第22話 飛べない子

 その日、あげはから話を聞いたヘレナは、蛹を見にCatsへ寄り道した。

「へえ、壁とおんなじような色やから、パッと見ても判らへんなあ」

ヘレナは呟きながら蛹を眺めた。落ちないようになのか、蛹の下には段ボールの紙が棚のように貼ってある。香苗さんが貼ってくれはってんって、あげは言うてたな。あげはももうすぐ来るかな。周囲を見渡したヘレナの目に、建物の端っこの壁に何やら明るい色が映った。

「ん?なんかくっついてる」

 近づいたヘレナに見えたのは、まさにアゲハチョウだった。蛹から出たばかりのようで身体にくしゃくしゃの翅がくっついている。

「こうやって出てんのか…」

ヘレナはその前にしゃがみ込んだ。アゲハチョウの翅が一部、蛹の殻に引っ掛かっているように見える。大丈夫なのかな。しばらく経って、右側の翅は伸びてきたが、左側はまだ蛹に引っ掛かったままだった。ヘレナは壁をトントンと叩いてみる。アゲハチョウは少し上に移動し、翅を動かし始めた。初めはゆっくりと、次に少し早く。そしてアゲハチョウはいきなり壁を蹴って飛び出した。


 しかし、左の翅はくしゃっとなったまま。アゲハチョウは敢え無く地上に落ち、ひっくり返ったまま翅をパタパタして体を揺らしている。ヘレナはドアを開けて叫んだ。

「香苗さーん、チョウチョ、変になって落ちたー」

叫びながらもヘレナはアゲハチョウから目を離せない。香苗さんが慌ててやって来た。


「もうチョウチョになったの?」

「いえ、違う子ですけど、ちょっと変です」

ヘレナが地面を指差す。

「んー?」


香苗さんが覗き込む。

「可哀想に。飛べないんだねえ、翅がちゃんとしてないもの」

香苗さんはポッケからティッシュを取り出し1枚抜くと、ひっくり返っているアゲハチョウの上に差し出した。


 アゲハチョウは足でティッシュに掴まり、香苗さんは釣った魚のようにそのまま店の中に持って入った。カウンターの上にまたティッシュを拡げ、アゲハチョウをそうっと置いてみる。

「くしゃくしゃの翅が、片っぽだけきれいになって飛んだんですけど、そのまま落ちてしもたんです」

「そうなんだ…」

アゲハチョウは吹き戻しのような口を出したり巻いたりしている。

「お腹空いてるんだ。ジタバタして疲れちゃったんだね、可哀想に」

「なんか飲ませてあげんと駄目ですねえ」

「そうだねえ、何がいいんだろ。ちょっと聞いてみるね」


 香苗さんはそう言ってスマホを触るとほっぺに当てた。

「もしもし、あ、すいません、いつもお世話になります。Catsの橘です。先生いらっしゃいますか?」

香苗さんの目が何やら弾んで見えるが、ヘレナには意味が判らない。


「あっ、ジョー?、香苗です。あの、動物じゃないんだけど、アゲハチョウの翅が片方縮こまって飛べなくて落ちちゃったんだけど、どうしたらいい? うん、元気。翅パタパタさせて、あ、でもお腹空いてるみたいでストローみたいなのを伸ばしたりしてるの。何あげたらいいかなって。あ、あるよ、Cafeだし。あー、はい、水で薄めるのね、判った。やってみる。有難う」


「誰に聞いたんですか?」

「獣医さんよ」

「え?獣医さんってシャニーとか診てもろてる?」

「そうそう、あんま虫は解んないけどって笑ってた」

「ジョーって聞こえましたけど」

「ああ、獣医さんの名前、丈太郎って言うからね」

「へえ?」

「それで、蜂蜜を薄めて、コットンとかに沁み込ませてあげてみてって。ポカリでもいいんだけど、元々チョウチョはお花の蜜を吸うでしょ?だから蜂蜜の方がいいんじゃないかって」

「なるほど」

やけにフレンドリーやな。ヘレナはちらっと思ったが、大人のことだ。スルーすることにした。


 香苗さんはトレイを出して来て、アゲハチョウをティッシュごと移すと、小皿にコットンを載せ、蜂蜜を水で溶いてスプーンでたっぷりかけた。そしてティッシュを紙縒こよりにしてアゲハチョウをコットンに誘導する。すぐにアゲハチョウは蜂蜜を吸い始めた。やはりお腹が空いていたのだろう。一心不乱に、顔を動かしながら吸っている。


