第四章 第三幕

「ふぅ、この辺りまで来ればもう充分だろ」

「充分だろって、あんたね、これはいくら何でも、ちょっと高く飛びすぎじゃない?」

「高度に関しての決まりは無いだろ? だから、夜間飛行を見咎められない位置まで来ただけだが?」

 平然とそんな事を言ってのけるバラクアに、ルティカはため息を漏らした。淡々としたバラクアの語り口からは、悪びれた様子は微塵も感じられない。

「こんな時間でも、フィロルはまだまだ明るいんだな」

 バラクアに言われ、ルティカもそちらを向く。

 煌びやかに光るビルや繁華街の明かりが、首都のフィオーナを中心に、大陸の一角を艶やかに演出し、夜でも明るく栄えていた。

 ルーテジドの方はと言えば、もうすっかり真っ暗だ。自分達がどこから飛んできたのかさえ、よく分からない。都会と田舎の違いを顕著に見せられた気がした。

「これ、本当に帰れるんでしょうね?」

「俺がついてるんだから心配するな。鴻鵠は人間よりも夜目が利く」

「へぇ、頼もしいじゃない」

「……その言葉づかい、オーナーそっくりだな」

「……言わないで、言われて私も今、そう思っちゃったんだから」

 不意に浮かんだジラザの顔を振り払おうと、ルティカは目線を前方へと移し、遥か遠くの大陸へと思いを馳せた。

 世界地図を広げた時に、最も南に位置するベ=ディルス大陸から見れば、西側にはセンティアナ大陸、東側には風全大陸、北側にはリクスト大陸が存在しているはずだ。たとえ夜の薄闇を取り除いたとしても、ここからでは肉眼で見る事も叶わない程、遥か遠くに大陸があると言うのは、ベ=ディルスから出た事の無いルティカからしてみれば、信じられないような事にすら思えた。

「バラクア、あんたの生まれって、どこだっけ?」

「リクスト大陸の、ラカントだと聞いている」

「そうそう、随分寒いところから来たんだったわよね。どんなところなのよ?」

「さぁな」

「何よ、意地悪しないで教えなさいよ」

「意地悪じゃない。俺は卵の時にベ=ディルス大陸に送られて来たからな。故郷の思い出なんて無い」

「……あー、そっか、それも何か寂しいね」

「寂しいことなどあるか。俺達はまだまだひよっこのコンビなんだ。寂しがってる暇など無い。俺達の故郷は、共にこのベ=ディルス大陸のルーテジドだ。そうだろ?」

 バラクアの力強い言葉に、ルティカの胸の内は僅かに疼いた。そして、不器用なりに励ましてくれているのも、よく分かった。

 ルティカは東側へと目を向ける。視認は出来ないが、遥か遠くには華瑠の故郷である、風全大陸が広がっているはずだ。そして、その大陸の中心には、風全山脈が荘厳と聳え立っていると聞く。

