3-5 助けてほしいのに

 果物ナイフを片手に、鬼のような形相で近づいてくる若菜の前に、秋音はしばらくは震えが止まらなかった。

 このままでは殺される……!そのことは頭では分かっているが、狭い店内では、逃げる場所も少ない。出入口のドアに向かうには、若菜の傍をすり抜けて行くしかないが、リスクがかなり高い。

 最早、八方塞がりであった。


「どうするんですかぁ、先生?このままだと、私に殺されちゃいますよぉ?いいんですかぁ?」


 そう言いながら、若菜はナイフを少しずつ、秋音の目の前に近づけてきた。


「や、やめなさい!こんなことしたら、あなたのご両親が悲しむわよ!一生懸命受験勉強してきたことが、全て無になってしまうんだよ!分かってるの?」

「悲しむ?そんなわけないでしょ。むしろ、喜んでるかもよぉ?」

「喜ぶ?そんなわけないでしょ!殺人を犯すことで、あなたの大事な人生を棒に振ることになるんだよ。殺人を犯したという前科は、あなたの人生にどこまでも付きまとうんだよ!」

「だーかーらー?何だというんですかぁ?私の人生、あなたには関係あーりませーん!」


 そう言うと、若菜はナイフを秋音の頭上に振り上げた。秋音は、手で頭を覆い、床にしゃがみ込んだ。


「やめろっ!秋音ちゃんを殺すなら、俺を殺せ!」


 腕を痛め、ずっと床に這いつくばっていた祥次郎が、痛む腕を押さえながら、身を挺して若菜の体に体ごと突っ込んだ。

 若菜の体は、祥次郎とともに壁際に突き飛ばされた。


「マスター!」

「秋音ちゃん!今のうち早く逃げろ!ここからは俺が若菜ちゃんと戦うから」

「そ、そんなことできないわよ!マスターだけ置いてどこかに逃げるだなんて!それに、若菜ちゃんは私の学校の生徒だし、私がここに連れてきたんだから」

「そんなことはいいから、さ、早く!今しかないんだ!早く逃げろ!」


 秋音は祥次郎に促されると、ようやく身を起こし、ふらつきながらも重いドアを開け、店の外へと逃げ込んだ。


「マスター……ごめん。私の教え子なのに。本当に、ごめんね」


 秋音はドアを閉めると、無念の気持ちをこらえきれず、涙が止まらなくなった。

 その時、ドアの向こうから、祥次郎のうめくような声が聞こえてきた。

 このままでは、大変なことになる……秋音は急いでスマートフォンをカバンから取り出すと、警察に連絡を取ろうとした。

 その時、誰かが秋音の肩を真後ろからポンポンと叩いた。秋音が後ろを振り向いた時、そこに居たのはロマンスグレーの髪をオールバックにまとめた紳士風の男性だった。


「野口……さん!」

「そうです。野口です。寺下さんから色々話を聞きましてね。ちょっと心配になって尋ねたのと、久しぶりにここでお酒が飲みたいと思って、来たんです」

「ちょ、丁度いい所に。ねえ野口さん、助けて!マスターが、マスターが、殺されちゃう!]