「かわいいなー」

二人はじっと覗き込む。

「なんか、赤ちゃんがおっぱい一所懸命吸ってるみたいですね」

ヘレナが言った。

「上手く言うねえ、ヘレナちゃん日本人より日本語上手いよ」


 香苗さんのスマホが鳴った。

「はい、橘、ああ、ジョー、さっきは有難う。今一所懸命飲んでる。うん、美味しいみたい。うん、ああ、そう言うこと…か。それでどうなるの?え?そうなの?絶対に? そうなんだ…・・・。あ、はい大丈夫。ランドリーネット? うん、あるけど。あー、ブラジャー入れる奴ね、そうそう、型崩れしないように。だって、もう胸が崩れてるんでブラジャーで支えてるのよ、はは、恥ずかしい。うん、判った。有難う。じゃね」


 ヘレナが不思議な顔をしている。

「獣医さんですか?ってか何の話?」

「はは、聞いてた? アゲハチョウこのままじゃまたどこかに落っこちちゃうからね、ランドリーネットに入れて下さいって。柔らかいから翅も傷つきにくいって。ブラジャーとか入れる形のしっかりした奴ね、あれ、ヘレナちゃんはまだ判んないかな?」

「せやけどそんなところ入れたら飛べません」

 ヘレナはしっとりと言った。

「だよね。もう飛べないって。蛹からチョウチョになる時に上手くなかったんじゃないかって。翅がきれいに伸びなくて、ぐっちゃになっちゃったら、もう剥がせないんだって。だからね、だからこの子はもう…」

香苗さんは詰まって涙声になっていた。

「もう、ずっと飛べないって。他の子たちと遊んだりもできないし、恋もできない…」


 目の前ではお腹がいっぱいになったのか、アゲハチョウは飛び立とうとしている。縮れた翅を羽ばたきしながらティッシュの上を歩く。しかし飛び上れない。ヘレナはそっと人差し指をアゲハチョウの前に出してみた。アゲハチョウは細い足で懸命にヘレナの指によじ登る。少しでも高い所へ行きたい。そんなアゲハチョウの断固たる意志が指に伝わってくる。ヘレナは指を上にあげてみた。アゲハチョウは懸命に羽ばたく、縮れた左の翅も右の翅と同じように目に留まらない速さではためかせる。しかしヘレナの指から離れない。ヘレナは指を動かしてアゲハチョウを指の先端に向けて歩かせてみた。細い足が指とその先の空間を探っている。


 ここがテイクオフポイント。アゲハチョウは悟ったようにまたフルスロットルで翅を羽ばたかせた。

Fly!ヘレナは念じた。アゲハチョウは飛び出した。

 次の瞬間、アゲハチョウはティッシュの上にひっくり返った。足を上に向けて翅をパタパタさせる。見守る香苗さんも手を握りしめている。

あかん…、見てられへん。目の奥に涙を滲ませ、ヘレナはまた指を差し伸べて懸命にしがみついてきたアゲハチョウをティッシュの上に止まらせた。


 もうFly!は出なかった。こんなに一所懸命パタパタ飛ぼうとしてるのに飛ばれへんって。この子は自分では解らへんのか…一生飛ばれへんし、友だちとも遊ばれへんし、恋もできへん。お花の蜜も吸いに行かれヘんって、自分では解らへんのか‥。可哀想すぎる。モゾモゾした青虫からやっときれいなチョウチョになったとこやのに可哀想すぎる…。


 香苗さんはティッシュで涙を拭くと続けた。

「だからせめてお腹すかないように、これ以上傷つかないようにネットに入れてあげてって」

「香苗さん」

「ん?」

「この子、あげはには隠しといて下さい。あげはには見つからんように、この子には可哀想やねんけど」

「あげはちゃん?」

「はい。あげは、この子見たら、自分やと思うてしまうかも知れへん」


 香苗さんは黙った。アゲハチョウとヘレナをじっと見て、そして頷いた。ヘレナは続けた。


「あげは、アゲハチョウは空を飛んで、大事な時にはあげはを案内してくれるって思ってるんです。アゲハチョウはあげはにとって、未来の支えなんです。だから…」


「判った。この子は私がちゃんと見てあげるから心配しないで」

「有難うございます」


 ヘレナはカウンターに手を掛けて、飛べないアゲハチョウを見つめた。ヘレナの口からは『ごめんね』しか出て来なかった。

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