少女画家と戦闘機(四)

 夏の朝焼けが飛行場を包んでいた。

 滑走路に落ちた格納庫ハンガーの影のなかで、ラウラはひとり佇んでいる。

 あのあと、ユーリと別れて部屋に戻ったあとも、けっきょく朝まで眠ることは出来なかった。

 現在の時刻は午前五時四十分をすこし過ぎたところ。

 離陸予定の六時まで、すでに二十分を切っている。

 にもかかわらず、ユーリもテオも依然として格納庫にこもったきりだ。

 ここに来てからというもの、一度も飛行機を見ていないこともラウラの不安をかきたてた。


(ほんとうに大丈夫なのかな……)


 すさまじい爆音が一帯を領したのは次の瞬間だった。

 なにか事故が起こったのだ――とっさにそう判断して、ラウラは格納庫へと駆け寄る。

 それが早とちりであることはすぐに知れた。

 左右に開いた扉の奥に見えたのは、白い排煙にけぶる一機の飛行機だ。

 流麗な機首の先端では、四枚はねの大ぶりなプロペラがゆるやかに回転している。

 さきほどの音は爆発ではなく、発動機エンジンの始動音であった。

 不規則な爆音は、回転数が安定するにつれて調和の取れた旋律を奏ではじめる。

 それでも、両手で耳を塞がなければ数秒と耐えられないほどの大音量であることには変わりない。

 

「これ、普通の飛行機じゃない……」


 ラウラは我知らず呟いていた。

 飛行機を見たのはこれが初めてではない。戦争中には故郷の上空を飛んでいく軍用機をよく眺めていたし、いまも宣伝飛行機や郵便機を見かけない日はないほどなのだ。

 いまラウラの前に停まっている機体は、これまでの人生で目にしたどんな飛行機とも異なる雰囲気をまとっている。

 まるで抗いがたい魔力に吸い寄せられるみたいに、ラウラはふらふらと格納庫の内部へと足を踏み入れていた。


「そこでストップ! それ以上近づいたらあぶないよ!」


 機上から飛んだテオのするどい叱声に、ラウラはふと我に返った。

 姿勢を崩しそうになった少女は、反射的に格納庫の扉にしがみついていた。

 プロペラの回転はじょじょに停止しつつある。テオが発動機エンジンを停止させたのだ。

 

「もう、不用心だよ。プロペラに巻き込まれたらどうするのさ?」

「ご、ごめんなさい! あたし、ついうっかりしてて」

「ほんとうに気をつけてね。暖気運転アイドリング中だからよかったようなものの……」


 音がだいぶ小さくなったところで、ラウラはおそるおそる薄目を開く。

 がらんとした格納庫のなかでうずくまっているのは、翼を内側に折りたたんだ紺青色コバルトブルーの機体だった。

 その姿は、さながら洞窟の奥深くで羽を休める竜のよう。

 無骨でありながらどこか優雅で、見るものに気高ささえ感じさせる佇まいに、ラウラは恍惚とため息を漏らしていた。


「あの……これ、戦闘機ですよね?」

「CaZ-170”サラマンドラ”。そのなかでも、これは終戦間際に数機だけ作られたE-7型だ。世界じゅう探してもこの一機だけしかない貴重品だよ」

「そういうことじゃなくて! どうして航空郵便の会社に戦闘機があるんですか!?」

「うーん、どうしてと言われても……うちの会社にある飛行機はこれだけだからさ。いまのところは別の機体を買い足す予定も予算もないし。それに、


 テオはあくまで飄々と言うと、コクピットから主翼を伝って床に降りる。


「さて、僕の仕事はここまで。あとは――――」


 テオは格納庫の奥に顔を向ける。

 視線を追ったラウラの目に飛び込んできたのは、こちらにむかって歩いてくるユーリの姿だった。

 カーキ色の飛行服の上には革製のフライトジャケット。頭にはゴーグルつきの飛行帽、足元はフライトブーツという出で立ちは、まさしくかつての大竜公国グロースドラッフェンラント空軍のパイロットの装いだ。

