第31話 高い空

 陽春眩しい3月、香苗さんはあげはから連絡を受けていた。


♪ チョリーン チョリーン チョリーン


「いらっしゃい、みんな」

入ってきたのは水樹中学を卒業したばかりの三人である。実に半年以上ぶりのことであった。

「合格と卒業、おめでとう」

「有難うございまーす」


バラバラと答えながら、あげは、夏芽、大樹がカウンターに並んで座った。

「めっちゃ久し振り―って感じやなあ」

「ゴールドとシャニーは?」

「あ、今は家の方よ。で、誰がどーなったんだっけ?」

香苗さんがキラキラ瞳で三人を見渡す。すっかり馴染になっていた夏芽が手を挙げた。

「私は静水女子です」

「へえ、夏芽ちゃん、さすがお嬢様。ぴったりだねえ、制服可愛いんでしょ?」

「はい!めっちゃハイテンション。リボンだけで五色あるんです!」

「日替わりじゃん、いいなあ。で村上君は?」

「俺は北天の医療科っす。お陰様で」

「おー!北天!後輩じゃん、私の」

「マジっすか?医療?」

「ううん、私は理数科だったんだ。そっか、コノミ、教えてくれないんだよねー、個人情報とか言って」

夏芽が口を挟んだ。

「村上君が医療科って、きっとやらしいこと考えてるんですよー」

「んなことねぇよ。沢井のサポートだって真面目にやっただろ」

大樹が赤くなって反論する。

「ふふ、で、あげはちゃんはどこ行くの?」

「ウチは龍子館りゅうしかん。制服イマイチで凹んでるねん。夏芽のとこの写真見せてもろて、なんでこんなに違うのーってびっくりしました。県立はあかんわ」


 しかし香苗さんは驚いた。

「龍子館?えー?凄いじゃない。あげはちゃんって秀才だったの?」

県立龍子館高校は、隣の街にある県下でもトップクラスの進学校だった。

「だってヘレナがどこの大学行くかまだ決められへんって言うから、どこでも行けるようにしとかなあかんし、それに龍子館やったら病院に近いし」

「あげは、突然成績が垂直上昇したんです。飛び上がるみたいに」

「へえー、さすが『あげは』ちゃんだねー。でもリハビリもずっとかよってたんでしょ?」

「はい。リハビリはムラカミが手伝うてくれたから助かりました。実際にやって見せてくれて、コツも教えてもろたし」

「ね? 頼りになったでしょ?」

「はい。ムラカミちょびっとだけ見直した」

「だろだろ?」

「せやけど、あーやこーやって、うるさ過ぎ」

顔をしかめた大樹が、乗り出して訴える。

「沢井、大変だったんすよ。先生が言う以上にやるから却って足痛めるってのに、言うこと聞かないし止めるの大変」

「せやかて高校行くまでに治しとかんと、彼氏も作られへんやん」

「あ?」

「ムラカミもええ実習になったやろ?患者って我儘なもんやねん」

「ああ…」


 夏芽が吹き出した。

「初め村上君があげはのリハビリ手伝うって解った時、クラスの村上親衛隊がざわついたんですけど、あげはのこの調子見てすぐにみんな安心しました。美男と野獣だって」

「誰が野獣やねん」

「沢井だよ、判らんか?」

「ウチ、レディーやで。だいたいあんたの親衛隊言うても誰からも告られたことないんやろ?当てにならへん」

「そりゃみんな互いに牽制しあってさ、なかなか抜け駆けできないんだよ」

「まあ、焦って変な女に引っ掛からんようにしいや」


 香苗さんはカウンターの中で笑い転げている。


「で、あげはちゃんはリハビリまだ続けるんでしょ?」

「はい、もうちょっと。もう歩くのは普通になって来たんですけど、ウチ高校で陸上部に入りたいから、もうちょっとやっとかんと」

「陸上部?!」

 夏芽と大樹の声が重なった。あげははちょっと俯き気味にぼそっと言った。

「やっぱり、変やろか…」


 香苗さんがカウンターから出て来てあげはの隣に座った。


「そんなことないけど、大丈夫なの?」

「ヘレナみたいに走るのはあかんかも知れへんけど、棒高跳びとかやってみたい」

「棒高跳び?」

「走り高跳びやったら『Jump』のイメージやけど、棒高跳びやったら『Fly』になるかなあって」

 夏芽が大樹を突っついた。

「スポーツ医学みたいなのもやっとかないとね。あげはに置いてかれちゃうよ」

「え、いやぁ…」

大樹は宙を睨んだ。ジュースのグラスの中で氷がカランと溶けた。


 Fly…。香苗さんは呟いた。この子たち、どこまで飛んでいくのだろう。


 賑やかに喋っていた三人が帰った後、香苗さんは丹波先生にメッセージを入れた。

 『村上君が蒔いた種、ちゃんとあげはちゃんのプランターに植わったよ』

 『Oh!観察ありがと。後は彼が水やり忘れないか…だな』

