いつも通りの朝

 灰村家の朝は早い。いや、訂正しよう。灰村家の朝は、いつも一人だけ早い。


 今日も家族のだれよりも早く目を覚ました僕は、洗面所で顔を洗って歯を磨いた後、キッチンに立って朝食とお弁当の用意を始める。

 これらの事を僕がやるようになったのはいつからだろう? もう忘れてしまった。


 以前は母さんがやっていたけど、寝坊して間に合わなかったり、朝食や弁当の盛り付けが雑だったりすることがあまりに多くて、見かねた僕がやり始めたという訳だ。

 もうすっかり慣れてしまっているから、これらのことは苦にならない。むしろ大変なのは……。


「翔太、アタシの靴下どこに行ったか知らない?」

「ちょっと桃姉、洗面所を占領しないでよ」

「ううー、あんなに夜更かしするんじゃなかったー。肌荒れてるよー」


 大変なのは、母さんや姉達が起きてきた後の方。うちの女性陣は揃いも揃って朝に弱くて、起きるのはいつも時間ギリギリ。だから毎日、朝は大忙しなのだ。


「母さん、靴下は間違えて、シャツやズボンと一緒にしまったんじゃないの? この前も同じ事してたでしょ。桃ちゃんと聖子ちゃんは、さっさとご飯食べちゃって。これじゃあいつまで経っても片付かないよ」


 まるで誰が母親なのか、分からないことを言っている。僕の事を『乙木の姫君』だなんて呼んでいる人達、現実はこんなものなんだよ。これじゃあまるで、お姫様というよりはオカンだ。


 だけどここでふと、昨日のことを思い出す。昨日家に来ていた、聖子ちゃんの友達の大路さん。あの人も『グリ女の王子様』なんて呼ばれていたけれど、私生活はどんな感じなんだろう?

 大路さんだって人間なんだから、家では気を抜いたりするとは思うんだけど、その姿が全然想像できない。皆が僕の事を姫だなんて呼んで、アレコレ勝手なイメージを持ってしまうわけが、ちょっと分かった気がするなあ。


「……翔太。ねえ翔太ってば!」

「え、なに桃ちゃん?」

「あんたも髪、跳ねてるよ。ほら、頭の後ろ」


 慌てて手を当ててみると、確かに跡がついているような感触が、指先にあった。顔を洗う時にチェックしたつもりだったんだけど、どうやら見落としていたらしい。


「整えてあげるから、こっちに来なさい」

「うん、ありがとう」


 お弁当の用意を中断して、素直に言う事を聞く。桃ちゃんはヘアアレンジをするのが趣味で、よくこうして僕の頭をいじろうとするけど、その腕は確かで、すっと髪を撫でるブラシの感触が心地いい。


「はいできた」

「ありがとう。って、モモちゃんももう着替えないと、遅刻しちゃうよ」

「分かってるって」


 そう言って桃ちゃんは、自分の部屋へと向かって行く。

 人の髪にはすぐ目が行くのに、自身の身だしなみには無頓着なのだから困ってしまうよ。まあ、髪をセットしてくれたのには感謝だけど。


 そんなやり取りがありながらも、朝食を済ませて洗い物をしていると、玄関のインターホンが鳴る音がした。僕はまだ洗い物が残っているから聖子ちゃんに任せたけど、誰が来たかはだいたい分かる。すると玄関から、聖子ちゃんの元気のいい声が聞こえてきた。


「翔太―、彼氏が迎えに来たよー」


 彼氏……僕に彼氏なんていない。だってそうでしょう、男に彼がいるなんておかしいもの。

 だけど聖子ちゃんがそう言ったと言うことは、来たのはアイツで間違いないだろう。最後の食器を戸棚に片づけて玄関に行くと、そこにいたのは思った通り、中学のクラスメイトの正人だった。


「おはよう正人、すぐ用意するから、ちょっと待ってて」

「ああ。それはいいんだけどさ、お前の姉ちゃん、アレはどうにかならないのか?」


 アレと言うのは、やっぱりさっきの彼氏発言のことかな? 

