

 幼い姿のせいで怒られて言い訳する子供のように見え、気勢を削がれる。


「……己刃先輩は?」

「えっと、ね。談話室に来たら、晶に無理矢理……」

「う、裏切り者! 己刃だって興味がある風だったではないか」

「そ、それは、その……そう、かもしれない、けど」


 言葉を濁して気まずそうに顔を背ける己刃。

 しかし、何にせよ、主犯が晶であることは間違いないようだ。全く趣味が悪い。


『ひ、酷い、です』


 ようやく自失状態から脱した千影がほとんど泣いているようなか細い声を出す。

 正直朔耶も泣きたい気分だった。

 あんな場面を盗み見られていたのだから、怒ってもいいぐらいだろう。


「すまんすまん。しかし、千影。お前、朔耶の前では随分とデレているのだなあ」


 しみじみと呟いた晶に千影は、うぅ、と恥ずかしそうに唸りながら、顔を赤くして朔耶の背に隠れてしまった。そして、そのまま縋るように手を握ってくる。

 そんな彼女の行動に、己刃と晶は微笑ましい光景を前にしたような優しい眼差しを向けていた。


「だ、だから言ったじゃないですか。千影は人見知りが激しいんですよ」

「ああ、そのようだな」


 だが、これはいつもの人見知りモードとは根本的に違う。完全な混乱状態だ。


「千影。もう私達には全て見られたのだから開き直ってしまえ。思う存分朔耶にデレればいい。どうせ、いずれはばれることだったのだ。それに、もうお前も使徒の仲間なのだから私達の前では気にするな」


