第5話

 耳に届くのは生徒達が歌う賛美歌の響き。

 今日の賛美歌は運動会などで表彰時によく使われるものだ。

 恐らく、一般的にはあれが宗教音楽だと知っている人は少ないだろう。

 まあ、当時のヨーロッパの音楽はほとんどがその類のものなのだが。


 千影は小さな声でそれを歌いながら、ちらっと朔耶の横顔を見た。

 彼は特段目立って背が高い訳ではないが、千影の背が低いため必然的に見上げる形になる。

 朔耶は数少ない、いや、胸を張ってそう言えるのは唯一の友人だった。

 彼の家には何度も訪れているので、個人的には非常に親しい間柄だと思っている。

 ただ、それでも今回のように千影から彼の家に行きたいと口に出すことは、余り多くなかった。

 と言うのも、彼や彼の家族に迷惑をかけているような気がするためだ。

 両親が共働きのため夜遅くまで一人で過ごしていることを朔耶の母親に知られて以来、彼の家を訪ねる度に勧められるままに夕飯を共にしてしまっている辺り特に。

 朔耶はいつも、気にしなくていい、と言ってくれるが、やはり心苦しいものがある。

 勿論、それ以上に嬉しさと感謝の気持ちは大きいのだが。


 しかし、今日もそうだったが、和也の妹、陽菜が彼の家を訪ねるという話を聞くと、いても立ってもいられなくなる。咄嗟に理由を作ってでも彼の傍に行こうとしてしまう。

 誰よりも彼と仲よくありたい。そんな朔耶に対する好意が千影にそうさせるのだ。

 ただ、その理由に利用した時界天士ジン・ヴェルトが好きなのは本当のことだが。

 光がなければ闇はなく、闇がなければ光はない。

 そんな二元論のジレンマをテーマとして真正面から取り上げながら、最後まで変身ヒーローものとしての王道を貫きつつ、しっかりとストーリーを纏め上げた素晴らしい作品だ。


 物語に没入していると自分ではない別のあり方を体験することができる。

 だから、千影はそれらに触れるのが大好きだった。

 特に現実とは程遠い設定を持ちながら、しかし、登場人物の行動、心理にリアリティのあるフィクションが好ましい。

 だから、千影は恋愛一辺倒のものが逆に嫌いだった。

 その要素はどんなジャンルにでもつけ足せるし、何より現実でも経験できるものをフィクションで見ても仕方がないと思うから。

 とは言え、恋愛の経験は片思いまでなのだが。


 ともかく千影にとってフィクションに一番重要なのは非日常性だった。

 そして、そこに強く感情移入したいのだ。

 ……皆、似たようなことを考えたことがあるはずだ。

 今の自分は本当の自分じゃない、と。

 実社会でそれを口にすれば、電波扱いされるに違いないが。

 それが現実にそぐわないことは重々承知している。

 のめり込み過ぎれば、世界から居場所をなくすことも理解している。

 だから、千影はどうしようもない程に非日常を渇望する時は、朔耶のことを考えるようにしていた。


 彼は現実で、そんな彼のことが好きだという想いもまた確固たる現実。

 それは非日常への憧れと天秤にかけられるものではなく、この日常に千影を繋ぎ止めてくれる。

 それでも尚、雪のように降り積もっていく非日常への憧憬を自覚しながら、千影はそれを振り払うように今は賛美歌に集中することにした。

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