第24話 飛んだゴールド

「あいたっ。ゴールド!噛まんといてよ」


 あげはが騒いでいる。ゴールドも生後半年を過ぎ、徐々に『ふつうのネコ』に近づいていた。カウンターから香苗さんが声を掛ける。


「あげはちゃん、ゴールドさ、一回岩城先生に診てもらおうか、後ろ足」

 あげははドキッとした。ゴールドの捻挫は回復したように見える。しかし正確な判断は出来ない。だから正確な診断を受けるべきなのは良く解る。しかしひょっとして岩城先生は『一生飛べない』とか言うかも知れん。死刑の宣告みたいなもんや。これは覚悟して行かなあかん、ウチが責任もって聞かなあかん…。


「あげはちゃんも一緒に行く?」

「いえ、って言うか、ウチがゴールド連れて行ったらあかん?」

「あげはちゃん一人で?」

「はい。お散歩も一人で行ってるし、あそこまでやったら行けると思います」

「ふうん、じゃあお願いしようかな。いつ行ける?」

「あの、今」

「今から?ま、いいか…。じゃあさ、電話しておくからさ、ケージでお願いね」

「はい」


 こうしてあげははケージに入ったゴールドとともに岩城獣医科へ出掛けた。香苗さんの電話で、あげははスムーズに獣医科の診察室まで入る事が出来た。岩城医師は台に乗せたゴールドの足やら背中やらを触っている。あげははゴールドが暴れたり逃げたりしないようにする役目だったが、ゴールドはいつもと違う環境で緊張しているのか、それこそ借りてきたネコのように大人しい。


「うん、大丈夫だよ。もう走ったりできるんでしょ?」

 岩城医師はあげはに尋ねた。

「はい、歩いたり走ったりは抑えられへんし」

「そりゃ仕方ないよ。もう飛んでも大丈夫。異常なしだ」

「せやけど、ゴールドは飛ぶのん怖くないですか?あんまり飛ぼうとせぇへんから、怖かったの覚えてるんかなって」

「それは大丈夫だよ。幼児期健忘症と言ってね、小さい時の記憶は忘れていくものなんだ。脳の中のね、ニューロンって言う神経ネットワークが急速に発達するから隠れちゃうんだよね。ゴールドだって、これから飛んだり跳ねたりってしなくちゃいけない事あるじゃない。それを怖がってたら生きて行けないから丁度いいよ」

「へー」

「人間も一緒だよ。小さい頃のことって覚えてないでしょ」

「確かに。そっか、良かった…。怖かったん、忘れたらええわ。良かったなあゴールド」


 あげはは手で胸を押さえた。


「あげはちゃんが飼主みたいだねえ。そんなに心配してたんだ」

「はい。ウチみたいにずーっと足、引きずったらどうしよう思てました」

「大冒険を許しちゃったから責任感じてるんだ」

「いや、そんなカッコええもんちゃいます」

「あのさ、前も言ったけど子ネコは冒険とか無茶が大好きだからね、どうなったんだかは知らないけど、あげはちゃんがどうしたってゴールドは飛んでたさ。だから気にしなくてもいいよ。橘さんだって解ってるよ。それにこれだけ大きくなってきたら、あげはちゃんが少々頑張っても止めきれないよ。どんどん飛んじゃう。じゃ、また3ヶ月したら来てくれる?」

岩城医師は微笑んだ。

「はい、有難うございました」


 あげははゴールドをケージに入れると診察室を出た。ほんまに良かった、ゴールド。これからは冒険できるって。ウチも安心したわ。あげはの心のおもりは岩城医師の言葉ですーっと軽くなった。ウチも忘れよう…。


 あげはがゴールドを連れて帰ると、カウンターにはヘレナが座っていた。

「おかえりー、あげはとゴールド」

香苗さんが背伸びして尋ねる。

「大丈夫だったでしょ?」

「はい。もう普通やって。どんどん飛ぶって先生言うてました。小さい頃のことってどんどん忘れていくから大丈夫やって。人間も一緒やろって言うてはりました」

「へえ、そっか。そう言やそうだよね」

「そうでないとずーっと飛ばれへんかっても困るし」

「そりゃそうだね」

 あげははケージを開けた。ゴールドがのそっと出てきて、そのままキャットタワーに登り始める。


 ヘレナはそれを聞いてハッとした。それがほんまやったら…、あげは、もしかしてあの事、忘れてる? 覚えてへん?