 前には腕を組んでにやりと笑う晶。

 その隣には晶のそんな言葉に呆れの笑みを浮かべながら見守っている己刃。

 後ろにはまだ唸っている千影。

 さて、この微妙な雰囲気をどうしてくれようか、と朔耶が考えていると、突然後ろから衝撃が来た。


『わ、分かりました。開き直ります!』


 それは半ばやけくそ気味に、千影が負ぶさるように抱き着いてきたせいだった。

 軽く首が絞まって息苦しくなるのは、半実体である千影に重さはないのだから、彼女が全力で抱き締めてきているためだろう。

 その勢いで頬に彼女の頬が強く押しつけられ、色々と柔らかい感触に体が熱くなる。


「それがいい。朔耶は私達のような美少女の傍にいてもなびかなかったのだから、きっとお前にぞっこんだ。多少のわがままはいくらでも聞いてくれるだろう」


 自分で自分を美少女と言ったり、本人の目の前でそんなことを言ったりすることに文句の一つも言いたいところだったが、そこは何とか我慢する。

 ここで何か言っても薮蛇にしかならない。

 基本的に彼女の言い分に誤りはないのだから。


「……まあ、だが、そうだとしても、さすがに学校内でキスはするな。先程のようにどこに誰の目があるか分からないからな」


 千影の頬にさっと赤みが差す。と同時に彼女の腕にさらに力が込められた。

 朔耶は、自分のことを棚に上げて偉そうに注意する晶に突っ込みを入れようかとも思ったが、ここでも思うだけで留めた。言っていること自体に大きな間違いはない。

 使徒以外は千影の姿を認識できないが、そんな状況で誰かに遭遇すれば、酷い間抜け面を晒しているところを見られる羽目になるに違いないし。


「と、とにかく、気を張らずに、自然に、ね?」


 優しい口調で言う己刃に千影は、はい、と小さく頷いた。

 その表情は吹っ切れたように柔らかい。

 そんな二人きりの時の千影の姿を知られたことに、何とも言いようのない寂しさのような感情も抱く。

 しかし、これはこれでいいのだろう、と朔耶は幾分か緩められたものの未だ強く抱き着いたままでいる彼女の温もりを感じながら思った。


「よしよし」


 晶はそんな朔耶達に満足したのか、悪びれた風もなくソファに飛び乗ると、その上であぐらをかいた。

 その恥じらいのなさは子供っぽいというよりは男らしい。

 ごちゃごちゃして気に留めていなかったが、彼女も己刃も学校指定の体操着姿だった。

 上は白い半袖のTシャツ。下はジャージの長ズボンで制服と同じ深緑色。

 この部屋でその格好だと合宿のような雰囲気がある。


『朔耶君!』


 それを眺めていると、不機嫌そうに唇を尖らせた千影が腕を絡めてきた。

 そんな千影の反応に、晶が楽しげに笑う。


「千影。多少の嫉妬は可愛いが、拘束し過ぎるなよ? お前の精神を宿している以上、逃げられはせんだろうが、下手をすれば嫌われるぞ」


 恋愛熟練者でも気取ったように言う晶に、千影が不安そうに見上げてくる。


「いや、まあ、千影が俺を見限らない限りは大丈夫だと思うけど――」

『そ、そんな、わたしが朔耶君を見限るなんてことないよ!』


 朔耶の言葉を遮るように叫んで、しかし、そんな自分が恥ずかしかったのか、千影は顔を隠すように俯いてしまった。

 その言動に千影の自分への想いを確かに感じ、朔耶は嬉しさで満たされて彼女の手に自然と自分の手を重ねていた。


「晶先輩も、大して恋愛経験もないのに妙なことを言わないで下さい」


 ついそのまま文句を言うと、晶はぴくりと片眉を上げた。

 朔耶は、勢いで余計なことを言ってしまった、と後悔したが、晶は何故か意地悪く笑った。

 予想とは違う反応に、逆に背筋に寒気が走る。


「彼女ができた途端、姉を蔑ろにするのか? ええ? 弟君よ」


 げっ、と口に出そうになるのを何とか堪える。

 全部見られていたのなら、当然その部分だけ例外ということはない。

 姉ができたようだ云々の話も全て聞かれていたということだ。


「全く、生意気だな」


 それは不満げな口調だったが、表情はどこか愉快そうだった。

 そんな晶に困惑して視線を外すと、その会話を訳知り顔で見守っていた己刃と目が合った。


「晶。朝日奈君の言葉が嬉しかったんだよ」

「お、おい。己刃、余計なことを言うな」


 己刃の言葉に慌て出す晶。それを無視して己刃は微笑みを浮かべたまま続ける。


「晶にとっては使徒の仲間は家族みたいなものだから。朝日奈君も同じように思ってくれていたことが、ね。晶も弟ができたみたいだって言っていたから」


 驚いて晶を見ると、彼女はぱっとそっぽを向いて、知らない振りを決め込んでいた。

 しかし、その顔は耳元まで赤くなっている。


『あの時フラグが立ったように見えたのは、こういう意味だったんだ……』


 現実に何のフラグか見抜くのは難しいね、と千影はさらに続けて呟いた。

 その口調がどことなく安堵したものに感じられるのは気のせいではないだろう。


「ふふ、本当に照屋さんは朝日奈君のことが好きなのね」


 優しい口調で言われるだけでも相当気恥ずかしいのに、千影が正直に頷いて、はい、大好きです、などと言ったものだから、必要以上に動揺してしまう。

 一度別離に近いものを経験したせいで、彼女は随分と積極的になっているようだ。


「朔耶も恥ずかしがってはいるが満更でもないようだし、正しく似合いのカップルだな」


 そこに復活したらしい晶の意地の悪い声が加わる。

 何と言うか、本当に姉二人に彼女を紹介して冷やかされているような、そんな妙な気分になってきた。


「だからこそ――」


 しかし、次の言葉は真剣そのもので、朔耶はその感覚を一旦胸にしまった。


「お前達は『守護』の使徒として目覚めたのだな。誰かのため、ひいては自分のためにせよ、生きたいと願う心。一つの生の欲動の形。それは死の欲動を抑え込む唯一無二の要素だ。故に千影の力は死の欲動由来の力を使徒から消し去るものだったのだろう」


 しみじみと呟いた晶に己刃も首を小さく縦に振った。

 相手が放った力を無効化していたのも、その副次的な作用だった訳だ。


「っと、これは後で井出教諭達と話すことだから今はいいか。しかし、一つだけ言っておくぞ。二人共」


 朔耶、千影と順に視線を向けてから、晶は続ける。


「その特殊な力のために、お前達はこれから様々な面倒に巻き込まれる可能性が高い。だが、どんな時も私達がついていることは忘れるなよ? 特に私にとっては命の恩人なのだからな。何があろうと私はお前達の味方だ」

『そんな、わたしが朔耶君とこうしていられるのも晶先輩が頑張ってくれたおかげなんですから、お互い様です』


 そう言って千影が晶の手を取ると、晶は表情を和らげた。


「命の恩人ということなら、あの時己刃先輩に助けられていなければ、俺はここにいられませんし」

「私はただ使徒としての仕事をしただけだから。朝日奈君達がこれから先アノミアで沢山人を助けてくれればいいよ。今回みたいに、ね」


 朔耶の言葉に己刃は照れたように微笑んだ。その様子に晶が大きく笑い出す。

 互いが互いを褒め合っているのが滑稽だったのだろう。


「つまりは、世界とはそういうものなのだろうな。誰かの行動が誰かに影響を及ぼし、それがまた他の誰かへと繋がっていく。よいことも悪いことも、な」

「……ですね」


 まだ日は浅いが、居心地がよく感じられるのは、少なくとも自分達の関係はいい連環の上に成り立ったものだからに違いない。

 朔耶はそう思いながら、その関係を構成する面々をゆっくりと見渡した。

 己刃、晶と視線を送り、最後に隣で微妙に浮かびながら、朔耶の肩に手を置いて支えとしている千影に落ち着く。

 彼女はその視線に気づいたのか、己刃と晶の前でもいつかのように、にこっと心底幸せそうな笑みを見せ、だから、朔耶も自然と頬が緩むのを実感していた。

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