「ねぇ、バラクア。遠過ぎて見えないけどさ、あっち側にね、風全大陸があるじゃない?」

 ルティカは、海の向こうに指を指す。

「ああ、華瑠の生まれた涯門は、確か風全大陸の国だったな」

「うん、その風全大陸の中心に、風全山脈って言う、風の強く吹く、山脈があるじゃない? そこで、父さんは行方不明になったんだって……」

「グィンの世界戦の、最中だったと言う話だな」

「うん……」

 バラクアは、ルティカの言葉一つ一つに、丁寧に相槌を打った。

「父さんね、世界戦に行く前に、私に言ったんだ。今度は危険なレースになるかもしれないって……。でも、逃げる訳にはいかないって。そう言ったの」

「何か、特別な理由があったのか?」

 ルティカは首を振る。

「分からない。私は、とっても小さかったし、その時は、父さんが……、もう帰って来ないなんて、思わなかったから……」

 バラクアの嘴に、一滴の水滴が落ちる。

 周囲に雲は見当たらない。だから、雨の可能性は無いだろう。

「あーあ、やだなぁ……」

 ルティカの言葉が、湿り気を帯びてバラクアの耳に届く。

「父さんに、追いつけるまで……」

 バラクアの周りに、雲の無い雨が降った。

「泣かないって決めてたのになぁ……」

 ポロポロと零れ落ちてくる雨を、必死で押し止めようとするルティカ。そのルティカにかけられたバラクアの言葉は、思いの外優しかった。

「今この場所には、お前の声が聞こえてる者も、姿が見えている者も、誰もいない」

「……バラクアがいるじゃない」

「俺はお前と契約を結んだ鴻鵠だ。それは言わば一心同体の様な物だろう。だから、今ここにいるのは、お前だけだ」

 バラクアは言葉を探すように、一言一言言葉を紡いだ。

 立ち上がって風全大陸へと目線を向けていたルティカは、バラクアの首元へと座り、その首にそっと手を回した。

 風の音に、ルティカの涙声が混じる。

「バラクア……、バラクア……。私、悔しいよ……、私の、私のせいで、私が弱いせいで……、父さんが、あんな風に言われて……、なのに、なのに……、私は、弱いから、何にも……、あんなくそベートに、何にも言い返せないの……、父さんは、ルーテジドの星エレリド=ガイゼルは……、本当に、本当に、強くて、偉大な鴻鵠士なんだ……。なのに、なのに……。悔しい……、悔しいよバラクア……」

 そこから先は、もう言葉にならなかった。

 自分の非力さと、父の偉大さを訴えるルティカの泣き声が、ルーテジドの遥か上空で、風に飛ばされて消える。その声が聞こえる者も、泣き顔を見ているものも、誰も居ない。唯一その声が耳に届く者は、彼女と共に生きる覚悟を決めた、一頭の鴻鵠のみだった……。

 一頻り涙を零し少し、落ち着いたのか、ルティカは再びバラクアへ話しかけた。

「ねぇ、バラクア?」

「何だ?」

「バラクアには、怒られるかもしれないけど、私ね、きっと、鴻鵠士になりたかったのって、ただ、空を飛びたかっただけだったんだと思うの。うん、そう、そうだ……。鴻鵠士の養成所に行ってる間に、レースの仕組みや色んな事学んで、色々分からなくなってたんだけどね。でも結局、私は、レースで勝ちたいとか、そんな強い気持ちじゃなくって、ただ、空を飛びたかったって、だけだったんだよ……」

 それから、バラクアの羽根を梳くように撫でながら、ごめんね、と呟いた。

「それで、それがどうしたのか?」

 ルティカの一世一代の告白に、存外あっさりとしたバラクアの声が響いた。

「全く、そんな事を俺に告白してどうするつもりなんだ? それでお前は、明日から鴻鵠士を辞めるのか?」

 朗々と響く冷徹なバラクアの声が、ルティカに本質を問いかけていた。バラクアは更に続ける。

「まぁ、そうだな。勝つことに興味が無い鴻鵠士なんて、羽根を毟られた鴻鵠みたいなもんだ。これ以上恥の上塗りをする前に、さっさと辞めてしまった方がいいだろうな。エレリド=ガイゼルの名も汚さずに済むだろう。そうなったら俺は、新しいパートナーと新たな契約を結んで、心機一転と言う訳だ。第一お前とは、最初っから反りが合わないと思っていたんだ。お前が辞めてくれるならそれこそ清々するってもんだ」

 ルティカは、バラクアから飛び出てくるキツイ言葉達の奥底に、相変わらず不器用な、彼なりの励ましと優しさを感じた。だからだろうか、全然嫌な気持ちにはならず、寧ろ申し訳無い気持ちにすらなった。

 バラクアの言葉の直後、ルティカは腰に付けていた安全ベルトを外し、鞍の上に立ち上がった。

「おい、ルティカ! 何してるんだ!」

 バラクアが言うか早いか、ルティカはそのままふらりとバラクアの首元から倒れるように飛び降りたのだ。

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