第四十九話 星詠み


「あああああ――――っ!!!」


 氾濫した感情が濁流となり、どんな呪詛よりも恨みを込めたナタリアの叫び声が、ミスティアを覆い尽くした。


 ムヴィスに杖先を向ける腕は動かない。狙いを外そうとする意志も、もはやナタリアにありはしない。


「よくも父を、母を! 兄さんに、業を背負わせたなっ!!」


 この先がどうなろうとも、この手が血で穢れようとも。目の前の外道は一瞬でも早くこの世から消さなければならない。ナタリアはそう決心した。


「う、うう……」


 業火の熱に当てられているというのに、どういうわけか頬が冷たい。


 ナタリアは泣いていた。


 幼いころは泣き虫だったが、四年前の両親の死を境に彼女は泣くことを忘れた。だがナタリアの涙腺は、いままで溜め込んでいた分を吐き出さんばかりに止まらない。


 ミスティアの統治という責務を投げ出したいま、涙を遮る物はなく、また我慢する必要もない。その事実が悔しさとなり、よりいっそう涙があふれて流れゆく。


「業火よ! あの愚か者を、灰にしろっ!!!」


 半ば裏返った声で、魔法の行使はなされた。次の瞬間には、火球は空気を喰らいながら飛び、眼前の仇敵を文字通り焼き尽くすだろう。


 だが、そのとき。


 子供のように泣きじゃくるナタリアの心の中で、声が響いた。


 ――――泣くほど辛い時は、空を見上げなさい。それでも辛い時は、手も掲げなさい。星々がきっと、応えてくれる。


 それは彼女が幼いころ、泣いているときに貰った、寡黙で優しかった亡き父の慰めの言葉。


 心中で水面のような波紋が広がると共に……世界の輪郭が、僅かな揺らぎさえもなく、絵画のように定まった。


 ――――霧の先、雲を超え、その先には星があるの。ご先祖様の魂は星となって、地上にいる大事な人を見守っている……だからどんなに辛くても、あなたはひとりじゃないわ。


 世界の裏と表がひっくり返ったかのような浮遊感の中、もう一度、声が響く。それは敬愛する母が、ナタリアをあやすときに口癖のように言っていた言葉だ。


 ナタリアの視界が涙でさらにうるむ。もはや憎きムヴィスの薄ら笑いさえもあいまいだというのに……どういうことか、そこにいるはずのない父と母が、優しい光に包まれながらナタリアの杖を握っているのが見えた。