 『忘れた実績あるんでしょ? ずっと前にあげはちゃん、言ってた』

 『そうだった! でももう担任じゃないし、自分で頑張れ、だ』

 『コノミも、ね』

 『カナもだよ』


 確かに…。香苗さんは呟きながらスマホを置くと表に出て、ドアのプレートを『本日休業』に代えた。もう来るかな?バス通りを覗いてみる。そこにはまださっきの3人の残像が残ってるみたいだ。あげはちゃんはよく頑張ったよ。1年前、ここでアゲハチョウの羽化を見てから、頑張らなあかんって言って本当に頑張った。リハビリも勉強も。でも満足していない。ヘレナちゃんとブランコに乗って舞い上がった日に戻るために、もっと高く飛ぼうとしている。


 ドアのところに戻ってきた香苗さんは目の端に何かが引っかかった。建物の端っこの壁。あれ?アゲハチョウだ。

そこにはまさに羽化の最中であるアゲハチョウが止まっていた。伸びかけた翅を乾かすため、蛹に必死に掴まりながら、時折感じる小さな風に翅と身体を震わせている。あの子たちみたいだ。ずっとモゾモゾしてたのが、綺麗な翅が生えて、これから優雅に舞い上がる準備をしている。


 その時、Catsの駐車場に1台の軽自動車が入って来た。手を挙げて車から降りてきたのは岩城医師だった。


「診に来たよ」

「ごめんね、呼び出して。どうしていいのか判んなくて」

岩城医師はそっと香苗さんの腕に触れた。

「限界まで頑張ったんだ。運命さだめだよ」


 今朝、香苗さんが起きたらシャニーがマットの上で動かなくなっていた。呼んでも答えず足は突っ張ったまま。これは普通じゃない。ゴールドもその傍を離れない。香苗さんは悟った。長生きにはならないってジョーも言ってたし、最近ずっと寝てばかりで、予想はしていたつもりだった。

 香苗さんは取敢えず庭に出て、草花を摘んでシャニーの周りに敷き詰めた。シャニーが天国に持っていけるもの…。そうだ、シャニーから預かったふわふわボールがあったんだ。香苗さんは洗って取っておいたレモンイエローのふわふわボールを取って来た。身近なものがあると安心だろう。シャニーに近づいて、ボールを傍に置こうとして、香苗さんはシャニーからボールを預かった日を思い出した。あれはシャニーが表に出た最後の日、そっと前足で私の手を押したシャニー。


 あれ? え? 香苗さんは立ち止まった。もしかして…、もしかして、くれたの? シャニーはこのボールを…、形見のつもりでくれた? だから、私の手にわざわざ置いてくれたの? ねぇ、シャニー?


 突然、香苗さんの目から涙が溢れた。覚悟はしていたので気丈に振舞ってきたつもりだったが、急に心が割れて、涙が止めどなく溢れる。ごめんねシャニー、気づかなかった。自分のこと忘れないで って残してくれたんだ…。

ボールを胸に抱いて、香苗さんはシャニーに白いタオルを掛けた。そして涙を拭くと、スマホを手に取って岩城医師に連絡を入れた。


 折角のいい日なんだから、あの子たちには黙っていよう。ヘレナちゃんがずっと前にあげはちゃんに気遣ったように。香苗さんはずっと心を押し殺していたのだった。


「じゃ、お店から入っていい?」

岩城医師がドアの把手に手を掛けた。

「あ、ちょっと待って」


 アゲハチョウが翅をパタパタさせ始めている。もうすぐだ。もうすぐテイクオフ。


 香苗さんは壁を指さした。岩城医師も並んで見つめる。二人の目の前で、アゲハチョウはパタパタしたかと思うと、いきなり舞い上がった。二人はその姿を追いかけ、見上げる。アゲハチョウは二人の頭上をフワフワ飛んで軒下を出た。

 すると、屋根の上から別のアゲハチョウが現れた。


「迎えに来たのかな」

岩城医師が呟く。

「きっと幼馴染なのよ。青虫の頃に一緒に遊んでた」

「じゃ、約束してたんだな。大人になったら一緒に飛ぼうって」

「うん。きっとヘレナちゃんがあんな風に飛んでくる」

「だな」

岩城医師は香苗さんの肩にそっと手を回した。

「僕も同じ気持ちで迎えに来たんだ」

「シャニーを?」

「いや、キミのことを」

香苗さんは少し俯くと、肩に置かれた岩城医師の手に、そっと自分の手を重ねた。


 二匹のアゲハチョウはくるくる回るように戯れていたが、突然つーっと高度を上げた。香苗さんの目から涙が溢れる。シャニーと入れ替わるように、アゲハチョウが、あの子たちが飛び立ってゆく。あの高い空へ。


 Fly AGEHA… 香苗さんは魔法の言葉をそっと呟いた。


                           【おわり】


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