ほんまにそうなんやろか。あたしは、あたしは覚えてる。ブランコの前で倒れて動かへんかったあげは。あげはのお母さんが抱き起こした時も顔を血だらけにして全然動かへんかった。あたしは怖かった。あたしがあげはをあんなにしてしもたと思って、何や判らんけど怖かったの、覚えてる。そのあとのことは、確かに覚えてへんけど。

どうしよ。ちょっとだけ、ちょっとだけ試してみようか…。だって、時間ないねん。昨日のDaddyの話やったら、あとちょっとしか時間がない。


 ヘレナは立ち上がってタワーを登るゴールドを見守った。その横で、あげはは香苗さんから『ご苦労さま』と言われて出されたレモンティーのストローを咥えている。一番上まで登ったゴールドはヘレナの方を見た。目が合う。ヘレナはあげはを意識してゴールドに話しかけた。


「ゴールド、お医者さんに大丈夫って言われて飛ぶ気になった?」


 実際、ゴールドはこの半年、一番上から飛び降りる事はなかった。そろそろと一段ずつ降り、最後だけピョンと降りて『一応、飛びました』みたいな顔をするのだ。ヘレナにはその姿が、かつてあげはが公園のブランコから飛び降りる練習をしていた頃と重なった。飛んでみたいけど怖いんやと思ってた。ヘレナはゴールドのお腹と背中に手を回し、心の中でゴールドに話しかけた。『あんたはあたしの言う通りに出来るんやで。あたしのGolden kittenなんやから』

ヘレナは今度は皆に聞こえるように言った。

「あたしが持っててあげるから大丈夫。ほら、ピョーンって飛んでみ」

そのままヘレナは抱きかかえるようにして、ゴールドを床まで着地させた。

「ナーォ」

ゴールドはまた登り始める。あげははちょっと心配そうだ。最上段まで登ったゴールドを、またヘレナが抱きかかえて飛ばせた。繰り返す事5回、思い出したのかゴールドは自分の足でキックし始めた。


「そうそう、そんな感じ」

ゴールドは一つ下の段に自分で飛び降りた。

「行けるやん。その感じ、覚えとき」

ヘレナは階段状のキャットタワーの二段下を指差した。

「ゴールド、ここまで飛べる?」


 ヘレナがゴールドを抱えて最上段に乗せ、直下の段を手で塞ぐ。ゴールドは一段飛ばして軽快に飛び降りた。まるで、ヘレナの言葉が解っているかのように。

 香苗さんが拍手し、あげははレモンティーのグラスを両手で包み込んだ。ゴールドはまた最上段まで登ると、得意げな顔で周囲を見回した。

「ナーォ」


 飛ぶかな…、あげはが小声で呟く。ゴールドは少し後ずさりした。ヘレナは落ち着いている。しゃがんできっぱりと床を指差した。


「ゴールド、ここまで飛んでみ。行けるで、もう治ってるんやから」


 あげはは緊張して見守った。ゴールドは頭を下げて前に出る。あの日と同じや…、あげはの手に汗が滲む。ヘレナはそんなあげはをちらっと見て、そしてゴールドに向かって叫んだ。


「Fly!GOLD!」


 その瞬間ゴールドは飛び出した。一瞬で着地し、トトトと歩いて得意げに皆を振り返る。ナーオ。ヘレナは駈け寄ってゴールドを抱き上げた。


「やったやん!ゴールド、出来たやん!」


 頭をくしゃくしゃ撫でて、そのままゴールドをあげはに渡す。あげははゴールドを抱きしめた。よう飛んだ…、良かった…何ともなくて、ほんまに偉かったなあ。あげはの目には涙が浮かんだ。


 ヘレナは隣の椅子に座って、そっとその様子を見守る。香苗さんはティッシュを一枚抜くと後ろ向きになった。やがて、あげはの手を振りほどくように床に降りたゴールドは、草臥くたびれたのか、もふもふマットに転がってしまった。

「二人のお蔭だよ。これ、お祝い代わり」

香苗さんが二人の前にシュークリームを出した。

「うわーラッキー。なんか、お腹すいたー」


 あげはが目を擦ってシュークリームにかぶりつく。ヘレナはその姿を確かめるように見ると、シュークリームを手に取った。あげは…どう? 思い出した?

あげはは何も言わずシュークリームを食べ終えると『こちそうさま』と手を合わせている。あかんかな、変化ないな。

 ヘレナは席を立った。これ以上ったら余計なこと、言うてしまいそうや。

「ほんなら、あたし、先に帰るね」

ヘレナはあげはにそう言うと、香苗さんに向かってお辞儀してCatsを出た。


 残されたあげははカウンターに肘をついて顎を載せる。何やろ、さっき気になったんは。ピピって来たんやけど忘れてしもた。ゴールドが登って、ウチも緊張して、ほんで…、なんやったっけ? 次にヘレナは…


 あ、 Fly!GOLD … なんか聞いたことある。ヘレナ、いつも言うてたっけ? 学校ではそんなこと言わへんしな。何やってんやろ。何が気になったんやろ。


 Catsからの帰り道でもあげはは『Fly!GOLD』と繰り返し口に出してみた。しかし、先程あげはの頭を駆け抜けた、デシャヴのような閃光は、もう戻って来なかった。

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