第四章 夜間飛行

第四章 第一幕

 ――第四章 夜間飛行


「ルティカったら、ちゃんといい子にしてなきゃダメよ」

「やだ、ルティカもお父さんと一緒にお空飛ぶ~」

 まだ若いテレアの腕の中で、幼いルティカは父親と共に空を飛ぶと駄々をこねていた。まだ小さいし、危ないから駄目だと何とか言い聞かせようとするテレアだったが、ルティカは母親の話に全く聞く耳を持たない。

「そうかそうか、ルティカはお空が好きか?」

「うん、大好き。お父さんと一緒にお空飛ぶ~」

 ルティカを見つめるガイゼルの瞳は、半分は困り果て、だけれどももう半分はとても嬉しそうだった。

 暫しの逡巡の後、ガイゼルはにかっと笑った。

「よし、今日だけだぞ」

「やったー! ルティカもお空飛ぶ!」

「ちょっと、あなた……」

 喜ぶルティカとは裏腹に、心配そうな視線を向けてくる妻へ、

「大丈夫だよ、絶対に連れて帰ってくるから」

 と優しい笑みを浮かべる。

 空を飛べると知ったルティカのあまりの喜びように、説得を諦めたテレアは、

「絶対にお父さんから離れちゃダメだからね」

 と、ルティカに強く強く念を押した。

 ガイゼルはルティカの体と自分の体を紐でしっかりと結ぶと、慎重に鴻鵠、アルバスの首元へと跨った。

 目線が一気に高くなったルティカは、即座に嬉々とした声を上げる。

「お父さん、すごいね! それにこの鳥、格好いいね」

「格好いいだろう。アルバスって言うんだぞ。ほら、お話してごらん」

 ネイバーを付けてもらったルティカに、アルバスの声が聞こて来る。

「こんにちは、ルティカちゃん」

「こんにちは、アルバス!」

 上機嫌で答えるルティカの頭を撫でたガイゼルは、不安そうにこちらを見つめる陸の妻に、そっと口づけを添え、ルティカのネイバーを再び自分の耳につけた。

「よし、アルバス。とりあえずこの辺を一回りして貰っていいか?」

「御意!」

 アルバスは一声嘶きをあげると、その大きな翼を左右に広げ、静かに羽ばたきを始めた。

 緑色の美しい羽が太陽の光を跳ね返す。

 ゆっくりとした羽ばたきを繰り返しながら、少しずつ空中へと浮かびあがるアルバスの首元で、ルティカは興奮の坩堝に居た。

 その体はしっかりと父親の体に結び付けられている為、落ちる心配は無いにしろ、アルバスがどれ程高度を上げたとしても、ルティカの瞳は少しも翳らなかった。寧ろ、徐々に開けていく視界に、歓喜していく一方だった。

「ルティカ、怖くは無いのかい?」

 草原に居る母親が蟻んこ程の大きさになっても、ルティカはその瞳を爛々と輝かせたまま、楽しい楽しい、と元気にはしゃいでいた。

 少し伸ばせば雲に手が届きそうな程高い。前を見渡せば青い海とばかりが広がっている。真下を覗けば、ベ=ディルス大陸がその全容を見せていた。そして自分の回りを包み込むのは、ただただ吸い込まれる程に美しい青い空。

 刺激に満ち溢れ、それでいて何もかもが自由な空の世界に、ルティカはすっかり魅了された。

「アルバス、凄いね、格好いいね」

 アルバスの首元をわさわさと撫でまわしながら、ここまで連れてきてくれたアルバスに称賛の声を上げる。ルティカの褒め言葉に気を良くしたのか、アルバスはガイゼルの許可を得て、上空を猛スピードで旋回し始めた。

 旋回のスピードは徐々に上がり、周りの景色と空と雲が、ゆっくりとバターが解ける様に、次第に混ざり合っていく。

 ルティカはそのスピードにますます興奮し、父親へと笑顔を向けた。

「凄いねお父さん!」

「楽しいかい?」

「うん。いいなぁ、お父さんは毎日こんな事してるんでしょ? いいなぁ」

 心底羨ましそうな声を出すルティカへ向けられたガイゼルの声は、父親として至極当然なものだった。

「じゃあ、ルティカも大きくなったら、鴻鵠士になればいいんじゃないかな」

「こーこくし?」

「そう、父さんみたいに、アルバスみたいな大きな鳥に乗って、レースに出るんだ。相棒と一緒に、自由に空を飛べるんだぞ?」

「すごい! じゃあ、ルティカ大きくなったらこーこくしになる! そんで、ずっと空の中にいるの!」

「ずっと空の中かぁ、最高だな。だけどなルティカ、鴻鵠士の世界は、危ない事も一杯あるんだぞ。だから父さんは、ルティカがなりたいって言うんだったら止めないけど、もっと、お花屋さんとかケーキ屋さんとか、女の子らしくて、危なくない仕事をして欲しいとも思ってるんだ」

 鴻鵠士の世界を知り尽くし、シャン=ルーゼンの世界チャンピオンにまで上り詰めた父親が、ポロリと空の上で零した、娘に対する本音を聞き、ルティカはうーんと唸りながら、まだ小さな脳みそを一生懸命働かせて考えた。

 そして精一杯考えた末に、ルティカガイゼルに向けて元気良く叫んだのだ。

「わかった。じゃあルティカね、女の子らしくて、危なくないこーこくしになる」

 ルティカが笑顔でそんな事を言うもんだから、ガイゼルはすっかり親バカの顔になり、

「そうか、危なくない鴻鵠士か。それはいいな、頑張れよ、ルティカ」

 なんて言ってしまったのだ。

 この約二年後、ガイゼルは、初めて参加したグィンの世界戦の最中、風前山脈の山頂付近で消息を絶つことになる。


 ***


 その日の夜。

 星達がささめく下で、ルティカはテレアの墓の前に座り、ぼんやりと昔の事を思い出していた。

 初めて空を飛んだ時の記憶。

 鴻鵠士になると宣言をした時の記憶。

 そして、父親の記憶。

 それらの記憶が一周した後に、昼間のベートの台詞が再び巡って来る。

『所詮はもう死んじゃった人間じゃないか!』

 その言葉に、胸が抉られる。

『その娘がこの程度だろ!』

 まるで心臓に、ナイフを突き立てられたように……。

『どれだけ強かったって言っても、その娘が0ポイントのヘボ鴻鵠士じゃ、実力を疑われても仕方ないじゃないか!』

 そんな言葉を吐き散らかすベートに、言い返してやりたい悪態なんてそれこそ星の数程ある。だけど、そんな事をしても何にもならない事は、ルティカが一番分かっていた。

 ルティカは右手を伸ばし、墓に彫られたテレアの名前にそっと触れた。

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