TEARdrop――魂込めのフィレル外伝

流沢藍蓮

1 傲慢なる霧の神


「私を怒らせたな兄上ッ!」

 大気中の水蒸気を集め霧とし、それを凍らせて幾万もの細かい刃を作る。生み出された刃は一斉に、優しげな顔をした青年の方を向いた。青年の穏やかな表情が固まった。

「えっとね、セイン。お願いだからその力を収めて。どうして君は怒っているんだい? 僕はただ、君が他の神様をいじめるのを注意しただけ――」

「私の行動に口を出したからだッ! 力のない神のくせに、私の行動に指図したからだッ! 私は私の勝手に動くッ! 兄上なんかに指図される覚えはないのだッ!」

 水蒸気の刃は、霧の神セインリエスの怒りに合わせてざわざわと動く。その一片が青年――雨の神ロウァルの肌を薄く切り裂き、血を流させた。困惑した表情で、ロウァルはセインリエスを見やる。

「お願いだから落ち着いて! ああ、君にひどいこと言ってごめんよ。言い方が癇に障ったかい? なら悪かったよ、謝るから!」

 ロウァルはセインリエスに対し、大きく頭を下げた。

 そんな兄をセインリエスは見下す。自分や他の神が怒れば、いつだって素直に頭を下げる兄。プライドはないのか、と罵ったら、また困ったような顔で謝るだけ。セインリエスはそんな卑屈な兄が大嫌いだった。兄ならば、もう一人の兄、風の神ガンダリーゼのほうが好きだった。ガンダリーゼは周囲の言葉を無視して好き放題に生きる神様だ。セインリエスは彼を尊敬していたが、目の前のロウァルは見下していた。

「謝るな。兄上が謝ったら、我ら兄弟の名に傷がつく」

 セインリエスは不快げに眉をひそめた。その周囲に集まる力。それを見て何かを察したのか、ロウァルは防御のために力を集め始める。ふんっとそんな兄をセインリエスは鼻で笑った。力弱い神であるロウァルの防御力など高が知れている。ロウァルでは自分を止められようがないのだ。

「前々からずっと我慢していたが、もう本当に我慢の限界だな! 出来の悪い兄上を持った弟の気持ちを考えてみろ。こんなのが我ら兄弟の長兄だって? ハッ、聞いて呆れる!」

 集めた力を兄に向ける。その動作に躊躇はない。

 セインリエスは、叫んだ。

「そんなのが長兄になるよりも――末っ子だが天才たるこの私こそが! 兄弟の天辺に立つのに相応しい! 消え失せろッ!」

「――ッ、セイン落ち着いてってば!」

 霧の刃が一斉にロウァルに向かう。ロウァルは雨と風を集めそれに対抗しようとするが、力の弱い神である彼では敵わない。ロウァルの張った薄い防御など易々と突き破り、霧の刃はロウァルの全身をずたずたにした。音を立て、噴水のように血を噴き上げながらもくずおれる兄を、セインリエスは冷めた目で見ていた。

「……所詮はこんなものか」

 少しがっかりしたような口調で、呟く。

「なぁんだ、兄上なんて弱いじゃないか! あっはっは! そうだ、そうだよ! 兄上なんかじゃない、この私こそが我らのトップに立つに相応しい! こんなひ弱な兄上なんかじゃなくって! 今まで何を躊躇していたんだろうなぁ!」

 倒れたロウァルは、動かない。死んだのだろうかとセインリエスは思った。神だって死ぬことはある。死に例外はないのだ。

 と、不意にセインリエスは恐ろしい殺気と寒気を感じた。ふと振り返ったそこには、黒々と渦巻く暗雲が。その下にいたのは緑の髪に青の瞳をした青年。悪戯っぽい笑みを浮かべていたその顔は笑ってこそいるが、瞳は一切笑っていない。セインリエスは相手の名を呟いた。