「マスターが?」

「訳は後で話しますから、とにかく早く助けてください!」


 野口は、秋音に背中を押されながら「メロス」のドアを開けた。

 そこには、腕を押さえ、足を引きずりながら必死に痛みをこらえている祥次郎の姿があった。

 その隣では、若菜がハンカチで手と足を縛られ、壁にもたれかかっていた。

 ナイフは祥次郎に取り上げられたようで、他には凶器を手にしている様子はなかった。


「若菜ちゃんは何とか俺が押さえたから、もう大丈夫だよ。ん?あんた……野口さんか?一体何でここに居るんだい?」

「マスター!あなたこそ、何ですか?腕からも足からも血が出ていますよ!このまま放置したら大変ですから、すぐ手当てしないと!」

「い、良いんだよ、このくらい大したことないよ」

「そんなわけないでしょ?早く救急車呼ばないと。関口さん、ちょっと電話してもらえますか?」


 秋音は、野口に急かされるがままに119番通報をしようとスマートフォンを取り出した。


「秋音ちゃん……余計な事するんじゃねえよ!」

「どうしてよ!マスター、血が全く止まってないわよ。野口さんだってすごく心配してるじゃない?」

「う、うるせえ!このくらい、自分で何とか出来るわ。秋音ちゃん、救急箱持ってきておくれ!」

「ダメよ!私じゃ止血なんてできないわよ」

「俺がやる。こんな傷、何度も創ってきたからさ、応急手当もすぐ出来るから」


 祥次郎は、血が滲むズボンを押さえながら、救急箱の入った戸棚まで歩き、棚を開けると、震える手で救急箱を取り出した。


「やめなさい!あなた、自分の傷がどれだけひどいか分かってるんですか?おとなしく病院で手当てした方が身のためです!」


 野口は、顔を赤らめて大声を張り上げ、両手で祥次郎の背中を押さえた。


「触るな!あんたには言われたくねえよ!俺は大丈夫だって言ってるのが、聞こえないのか?」

「いや、ダメです!こんな酷い傷、素人さんじゃ手に負えませんって」

「だから、あんたは黙ってろ!おい、秋音ちゃん、この人を表に連れ出してくれ!」

「いや、秋音さん、今は通報が先です!すぐ119番通報してください!」


 祥次郎と野口の両方から命令され、秋音はどちらの意見を聞けばいいのかわからず、目を閉じて頭を抱え、髪の毛をかきむしった。

 そして、混乱が頂点に達した瞬間、秋音はほとばしる感情を抑えることが出来なかった。


「二人とも、いい加減にしてよっ!」


 思わず大声を上げると、祥次郎と野口は、顔を見合わせ、ぽかんと口を開けて黙り込んだ。


「二人ともいい大人なんでしょ?それに、こんな切羽詰まった時にケンカなんてしないでよ!」


 そう言うと、秋音は祥次郎の手から救急箱を奪い取り、包帯と消毒液を取り出した。

「ほら、マスター、ズボン脱いで!」

「は……はい」


 祥次郎がズボンを脱ぐと、腿の辺りに深い切傷が姿を現した。傷の周囲は、血で真っ赤に染まっていた。秋音はハンカチで丁寧にふき取り、消毒液を塗ると、包帯で何重にも巻き付けた。


「秋音ちゃん……止血できるじゃん」


 祥次郎は感心した表情で秋音の姿を真上から見ていたが、秋音は包帯を巻き終えると、ポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。


「あ、もしもし、こちら『メロス』というカクテルバーですけど。けが人がいるんで、至急救急車手配してくださいますか?あ、はい……十分で来れそうですか?わかりました。待っていますんで。あ、応急手当は済みました」


 秋音がスマートフォンをしまい込むと、野口はにこやかな表情で秋音を見つめた。


「さすがは秋音さん。応急手当も大事ですが、自分たちのことを過信せず、医療機関に任せるのが、やはり常識というものです」


 秋音を褒める野口の表情を見て、祥次郎は、むくれた表情で野口から目を逸らした。


「お二人の言う通り、応急処置して、救急車呼びましたからね。どっちかにしろって迫られても、選ぶの面倒くさいから両方やりましたからね。というかさ、二人とも大人げない喧嘩してる場合じゃないでしょ?こんな非常時に」


 腕組みをして睨みつける秋音の姿を見て、祥次郎と野口は下を向き、シュンと身を縮めた。


 手足を縛られた若菜は、何も言葉を発しなかった。ただ、じっと床を見ながらうつむき、何やらブツブツと小声で言っているようにも見えた。

 やがて、救急車が到着し、駆け付けた救急隊が担架を持って店内に入って来た。


「失礼します!患者さんはどちらにいらっしゃいますか?」


隊員が店内を見渡すと、パンツ姿で横たわる祥次郎がフラフラと手を挙げた。


「あ、あなたですか?どうしたんですか?痴漢にでも襲われたんですか?」

「ち、違いますって!」

「じゃあ、何でそんな姿で?」

「そりゃ、秋音ちゃんが俺にズボン脱げっていうからさ……というか、誰か俺のズボン知らない?パンツ姿のまま救急車に乗るのは恥ずかしいな」


すると秋音が、祥次郎のズボンを真上に掲げた。


「あ、秋音ちゃん、俺のズボン、早くよこしてくれよっ!」

「ダメ!こんな血まみれで、ナイフで引き裂かれた跡が残ってるズボン穿いたままじゃ、何事かと思われるでしょ?これは私が預かるからね」

「そ、そんな!俺、この格好じゃ恥ずかしいじゃん。それにこんな汚いパンツ、看護婦さんに見られたら笑われちゃうじゃん……」

「あのねえ、誰もマスターのパンツなんてまじまじと見てないから!黙ってそのまま救急車に乗ってください!」

「え~ん……俺のズボン、返してよぉ」


祥次郎は結局、パンツ姿のまま救急隊の担架に乗せられていった。

店内には、秋音と野口、そして手足を縛られた若菜の三人が残された。


「さてと……若菜ちゃん。色々聞かせてほしいことがあるんだ。何から聞こうかな?」


秋音がにこやかな表情で問いかけると、若菜はうつむき、秋音と野口の顔を見ることも無く口を固く閉ざしていた。

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