 なんでそんなに、暖かい目をしているの。ナタリアは心の中で両親に問いかける。


 両親は何も答えない。だが慈愛に満ちた目で、ナタリアを見つめていた。まるで仇を取らなくてもよいとさとしているように。


「――――ナタリア!!」


 ただひとりだけの静寂を破る、尊敬する兄の叫び声。凍り付いた時計の秒針が動き出すように、再び世界は熱を帯び、歩み始めた。


 すでに魔法の詠唱は終わっている。杖先より放たれる火球は、万が一の狂いもなくムヴィスを焼き尽くすだろう。


 それは確定事項だ。行使者であるナタリアであっても、いまから放たれる火球をとりやめることはできない。


 だがもはや、焦る必要など皆無だろう。


 空中で固定されたのかと錯覚するほどに重かった杖は、いまとなっては羽のように軽い。


 ならば、ただ。愛する父と母へ、思いが届くよう。


 ……星にこの手を、かざせばよいのだから。


「私は――――お前とは違う!」


 ムヴィスに決別を突き付けたナタリアは、空を突くかのごとき勢いで杖を掲げた。


 それと同時に燃えたける火球は撃ちあがり、小さき太陽が夜明けを知らせるかのように天へと昇ると……身体の芯にまで響く轟音と共に、ごうと爆ぜた。


「……馬鹿な」


 耳鳴りが爆発の余韻よいんとして残る中、ムヴィスは呆然と呟いた。


「なぜだ。なぜ、お前は。憎しみも怒りも乗り越えられる? オレを殺さずに前へ進める? いったいどうして、自分の感情や欲望を殺してまで他人に尽くせるのだ?」


 まるで親に教えを乞う子供のように。ムヴィスはナタリアへ問いを投げかける。


「それが死んだ者への弔いであり、生き残った者が背負う責務だから。そうして人は、人間という種族は、繁栄を繋いできた。こんなミスティアにいても、それは変わらない」


 答えを聞いたムヴィスは深く息を吐く。腹に溜まったどす黒いものを、吐き出すかのように。


「まぶしい。オレはお前がまぶしく見えてたまらん。その意志が、その生き方が。そして、あまりにも違いすぎた。覚悟も、信念も」


 闇の中へ突如として差し込んだ光にくらむように、ムヴィスは壇上で後ずさる。


「……ふん、性根の腐ったオレには似合いの末路だ。敗者は、黙って去るとしよう」


 ――――さらばだ。そう言い残し、ムヴィスは壇上よりその身を投げた。


「なにを!?」


 ナタリアは驚愕した。壇上から地面までの高さは、常人ならば間違いなく死に至る高さだ。卑怯で歪んだムヴィスがこの期に及び、ある意味で潔い選択するとはいったい誰が予測できたことだろう。


 ムヴィスは人の心を知らぬ愚かな化け物であった。そんな彼が、最後に自死を選ぶというのは……もしかすると、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。


 間もなくしてムヴィスは、自重によって闘技場の地面へと叩きつけられ、彼の意識は永遠の闇の中に沈む。




 すべからく、そうなるはずであった。




「――――水よ。かの者を包み込め」


 どこからともなく言葉が弾けると、ムヴィスの身体はたちまち水の塊に覆われる。そしてそのまま地面へと落ちると同時、凄まじい水しぶきが立ち上がった。


「ぐ、おおお……」


 全身の骨が砕けたのかと思うほどの衝撃によって、身体の自由を失ったムヴィスは、地面で大の字になったまま虚ろな目を空に向ける。


「どうして、オレを」


 ムヴィスの唇が揺れ動く。彼の霞んだ視界の先には、壇上より身を乗り出し杖先をこちらに向けているナタリアの姿があった。


「生きることから、逃げるな。生きたくても生きれなかった者が、どれだけいると思っている。……私はお前を許さない。死んで逃げようとするなんて、許せるわけがない」


 あろうことか……ムヴィスを助けたのは、彼を殺したいほどに憎んでいたナタリアであった。


「だからお前は生きなければならない。誰からも相手にされず、何かを為せるわけでもなく、ただ空っぽなかごのような人生を送り、老いて死ぬ。それがミスティアを荒らした、お前へと送る罰だ」


 ムヴィスがどのような感情で、ナタリアの宣告を聞いていたのかは定かではない。石ころが雲を見上げるように、ただ茫然と聞き届け、やがて彼は意識を失った。


「……そして見届けろ。私の治世を」


 ナタリアはいま一度壇上へと立ち直り、この闘技場に集うミスティアの民を見渡す。そして杖の石突で床を叩くと、大きく声を張り上げた。


「皆の者、待たせたな! これより、このナタリア・ベルングロッサが新たに七炎守となる!」


 ミスティアに王がいた試しはない。ゆえに、ミスティアの民は王がどのような存在か知るよしもない。


 ――――だが。ナタリアの姿は、その支配者然とした威風は。齢十八たらず魔女は、誰の目からも王の到来を予見させる。


「私がこのミスティアを変え、そして導く! 不自由も、不満も。恨みも、つらみも……すべてこの私が昇華させ、ミスティアをかつての時代のように一つにまとめ上げてみせよう!!」


 ナタリアの発言はあまりに恐れ多いものだ。そのような絵空事など無理に決まっている。口にするだけでも大したものだと、舌を巻くほどに。


 しかし。ナタリアの声には確かなる、いや、絶対なる自信があった。そして彼女には生まれ持った才覚と磨き上げた知性に加え、親の仇さえも助ける器の広さも兼ね備えている。


 あの者ならば、あるいは。ふとそう思った者の心に、淡い光が灯る。そして光は徐々に熱を帯び、やがてナタリアに賛を示す声となる。


 そして声は伝播でんぱし、他の者への光となる。光は熱に、そして声へ。そうして闘技場は、声によって埋め尽くされた。


「ここに集う皆を、歴史の証明者にしてみせよう! いまこの瞬間こそが、ミスティアの夜明けだ!!!」


 喝采が、歓声が。両手を広げ未来を宣誓するナタリアを、祝福するかのように包み込む。


 光も、熱も、声も。ナタリアの号令と共にひとつのうねりとなり、それはやがてミスティアの未来を拓く道となる。


 後世にて、もしナタリアの統治を評す者がいれば、きっとこう記すことであろう。



 ――――それは黄金の時代であった、と。

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