 聖子ちゃんはああ言っていたけど、僕達は勿論付き合ってなんていない。二人ともいたってノーマルだ。ただ正人とは中学に入る以前から、小学校の頃やっていた、ミニバスケットボールで同じチームだったから付き合いが長く、仲が良いのを面白がって、聖子ちゃんはよく彼氏と彼女なんて言ってふざけているのだ。


「いい加減に慣れなよ。あれが聖子ちゃんなんだから」

「慣れるか! というかお前は、何であんな事を言われて平気なんだ?」

「相手は聖子ちゃんだからね、これくらい軽いものだよ。昨日なんてもっと……いや、この話はよしておこう」


 正人は「メチャクチャ気になる」なんて言ったけど、世の中には知らない方がいい事がたくさんあるからねえ。おっと、それより早く、学校へ行く準備をしなくちゃ。いつまでも待たせておくわけにもいかないからね。

 かくして準備を終えた僕は、正人と一緒に家を出る。灰村家の朝は、やっぱりいつも騒がしい。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆




 正人と二人して学校の前までやってきたけど、何だろう? やけに視線を感じる気がする。

 気のせいかもしれないけど、道行く乙木の制服を着た生徒達が、チラチラと僕の方を見ているように思えるんだけど。


「正人、今日の僕っていつもと違うかな?」

「なんだ? まさか2センチだけ髪を切ったとか言うんじゃないだろうな? そんな細かい違いなんて分かんねーよ」

「いや、2センチも切ったなら分かるでしょ。って、そうじゃなくて。何だかやたらと視線を感じるんだけど、恰好は別に変じゃないよね?」

「ん?そうだな。特に違和感はないと思うけど……」


 正人が足を止めて改めて僕を見るけど、やっぱりわからないと言った様子で首をかしげる。するとそんな僕らに近づいてくる影が一つ。


「木田、灰村。おはよう」

「あ、川津かわつ先輩。おはようございます」


 現れたのは高等部の先輩で、川津義則かわつよしのりさんだった。

 180センチの長身で、秋にもかかわらず黒々とした肌はいかにも体育会系の雰囲気を醸し出している。そしてその見てくれ通り、川津先輩は高等部では、バスケ部のエースを務めていた。


「そうだ正人、例の合同練習の話だけど、来週からちょいちょいやっていくことになったから」

「了解です。けど高等部の先輩達との練習かあ。しんどいんだろうなあ」

「そう言うなって。どうせ高等部に来てもバスケは続けるんだろ。だったら今のうちに慣れておいた方が絶対良いって」

 バンバンと力強く、正人の背中を叩く川津先輩。一方僕は何の話をしているのかわからずに、頭にハテナを浮かべる。


「来週に何かあるんですか?」

「ああ、翔太は知らなかったっけ。ほら、俺達バスケ部だろ。今度中等部の3年が、高等部の先輩達と一緒に練習するんだよ。うちでは毎年この時期になるとやってるんだけど」


 ああ、なるほどね。思い出した。

 わが乙木学園は中高一貫校。他の学校と違って高校受験が無いから、普通なら今頃は部活を引退しているはずの中三メンバーも、未だにバスケを続けている。

 それで、来年から高等部に入るのなら今のうちから鍛えておこうと、毎年今くらいから希望者を集めた高等部の先輩達との合同練習が行われるのだ。放課後の練習はもちろん、朝練もあって、なかなかハードだと聞く。


「そういや灰村は、高等部に来たら部活はどうするんだ? 何ならまた一緒に、バスケをやってみないか?」

「僕がですか? けどもうとっくに辞めた身ですし。今更始めても、思うように動けるかどうか」

「一度身についたことは、何年経っても案外忘れないものだ……って、監督が言ってた。お前、すばしっこくて相手を翻弄するのが上手かったからな。再開したら、すぐにまた上手くなると思うぞ」


 バスケねえ。僕がバスケをやっていたのは、小学生まで。あの頃は正人が、そして二つ年上の川津先輩も同じチームにいて、三人で毎日遅くまで、バスケの練習をしていたっけ。

 だけど中学に入って、本格的に家事をやるようになってからは、コートから足が遠のいていた。

 確かに今でもたまに、思いっきりコートを走り回りたいって思う事はある。だけど。


「うーん、またやってみたいとは思いますけど、昨日は演劇部からも誘われましたし」

「演劇部? うちにそんな部ってあったか?」

「いえ、乙木学園じゃなくて、グリ女の演劇部ですよ。実は昨日……」


 昨日家に来たグリ女の演劇部の人達のことを、かいつまんで話していく。その最中、ショタ君なんて変なあだ名をつけられたと言うと、正人も川津先輩も思わず吹き出した。


「なるほどな、それでショタ君か。いや、良いんじゃないか。翔太なら似合ってるし」

「正人、他人事だと思って。姫君の次はショタくん、どうしてこんなあだ名ばかり付けられるんだろう? 来年からは合併するっていうのに、高等部に上がった途端、僕らの学年にまでショタ君ってあだ名が広まってくるかもなあ」

