水晶の塔

天柳李海

Ⅰ 堕ちた魂

 悪霊達が吠え立てている。

 海上は彼等の叫ぶ魔詩まがうたのせいで、激しい嵐になっているだろう。


 今夜も多くの船が海に沈む。

 多くの人間達が海に沈む。


 一片の光も射さぬ深い深い海の底で、海神・青の女王はゆるりと瞳を閉じた。


 聞こえる。聞こえてくる。

 波濤に飲まれし者達の声が。

 私を呼ぶ声が。


 自分の運命を呪う声。

 受け入れねばならぬ、その最後の時を怖れる声。

 この青く暗き水の中一杯に。


「おいで。海に還りしものたちよ」


 紺碧の髪を波打たせ、青の女王は白き腕をどこまでも広げた。


「私の所へ来るのです。怖れるものは何もない――」


 無数の真珠の泡が海神の白き腕から溢れた。

 青の女王から生まれでたそれらは、海を漂う哀れな者達を一人また一人と静かに包み込んでゆく。


 虹色に揺れる泡に包まれた彼等は眠りにおちていた。

 男も女も子供も大人も老人も――。

 赤子のように無垢な笑みを浮かべ、青の女王の腕に抱かれている。



「汝らの悲しみと苦しみ。憎しみと恐れは私がすべて。さあ……再び天へと昇るのです」


 海の泡と化した魂を最後にもう一度胸に抱くと、青の女王はそれらを優しく解放した。海面へと昇っていく彼等を迎えるために、天神が導きの光を降り注いでいる。


 刹那。青の女王は気付いた。

 自分の白き指を擦り抜けた存在に。


「どこへ行くのです。私の元に来るのです!」


 青の女王は真っ暗な海の底へ落ちていく、ひとりの青年に向かって手を差し伸べた。けれどその体は、青の女王の指を再び擦り抜けて、下へ下へと落ちていく。


『あなたの慈悲はいらない』


 はっきりと青年の心語こえが聞こえた。

 迷いも死への恐れも抱いておらず、強い拒絶に満ちた心語こえだった。


 青の女王は一瞬動揺した。その場に立ち尽くし、青をいくつも重ね闇のように暗くなった海の底を見下ろした。

 青年は吸い込まれるように落ちていく。仰向けのまま一直線に。

 月影色に輝いていた長い金髪も、青白い端正な顔も、そして高貴な出自だとわかる瑠璃色の衣装も――迫り来る闇のせいで色彩を失いつつある。


「何故私の救いを拒む。人の子よ」


 青の女王は神に背を向けた青年の姿をじっと目で追った。


「海に飲まれたものは死の恐怖のあまり私の慈悲を乞う。それなのに、お前は――」


 青の女王はふっと溜息をついた。

 珊瑚色の唇から小さな泡がこぼれて海面へと昇っていく。

 何故かあの青年だけはこのまま海の底へ行かせたくないと思った。

 へ落ちたものは海神であろうと、その魂を救うことができないからだ。


「……」


 最後の手段を用いるべく、青の女王は再び青年の元へと水をかいた。

 両手を伸ばして落ちてくる青年の体を受け止め、魂がすりぬけていく前にその時を止めた。海神の力は海の中の時をも支配する。


 ふわり。

 仰向けに横たわる青年の体が沈むのを止めて宙を漂った。

 青年の時だけが止まっている。

 青の女王は両手に青年の体を抱くと、自らの住まう塔へと帰還した。


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