第33話 山田くんのことを、馬鹿にしないで

 告げられた言葉が脳内を駆け巡り、処理しきれなくて眩暈がした。

 それをショックを受けていると勘違いしたのか、愛田美衣亜は住子に近寄ると、握りこぶしをつくって熱弁を振るう。

 ほんのいっときでも芸能人と一緒にいられたことを、喜べばいい。

 自分は雑誌社には顔が効くから、もしもなにかいいネタがあればお金になること。

 住子の生い立ちは、やり方によっては同情を引けるので、今回のことは逆に上手く使えばいいこと。

「大丈夫だよ、一般人だと名前はAさんとかになるから、バレないし」

「……そういうことじゃないでしょう」

 住子が言葉を漏らすと、きょとんとした顔で首をかしげた。

「べつに紹介料とか取らないよ?」

「あなたが言っていることの意味がわからないって、言ってるのよ」

 住子は怒っていた。

 かつてないほど、怒っていた。

 これが「怒り」という感情なのかどうかすらわからないけれど、きっとそうなのだ。胸の中をぐるぐると渦巻く感情の激流。それに押され、流されるまま住子は口を開いた。

「なにが駄目なの。あなたが山田くんのことを好きなんだとしたら、どうして名前だけで気持ちがなくなるの。おかしいじゃない」

「えー、だってー」

「さっき言っていたドラマのことだってそうだわ。あなたが出演した回だって、十位内に入ってるじゃない。たくさんある話数の中で、いい部類に入るのに、なにが不満なの」

 自身が出演した回が一位を取ったほうがうれしいであろうことは、無関係の住子にだって想像はつく。けれど、上位を取れなかったからといって、他の物語を否定していいはずがない。

 林太郎がどれだけドラマに情熱を傾けていたか、知っている。ずっと傍で見てきたのだ。

 彼がそうであったように、他の出演者だって懸命だったにちがいない。称えこそすれ、貶していいとは思えなかった。

「山田くんのことを、馬鹿にしないで」

「そうだね。俺のことをバカって言っていいのは、ひとりだけだし」

 この場の空気にそぐわない、どこかのんびりとした声色で現れたのは、噂の主・林太郎だった。その背後には大杉の姿があり、その他にも見慣れない男性が二人ほど立っている。

 そちらの人物は、どうやら愛田側の関係者であったらしい。住子から彼女を引き離すと、未だ不満げな態度をとりなすように、肩に手を置いて宥めている。

 そんな一団に対して大杉が声をかけているなか、住子は林太郎と対峙していた。なんらかの決着がついたのか、やがて大杉を含めた全員が路地から姿を消す。それを確認したあと、林太郎はようやくといったふうに住子の背中に手をまわし、自らの胸に押しつけるように抱き締めた。

 与えられる熱とはうらはらに、住子のなかにある熱が引いていく。急激に落ち着きを取り戻す心が不思議で、力が抜ける。

 そんな住子を受け止めるように、林太郎はまわした腕に力をこめ、静かに謝罪した。

「……ごめん。関係ない住子ちゃんを巻きこんだ」

「関係なくない。だって、きっと、私のせいなんでしょう?」

 愛田美衣亜の弁を聞くかぎり、そうとしか思えない。どういった手段を用いたのかはわからないけれど、本来であれば掲載される内容は住子の話だったのだ。フォレストのリンに起こった女性スキャンダルであり、人気アイドルに近寄る、育ちがよくない女性の話だったにちがいない。

 それを差し替えた。

 その代償が、林太郎の本名やそれらをとりまく環境だったのだろう。

「謝るのは私のほうじゃない。あなたはちっとも悪くないのに」

「それはちがうよ。俺が悪くて、住子ちゃんはなんにも悪くないんだから」

「だって――」

「俺がわかってなかった。軽く考えてた。社長にも怒られた」

 記事にあった女性は友人ですと言い通して、済ますこともできた。

 宣言してしまえば、それでいいのだ。どれだけ嘘くさくても、それは暗黙の了解となる。多少の痛手はともなうけれど、時間が解決するだろう。

 だが、その方法を選択すれば、住子とは縁を切る必要がある。無関係を装いつつ、今の同居生活を続けることは不可能だ。

 そのうえで林太郎が選んだのは、住子だった。いまさら離れることなんて、できるわけがない。選択肢なんて、ないに等しい。答えはひとつだ。

 本名を出すこと、実家を明かすことで、当然影響は出るだろう。

 実家に電話をして母親には誠心誠意、謝罪した。事情をすべて明かし、許しを得た。

 母親には「今度ちゃんと紹介しなさい」と言われ、商売への影響についても笑い飛ばされた。ミーハーな若者が興味を持つような品は扱っていないし、新しい好事家が増えるのならばそれに越したことはないらしい。姉のほうが逆に燃えているらしく、販路拡大のチャンスだと鼻息を荒くしているという。