「はは、オーバーだよ。そんなすぐ広まるものでもないだろう」

「甘いですよ先輩。先輩は女子の情報網と、面白いモノ好きを全然わかっていません。今の時代ネットで拡散すれば、瞬く間に広まりますしね」


 モモちゃんや聖子ちゃん、それにクラスの女子を見ていたら分かる。彼女達の情報伝達の速さは、男子のそれとは比べ物にならないんだ。


「悪い悪い。けど灰村、そういうこと気にするんだな。てっきり笑って受け流すタイプだと思ってた」

「俺はそんなあだ名よりも、家で姉ちゃんのおさがりを着ている方が恥ずかしいと思うぞ」

「そっちはもう慣れたよ。だいたい家で着る分には、人目も無いから全然平気でしょ。そりゃ外でスカートを履けって言われたら、僕だって困るけど」

「いや、俺だったら家でも絶対にごめんだけどな」

「俺も同感。けど灰村、スカートは履けなくても、そういう物をつけるのは平気なんだな」


 そういう物って? 何のことか分からずに首をかしげると、先輩の手が僕の頭に伸びる。


「さっきから気になってたんだけど、随分可愛らしものをつけてるじゃないか」

「可愛らしい……ああっ!」


 頭に触れてようやく気付いた。薄くてヒラヒラとした感触がある。引っ張ってみると頭から一本の淡い桜色をしたリボンが外れて、手の中に納まる。


「桃ちゃんだな。今日はやけに髪を整えたがっていたけど、こういう事だったのか」


 桃ちゃんはたまにこういう、無意味な悪戯をすることがあるのだ。

 同時に、さっきから感じていた視線の正体も明らかになる。僕が今着ているのは、乙木学園中等部の、男子の制服。いかに僕が乙木のお姫様なんて呼ばれていたとしても、さすがにこの格好でリボンをつけて歩いていたのだから、アンバランスで目立ってしまったのだろう。


「何だ、趣味で付けてたんじゃないのか」

「さすがに外でこれはちょっと」

「家の中なら付けてもいいのかよ?」

「だてに桃ちゃんのおもちゃにされてないからね。いったい何度ヘアアレンジに付き合わされたことか。それよりも正人、さっきおかしなところは無いって言ってたよね」


 ジトッとした目を向けると、正人は慌てて弁明を始める。


「悪い、あんまり様になってたものだから、気づかなかった。それにほら、俺は普段から家で女物の服を着ているお前を見たばかりだから、違和感が無かったんだよ」

「だからってこんな大きな特徴を見逃すだなんて。だから正人は女子にもてないんだよ」

「酷でぇ!」


 まあ気付かなかった僕も悪いんだけどね。リボンをポケットの中にしまうと、手櫛で簡単に髪を整える。学校に着いたら、もう一度鏡を見てセットしなおそう。


「相変わらず姉さんたちに遊ばれてるみたいだな。そういや灰村の姉さん、グリ女の二年生だよな。と言う事は来年から、学校でも弄ばれたりしないか?」

「可能性はありますね。何せあんなあだ名をつけてきたくらいですから」


 と言っても、せいぜい悪ふざけをする程度だろうけど。おそらくだけど、本当に嫌がるような事はしてこない気がする。

 ショタ君というあだ名だってビックリはしたけど、どうしても嫌と言うわけじゃないし。たぶん悪ノリはしても、そう言う線引きはしっかりしているのだと思う。


「グリ女の演劇部かあ。あそこには変わり者が多いからなあ。けど良い奴だってちゃんといるぞ」

「それは分かりますけど。あれ、先輩ってグリ女の演劇部のこと知ってるんですか?」

「ああ、前にちょっと接点があってな」


 へえ、なんか意外な気がする。

 体育会系の先輩と、文化系の演劇部に、どんな接点があるのかなあ? あ、でも聖子ちゃん、演劇部は文化系に属してはいるけど体力が物を言う、練習は運動部にも負けないくらいにハードだって言ってたっけ。


「で、灰村。お前は結局、姉ちゃんと同じ演劇部に入るのか?」

「どうするかはまだ分かりません。演劇部の人達だって勢いで誘っただけで、本気じゃないのかもしれませんし。まあ入学までの間、ゆっくり考えてみます」


 まだまだ時間はたっぷりあるんだ。と、この時はそう思っていた。だけどこの日の放課後、事態は思わぬ方向に転がってしまう事を、僕はまだ知らなかった。

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