「……ガンダリーゼ、兄上」

「お前さ、自分が何をやったか分かっているのかな?」

 三兄弟最強の力を誇る兄、ガンダリーゼ。極北の地のブリザードを纏わりつかせ、彼は静かに佇んでいた。

 この兄に対しては、普段のセインリエスは反抗的な態度を取らない。だが今の彼は、嫌っていた兄を傷つけることができた喜びに、理性が吹っ飛んでしまっていた。

 当然、とセインリエスは笑う。

「大嫌いな兄上に、私に指図ばっかりする兄上に、制裁を加えただけだよ。それの何が悪い?」

「……お前は、どこで間違えたんだか。お前こそ我らの恥だね」

 顔をゆがめてガンダリーゼが吐き捨てる。彼はそのまま倒れているロウァルに向かい、生きているかを確かめた。その顔が安心にほぐれる。

「まだ……生きている。最後の最後で守りの力が発動したのかい? でも生きているなら何とかなるか……って!」

 言い掛けた彼に、セインリエスは霧の刃を使った不意打ちを狙う。ガンダリーゼは周囲に風を発生させて霧を吹き払った。

 ボロボロのロウァルを腕に抱き、セインリエスを睨む鋭い瞳。

「……兄貴を酷い目に合わせて調子に乗ってるんだと思うけどさ、この俺が不意打ちを見逃すとでも思ってんの」

 そんなに戦いたいなら相手してあげようかとガンダリーゼが言うと、兄上だって打ち倒すとセインリエス。有頂天になっているセインリエスには、どんな言葉も届かない。

 氷のような声音で、ガンダリーゼが言った。

「……来い、愚弟。格の違いというのを、見せてやるよ」

 纏ったブリザードが一斉にセインリエスに襲い掛かる。セインリエスはその顔に余裕の表情を浮かべ、霧の結晶をかき集めた。

 集めた結晶で簡単な防壁を。水蒸気を集めて霧にして自分の分身を。濃い霧を周囲に漂わせ、自分自身はそれに紛れて。霧の力は攻撃も防御も、相手の妨害もできる便利な力。セインリエスは自分の勝利を確信していた。

 だが、相手を間違えたのだ。幾らセインリエスが強くとも、相手は天界に名を轟かせる風神である。いつもは怒らず全力を出さないガンダリーゼだが、大切な兄を傷つけられたとあっては怒るのも当然なわけであり。

 ガンダリーゼのブリザードは、霧の防壁を突き破り霧による誤魔化しすらも無視して、辺り一帯を覆いつくした。広範囲攻撃ならば、場所を誤魔化したって意味がない。

「何――ッ!?」

 展開した凄まじい力を見て、思わず焦った声を上げる。彼の周囲には渦巻くブリザードと風の刃。どこにも逃れる場所なんてなくて。

「くっ――!」

 凍え切った風の刃は容赦なくセインリエスを切り裂いた。必死で身を守ろうと霧を集めるが、風に吹かれて散り散りとなる。全身を切り裂かれ、激しい痛みに絶叫するセインリエスの耳に、ブリザードよりもなお寒い、絶対零度の声が届いた。

「愚弟セインリエス。お前に罰を与える」

 絶対零度の声は、淡々と告げる。

「俺は今からお前の神としての権能をすべて奪い、地上界へ追放する。お前は地上界でただ人として生きよ。もしもお前が真に改心するときがあったのならば……その時は力を返し、天界へ戻っても良いようにしよう。だが今のお前は駄目だ。自分の犯した罪を、地上界の底で思い知るが良い」

 そしてセインリエスの歪む視界の端、一気に近づいてきた風神が、セインリエスの額に手を当てた。その瞬間、セインリエスの中で何かが抜け落ちたような感覚が発生し、彼の全身を虚無感と倦怠感が襲った。

「生きていたら、褒めてやる。お前など、死んでも構わない」

この裏切り者め、と声がして。

 セインリエスの身体に、上から激しい衝撃がぶつかる。

 そしてセインリエスは雲の海を突き破り――

 落下。

 遥か、遥か下へと。

 彼がずっと見下していた地上界へと。

 神の力ももう使えない。ただの人間として、地上界へ。

――嫌だ。

 セインリエスは絶望したが、それが兄を傷つけたことへの後悔へは結び付かなかった。

 そうやって彼は落ちていく。彼が大地に激突する寸前、柔らかな風が落下の衝撃を和らげたが、それを気にするほどの余裕などセインリエスにはなかった。


  ◇


 今日もその家では機織りの音が響く。家の中には茶色の髪に青い瞳、質素な服装の娘がおり、彼女は一心不乱に機を織っていた。織りあがっていくのは綺麗な青色の模様の入った白い布。彼女の手足の動きに合わせ、少しずつ仕上がっていく。

 やがて、一区切りついたのか彼女は機織りをやめ、いつの間にか額に浮いていた汗を拭ってほうっと息をついた。うーんと身体を伸ばし、外の空気を吸いに出る。

 まだ春とはいえ寒い季節。朝の澄んだ外気は彼女の身体を冷やしていく。

「……寒いです」

 呟き、一度家に引っ込んだ彼女は、薄いマフラーを首に巻いて再び外に出る。その手には小さな籠があった。

「こんな季節だけれど、食べられる何か、あるかな……?」

 家の外に出る。家の近くの森へ行けば何か見つかるだろうか。そう思い目的地へ向かって歩き出す。

 すると。

「え……? 何なんでしょう……?」

 まだ雪の残る初春の地面に、散らばった赤色。

 近付いて見てみると、それは血まみれの人間だった。

 真白な長髪に真白な衣服。見たことのないような美しい顔。

「死んで……ない、ですよね……?」

 恐る恐る胸元を見ると、かすかに息をしていることがわかった。彼女は目を輝かせた。

「やった、生きてますー! 今ならまだ間に合う……? 間に合ってください……!」

 彼女は持っていた籠を放り出し、血まみれの身体を抱き上げた。成人男性の身体は重かったが、彼女は彼を助けたい一心で、必死で自分の家まで運んだ。

 運んだ彼の正体など、知らずに――。


  ◇

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