 ただし、国章や部隊章、階級章といったものがどこにも見当たらないのはいささか奇異でもあった。


「ユーリ、暖気運転アイドリングはもう終わってるよ。水温も油温もバッチリ。それと、頼まれてたガンカメラの調整もね」

「手間をかけたな。あとは任せてくれ」

「ところで、あんなにいっぱいフィルムを積んでどうするつもり? 遊覧飛行でもあるまいし」

「帰ってからのお楽しみだ」


 手を振りながら言って、ユーリは狭いコクピットに長身を滑り込ませる。

 

「テオ、お嬢さんフロイラインを連れて外に出ていろ。発進する」


***


 機体が格納庫から出たのを確かめて、ユーリはサラマンドラの主翼を開く。

 ロックが外れた左右の翼は、内蔵されたワイヤーと油圧シリンダーによって自動的に飛行位置へと移動する。

 本来は航空母艦での運用を想定した機構だ。当初は空・海軍で同一の機体を使用する予定だったが、あまりの高コストを理由に海軍向けの発注そのものがキャンセルされたことで、サラマンドラは空軍機でありながら折りたたみ翼をもつ異色の機体となったのである。

 数秒と経たないうちに、両翼はゆるやかなV字を描いて停止した。逆ガル型の翼はサラマンドラの最大の特徴でもある。

 この翼型をもつ航空機は大竜公国・ポラリアの両軍を通じてきわめてめずらしく、戦闘機での採用はサラマンドラが唯一の例だった。

 主翼下面から伸びるのは、やはり艦載機譲りの太く頑丈な着陸脚ランディングギアである。この”竜の脚”をもつおかげで、一般的な空軍機はとても着陸出来ない不整地であっても、サラマンドラは問題なく降りることが出来る。

 ユーリは操縦桿とフットペダルを操作し、昇降舵エレベーター補助翼エルロン方向舵ラダーが正常に作動することを確認する。

 続いて二基の主発電機ジェネレーターと非常用バッテリーの通電量をそれぞれチェック。すべて異常なし。

 燃料供給装置フューエルサプライ・システムを胴体内タンクから主翼内タンクへと切り替える。ガソリンは航空機の生命の源であると同時に、機体が抱え込む最大の危険物でもある。面積の広い翼内タンクから優先的に消費すれば、かりに被弾したとしても発火する危険はぐっと低くなるのだ。

 誘導路を通り抜け、翼を広げた機体は滑走路上に出る。

 計器類が正常に動作しているのを確認し、発動機エンジンを全開へ。

 ブースト計と回転計の針が一気に跳ね上がる。

 先ほどまでとは比較にならない爆音が一帯に轟きわたった。

 ”竜の心臓”――アルモドバルALD-X24T Mk.Ⅲ液冷X型二十四気筒発動機エンジンが目覚めたのだ。

 超小型のV型のシリンダーを上下に連結した特殊なレイアウトを採用するこの発動機は、終戦から五年を経たいまなお他の追随を許さない圧倒的な性能を誇っている。

 標準装備された多段式の過給器ターボチャージャーによって、地表すれすれの超低空から一万メートル以上の高高度まであらゆる領域で強大なパワーを生み出し続ける、それはまさしく竜の生命の源だった。

 両翼の高揚力装置フラップをわずかに下げたサラマンドラは、着陸脚のブレーキを解除。滑走に入る。

 あらゆる縛めを解かれた火竜は、猛然と地上を疾駆し、またたくまに離陸速度に達した。

 ユーリは操縦桿をわずかに引き、機首を持ち上げる。

 逆ガル翼が力強く大気を掴み、大柄な機体は重力の軛を断ち切るように浮揚していく。

 やがて機体が充分な高度に達したのを確かめて、ユーリは右、左と順に着陸脚を格納する。

 飛行場はすでにはるか下方へと遠ざかっている。

 サラマンドラは上空で機体をおおきく旋回させ、西へと進路を取る。

 マドリガーレからガリアルダ半島までの直線距離はおよそ千二百キロ。増槽を装備したサラマンドラの航続距離であれば、充分に往復することが可能である。

 むろん、それはあくまで理屈の上での話だ。

 戦闘になればそれだけ燃料消費量は多くなる。

 余裕を持って基地に帰還するためには、不必要な戦闘は極力避けなければならない。

 ユーリはあらかじめ作成していたフライトプランに沿って、機体を高度一万メートル付近まで上昇させる。

 雲海を抜けた先に広がっていたのは、どこまでも蒼く澄みわたった空だった。

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