第54話

これは、きっと夢だ。


──自分は仰向けになっている、見知ったようで見慣れない天井が目の前にある、周りを高い柵で囲まれている。

何かしたいと思うけれども、そうしたところでジタバタするのは手足のみ。

それがどうにも気に食わず、無我夢中で声を出していると近づいてくる一つの影。

それは───



※※※


「ママ……」


え……?


なんの前触れもなく、突然聞こえてきたその声に驚いて声を出す。


いまだ目を瞑ったままの彼は、どうやらその言葉を伝えたかったわけではないらしい。


( 今現在。私、千堂花音は。


──なぜか必死で部屋に留まるよう勧められた結果、十宮くんと二人きりの状況になっていました。)



きっと自分にはできないであろう料理という分野へ向かったあの二人。料理が出来ないからせめて材料だけでもと思って持ってきたから、結果としてこの状況は喜ばしい事ではあるけれど、ただ……。


ベッドの横に寄り添うように座ったまま、シーツの端をキュッと握る。


……ただ、お見舞いに来たのにほとんどする事もなくて、急に二人きりにされてもどうしたらいいのか分からないのは当然で。パタパタと意味もなく動いてみたり慌ただしく視線を動かしたりして、結局その寝顔を眺めることに落ち着いた所だった。


……本当にいくらでも見ていられる。………ううん。見ていたい、ずうっとずっと。


「はぁ、びっくりしました……。もう、寝言ですか?」


ジッと見つめて問いかけても、少しだけ辛そうに歪んだその口元からは、まだ返事が返ってこない。


「ママ、ですか……」


ポツリとその寝言を繰り返す。


たしかこの前来たときには“ママ”ではなく“母さん”と呼んでいたはず。

けれど年齢が上がるにつれ家族の呼び方が変わるのはそれほど珍しいわけでもない。

実際自分も中学生になるまでは違う呼び方だったと思い出した。



『とうとうこの日が来たのね……。成長したんだって嬉しい反面、もう前みたいに呼んでくれないって少し寂しい気もするわ……』


『当たり前じゃないですか!というよりもどうして今まで“お母様”って呼ばせてたんですか!?』


『いいじゃない。憧れだったのよ“お母様”』


『中学生になって「え?まだその呼び方続けてるの? ……あ。あぁ……うん、いいや。うん、そのままでいいと思うよ?」って言われた娘の気持ちを考えてみてください!』


『やったわ!まだお母様呼びでいいのね?』


『いいわけないでしょうお母様!……あ、まだ呼び癖が取れてない……』


『ちなみにお父さんは“パパ”って呼ばれたがってたから“親父殿”って呼ぶようあなたに言い聞かせたわ』


『おや……じゃなくて、お父さんに厳しくないですか!?』


『でもこれはこれでって喜んでたわ』


『どうしましょう。今、私の中でお父さんの株が急暴落してるんですが』


『その株、まだ下がるわよ〜』


『このさらに下があるんですか!?』



なんだか余計な事を思い出した気がすると、フルフルと頭を振って気を取り直す。


………それにしてもどうしてだろう。不思議と、“ママ” という響きはグッと感じるものがある。

自分がそう呼んでいなかったから、というのもあるかもしれない。


「…………」


しかし。それだけではないような気がして、つい魔が刺してしまう。


「ま、ママですよ〜……?」


ちゃんと眠っていることを確かめた上で、そっと呼びかけながら頭を撫でてみた。


こんな事。もし起きていたのなら、二人きりではなかったら、絶対にしていなかったと思う。

……なにより恥ずかしい。


けれど、今は違う。


本来ならその場でゴロゴロとのたうち回ってもおかしくないような行動のはずだったけれど。

なんだか心の奥がじんわりと温かくなったような、今だけはそんな満たされた気持ちでいっぱいだった。

その他の感情なんてこの時に身を委ねるのに邪魔で、照れなんか勿体無くて捨ててしまったみたいだった。


それが引き金だったのか分からなかったけれど。もう少し、もう少しだけとその温かさに触れていたくなった。


「蓮也くん」


頬をてのひらで優しく包む。


「ママはここにいますよ?」


安心させるような穏やかな声色で。


「ママは、あなたのことが大好きですよ」


ギュッと手を握る。


それ応じたかのように未だ夢の中にいる彼も、苦しそうな表情を少しだけヘニャリと緩ませてくれた気がした。


「……蓮也くん。私は………」


“誰も見ていないのだから、このまま……!”


そんな悪魔の囁きすらも、陽だまりの中に流れるように消えて行く。


そっと頭を抱き抱えるように支え、自分の身を寄せると、ふわりと汗の匂いとはまた違った落ち着く香りが鼻をかすめた。


今は、今だけは。


一緒にいる、それだけで幸せだった。



ただ、


「おにいちゃん!お粥でき…た……、よ………?」


「十宮君!ボクのお粥を食べ……て……くれ……?」


とても残念なことに、ちょうどその時部屋に入った二人は身を寄せた彼女の姿を見てしまった。


角度的に彼女が眠っている彼と口づけを交わしているような光景にも見える。


その状況に気づかないでぽやぽやと安らかな表情を浮かべている若干二名のいるその部屋の中、


……少なくとも 派手にお粥を床に落としてしまった二人にとっては、穏やかさのかけらもない殺伐とした空間だった。




※※※


あまり体調を崩す事はないけれど。いざそうなった時に見る夢は、決まってこうだったような気がする。


ママ、ママ、


呼びかけても返事はしてくれない。


あの日のように、駆け寄ってきてもくれない。


一人にしないで。


涙を流しても、声を上げても、昔のようにはいかなかった。


手も足も、やはり自由に動いてはくれなかった。



覚えているはずのないほど小さな、その小さな手を握ってくれたあの人。




───それが昔の記憶だったか、ただの夢でしかないのか、もうそれすらも忘れてしまっているのに。

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