第三十一話 碧き光を超えて



「これが……いえ、があなたの悪夢なのね。スクート……」


 真っ暗な牢の中、リーシュは鎖に繋がれながらうつむく従者の姿を見て哀れんだ。


 悪夢の始まりからいまに至るまで、スクートを襲った目を背けたくなるような壮絶な光景の数々。


 万人の不幸を数日にも満たないであろう僅かな時間に凝縮し、たった一人の人間へと理不尽に注ぎ込んだと言っても過言ではないだろう。


 スクートがミスティアへ流れ着く前に受けた苦難は、リーシュの想像を遥かに上回っていた。


 さらにそれだけではなく、絵空事と断じ一蹴するには早計だと思考を揺さぶるライオネルの狂言。


 ライオネルは誰の目から見てもまごうことなき狂人だ。


 だがそんな狂人の言葉を伝えようと、クロスフォード家の家宝である紺碧の指輪はリーシュを導いた。


 つまり、ライオネルの狂言は不幸ながら真実である可能性がある。


 いずれきたる、空を覆い尽くすほどの竜の軍勢。


 神授鋼と呼ばれるいかにも神聖な名を与えられたにも関わらず、ドラゴンの血によって白から黒へとその姿を変えた未知の金属。


 それら全てが、封じられた古書に記されていないまったくの未知であった。


「あのおぞましい男は、やっぱり何かを知っている。わたしの知らない何かを……」


 世界の誰にも読めぬ特別なものを、特別に読み聞かせてあげよう。牢からの去り際、ライオネルは確かにそう言った。


 どれだけ読もうとしても読めざる古書……かの狂人がその読み方を知っている可能性は、確証こそないがかなり高いと言ってもよいだろう。


 ライオネルが語った未知が、彼の持つ読めざる古書につづられていると仮定するのであれば。


 アロフォーニアにある読めざる古書にも、もしかすると来るべき終末とやらが記載されているのかもしれない。


「――――妙ね。ごく一部が読めるならばいざ知らず、世界の終末を知らせる古書なのに誰にも読むことができないというのは。それでは警告が意味をなしていない。……やっぱり単なる偶然が、うまく結びついているだけかもしれないわね」


 リーシュの頭をよぎった推論は、あくまでも仮定と憶測によるものである。


 溢れんばかりの好奇心が踊るように弾けるが、しかしリーシュはそれを押しとどめ神妙な面持ちでスクートに向かい歩き出す。


 思考を重ねるのはいつでもできる。だがいまやるべきことは、スクートの悪夢を封印し、彼を苦しみから一刻もはやく解放するということだ。


 牢の格子も、一寸先さえ見えぬ暗闇も。魂のみのリーシュにとってその身を遮る障壁にはなりえない。


 そうしてスクートの額に手をかざしかけたときであった。


「お前は、誰だ」


 消え入るようなか細い声。だがその言葉は鋭く、リーシュの手を射すくめた。


「……?」


 声の主は確かにスクートだった。しかしリーシュは振り返るも、闇の中に何者かが潜んでいる気配もない。


 心身ともに限界に達し、錯乱しているのだろうか。リーシュが再び手をかざそうとすると、またもや声が遮った。


「お前は、誰だ?」


 顔をあげたスクートと、リーシュの視線が互いに交差した。この空間にはないはずの自身の心臓が大きく高鳴る音を、確かにリーシュは耳にした。


 彼女は久方ぶりに湧き上がる感情に思わず息をのむ。それは不安であり、そして焦りであった。


「いや――――おれはおまえを知っている。なぜ、お前が、ここにいる!?」


「――――っ!」


 絶望に打ちひしがれ瀕死の身でありながら、スクートの気迫は並々ならぬものがあった。


「ありえない」


 これは繰り返される悪夢の一説にすぎない。


 その中にあるものはただの光景であり、映し出される人に自我などあるはずもない。


 ましてや悪夢にあるはずもない異物たましいを知覚するなど、リーシュの常識から大きくかけ離れていた。


 リーシュはスクートの精神力を過小評価していたことを悟る。決して甘く見ていたわけではなく、ただ彼の鋼の精神は天才の予想さえも覆したのだ。


「悪夢の世界が、崩壊していく……!」


 硝子ガラスが割れていくような音を立てながら、悪夢の情景は無数の蛇が這うようにひび割れていく。現実のスクートが眠りから覚醒しだしているのだろう。


 このままでは悪夢の封印どころか、魂が悪夢より帰還するのも危うくなりつつある状況であった。


「時間がない。でもしくじって何もできずに現実に帰るのは、わたしのしょうに合わないわ」


 リーシュはスクートの額に手をかざし、紺碧の指輪に祈りと願いを込める。


「ごめんなさい。夢から覚めたら、もういちど謝らせてもらうわ」


「なにを――――」


 スクートの声を遮るように、指輪は世界を飲み込まんばかりの激しい光を放つ。


 悪夢の光景が欠片となり剥がれ落ちていく最中、指輪を中心に薄氷の膜がスクートを包みこんでいく。


「せめて、あの男の名を忘却の彼方へ……」


 薄氷はスクートを縛る鎖を、壁を、床を……やがて崩壊していく悪夢そのものさえも凍てつかせた。


 まるで硝子絵を粉砕した一瞬を静止したかのような、不揃いかつ奇妙な壊れかけの世界。そんな世界の中で、少女はさらに強く祈り、願った。


 ――――紺碧こんぺきはやがて濃紺のうこん奔流ほんりゅうとなり、あらゆる全てを飲み込んだ。



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