 フォレストの活動にも影響は出るだろう。住子のことを知っている慎吾にも頭を下げたところ、こちらもまた笑い飛ばされた。彼いわく「時間の問題だ」らしい。

 女性問題を隠すのであれば、林太郎個人の名前を明かす程度では弱いだろうということで、慎吾側の情報も開示することになった。

 三浦慎吾という本名で、いくつかのデザインを手掛けたことがある事実。小さな賞を取ったことだってあること。慎吾の父親が、その界隈では名の通った写真家であることなどを盛り込んだ一連の情報を独占で渡すことで、住子の件は葬られた。

 もともと、愛田美衣亜が知り合いに漏らして、調べられた話である。一般人ということもあり、住子自身がなんらかの問題行動を起こしているわけでもないのだ。訴えたとしたら、いずれ雑誌社のほうが不利になるだろう。

「ごめん、ほんとにごめん。あの子も、なんていうか、ちょっと独特っていうか、悪気はないらしいんだけどさ」

「悪意があろうがなかろうが、もうすこし物事を考えるべきでしょう」

「どっかのお金持ちのお嬢様らしくてね、イケメンに目がないらしい。今回たまたま俺がターゲットになって、でもなんか飽きられたみたいだね」

 軽く笑い飛ばす林太郎に、住子は唸った。

「――なに笑ってるのよ」

「え?」

「林太郎って名前だったからもういいとか、そんなふうに言われて」

 落ち込んだっていいはずなのに、なんでもないような顔をしていることが、ひどく悔しかった。

「無理して笑わなくたっていいじゃない。泣きごとを言いなさいよ、いくらだって聞くわよ。いつものことじゃない」

 自分のほうが泣きそうな顔をして、口元を引き結んでいる住子を見て、林太郎の顔に笑みが広がる。

 住子が怒っている。

 いつだって感情を揺らさないようにしているあの住子が、心を乱している原因が己のことなのだという事実が、林太郎の胸を熱くした。

「いいんだよ。俺、わかったんだ」

「なにが」

「俺さ、名前を公表して、ワイドショーが街頭インタビューしたり、ネットの記事にいろんなコメントが書きこまれるのを見たとしたら、もっと落ちこむと思ってたんだ」

 マイクを向けられた十代の女子が「ウケルー」とケラケラ笑っていたかと思えば、年配の女性が「名前も男前だねえ」とカラカラと笑う。

 おなじように笑っていたけれど、それは不思議と痛みを伴わなかった。悪意があるようには感じられなかった。

 辛辣な意見が多いであろうネット界隈でも、同様だ。

 そこに笑いはあったけれど、やはり悪意は感じなかった。そのギャップを楽しむ意味での笑いであり、なかには「親近感が湧いた」という意見もあった。自分も山田だという人もいた。

 結局のところ、必要以上にかまえていただけで、世間は林太郎が思うほど嫌な人間ばかりではないのだ。

 子どものころを忘れたわけではない。

 けれど、あれらの声も、いま改めて考えてみれば、それほど悪意に満ちていたわけではないのかもしれない。林太郎がそういうふうに身構えていたから、そう受け取れただけ。

 はじめから、自分自身の問題だったのだ。

「そんなふうに思えるようになったのは、住子ちゃんのおかげだよ。住子ちゃんが当たり前の顔で、俺と一緒にいてくれたから」

「だから、それは、私があなたのことを知らなかったから――」

「そうじゃないよ。芸能人だろうとそうじゃなかろうと、俺のこの顔に日本人の名前がついてる、ちぐはぐ感が問題なんだし。でも住子ちゃん、そのことでなにか言ったことないじゃん」

 口にしたとすれば、山田という名字のほうだ。同じ姓を否定することに懐疑的ではあったけれど、林太郎という名に関して言及したことは、一度もなかった。

 すると住子は、俯いて呟く。

「それは、私の名前だって、古くさいってよく言われたし」

 すみという字に当てられる漢字は多くあるだろうが、そのなかで「住」を当てる事例は少ないように思う。この名前をつけたのは母親であるらしく、周囲の声を聞くに、当時交際していた男性の名前に同じ字が入っていたらしい。出産したあとで別れたというが、その話を住子に聞かせた親戚によれば、住子をダシに結婚を迫って逃げられたのだとか。

 名前に対するコンプレックスは身に覚えのあるものだったため、林太郎の気持ちもわからなくはなかったのだ。

「知らなかった」

「言う必要もないでしょう」

「えー、教えてくれてもよかったのに」

「傷を舐めあっても無意味」

「まあ、いいや。古くさい名前同士、お似合いってことだよね」

「――知らないわよ、そんなこと」

 住子らしい物言いに、林太郎は微笑む。

 そういえば、ここはビルの脇道だ。愛田美衣亜は、彼女の事務所スタッフがすでに連れて帰っている。大杉は案内役であり、林太郎を送り届けてくれただけ。おそらく、もう戻ってはこないだろう。

「誰かに見られるまえに、うちに帰ろうよ」

 そう言って手を差し出す。

 顔をあげた住子が林太郎の顔を見やり、次に差し出した手に視線を移した。

 林太郎は黙って、住子を待つ。

 やがて住子がゆっくりと手を伸ばし、おそるおそるといったふうに林太郎の手を握る。

 触れた手を握りこみ、林太郎はゆるやかに微笑んだ。




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