第9話  殺人鬼と巨人② ~バトルパート~

「うあー、とんだ目に遭ったぜ」


 スララの攻撃を受けたはずの夜津木が、次の瞬間、むくりと跳ね起きていた。


「えっ!?」

「……そんなっ」


 何がなんだかわからない彩斗とスララの視線の先で、夜津木はこきこきと首を動かす。そして手首の関節を鳴らし、だるそうな呼気を洩らすと、


「そのリコリスってやつのラッシュ。くらってから途中で気付いたんだけどさー」


 薄ら笑いを浮かべて、夜津木はスララへと指を向ける。


「お嬢ちゃんさー、その半透明の房、まるで痛くないんだよねー」


 え、とスララがリコリスを見る。未だ槍の形態を取って、鋭い形状を維持しているそれに、視線を注ぐ夜津木は、馬鹿にしたような声音。


「軌道は読みづらいし形も変わってすげえんだけど、当たっても痛くねえの。俺ぁ、『こいつは終わったな』って攻撃くらったのに、マジ、痛くない。っていうか、気持ちいい? ちょっとした指圧くらいにしか感じないんだよね。残念でしたー」

「そ、」


 そんなとスララの口から声が流れていく。呆然と、観衆席の面々も氷のように固まったままだ。見守っていたサイクロプスだけが、「ククっ」と喉の奥からこらえきれない笑いを洩らす。

 それは、スライムならではの欠点なのだろう。


 確かにスララには、打撃と斬撃が通じない。

 しかし同時に、彼女にも殺傷力はない。

 リコリスはあくまで自衛の手段。これから先、何十、何百と打ち放っても、夜津木たちは倒せないだろう。


「そういうわけで――」


 地面に突き刺さっていたコンバットナイフを拾って、夜津木が前にもまして爛々とした瞳のまま、咆哮する。


「殺戮の再開だ――っ!」


 跳んだ。

 重力を込めた上からの刺突に、スララの半透明の膜は完全に対応した。勢いと重さをたっぷり乗せた殺人鬼の攻撃も、スララの体には届かない。しかしリコリスを振るい、槍の先端を夜津木の胴体へ命中させても、小さな傷すら負わせられない。


「ほら、痛くなーい」


 しかし、攻撃が通じないのは夜津木も同じだ。閃いた刃はスララの体を刻むことなくリコリスの鎧に阻まれ、対してスララの伸縮自在の攻撃も、夜津木には傷を負わせられない。

 刃と槍が十を超える交差を繰り返す。

 しかし、互いの攻撃は致命傷どころか、軽傷すらも与えられない。


「ハハハっ」


 楽しそうに夜津木が跳びはねる。あまりに滑稽な光景だと言うように。高く、高く、笑いは乾燥した岩だらけの戦場に響き渡る。

 岩陰から、彩斗が、呆然と呟く。


「お互いに――ダメージが通らない?」

「ハハハっ、そういうことだ、俺のナイフもサイクロプスの攻撃も、お嬢ちゃんには効果がなくて――反対にお嬢ちゃんの攻撃も、俺らには通じない。なんだこれ、どうすりゃいいの? 最高の戦いじゃん。なあっ!」


 未体験の状況に夜津木が高揚して叫ぶ。

 だが彼はナイフを振り回すだけの青年ではなかった。殺人鬼として捕まらず、何度も殺人を繰り返せるほどの頭は持っていた。


「サイクロプス。今から『ゲヘナ』を使うぜー。お嬢ちゃんの動きを止めろ!」


 ハッとスララが身を硬くする。闘技の切り札たる存在を思い起こす。

 アルシエルは言っていた。闘技中、人間は三度までゲヘナと呼ばれる黒い炎を撃つことができると。それはいかなる魔物をも一撃で倒すことができると、そう言っていた。


 直後――大音響がコロシアムを支配する。

 津波のような粉塵の嵐が視界を殺した。大きく金属棒を振りかざしたサイクロプスが、地面に叩き付け、土煙による盛大な目眩ましを作り出したのだ。


 スララの視界から、夜津木が消える。

 同時に、殺気さえも消失していた。

 殺人鬼たる夜津木は知っている。気配の隠し方を。必殺の瞬間だけ爆発的に膨れ上がらせるための技術を、身につけている。

 とっさにスララがリコリスを用いて周囲の土煙を振り払う。

 だが――。


 視界が晴れた目の前に、黒い業火が迫り来る。


「きゃっ」


 横っ飛びに跳んで、直撃は避けた。だが黒い業火はスララの二房のリコリスのうち、片方をごっそりと呑み込み、跡形も残さずに直進しては背後の岩へと衝突する。

 射線上にあった岩が、どろりと溶けて原型をなくす。数秒の間もない。放たれたゲヘナは岩を溶解させても勢いを減じず、次の岩を溶かし、その次の岩も溶かし、おぞましいほどの溶解の跡を残して消えていった。


「わたしのリコリスが……」


 スララの左の方の房が、根本近くから切り取られるようにして消失していた。

 すぐにスララは燃えていた先端を分離。後ろに下がりつつ、リコリスを伸ばして元の長さに戻したが、優劣は決定的だった。


「やはり、やっぱりだ!」


 夜津木が破顔したまま叫び出す。


「ゲヘナを当てれば勝てる! リコリスは焼くことができるっ! ――なるほど、ゲヘナはどんな守りも貫通するのか! ヒャッハーっ! いいね、いいね、この高揚、この感動! そう、俺はいま、幸福の絶頂にある――っ! サイクロプス、もう一度、お嬢ちゃんを止めろっ!」


 怖気と寒気がスララに襲いかかる。サイクロプスが大きく屈みこむと、跳躍。巨大な陰影を引き連れて、流星のように落下する。


「きゃあっ」


 爆音と同時にクレーターが穿たれる。

 衝撃波にスララはまともな態勢を取れない。ごろごろと転がり、粉塵と暴風に打たれながら、それでもリコリスを伸ばして姿勢を戻そうとして――ぎょっとする。

 分厚い土煙の壁を押し退けて、サイクロプスが巨大な手を伸ばしてきていた。

 最初の闘技でカーバンクルを捕まえたときと同じように、捕獲してからゲヘナを当てるつもりだと、スララは悟る。


「っ」


 迎撃と跳躍をスララは同時に行った。しかし迎撃のために伸ばしたリコリスはあっけなく巨大な手に弾かれた。もう片方のリコリスをまるでバネのように地面に叩き付け、反動を活かし、かろうじて捕獲されることは回避する。


「はあ……はあ……」

「サイクロプス! 続けろ! 俺たちは二人だ、だがあっちはお嬢ちゃん一人だ! 戦力外があっちにいる限り、俺たちの勝ちは揺るがないっ!」


 岩陰から覗きつつ、彩斗は思う。――それだ、全てはそれなのだと怯えながら彼は強く感じる。

 スララだけでは明らかにこの戦いは勝てない。彩斗が絶対に前に出て、ゲヘナを当てなければ勝利はない。

 けれど、彩斗の脚は岩陰から彫像のように動かないのだ。


 ああ……と、スララがサイクロプスの捕縛を必死に回避している光景を見つめながら、彩斗は自分に失望する。

 動け、動いて腕輪に念じるんだ。ゲヘナを撃って、サイクロプスに当てて、この戦いを勝ち残るんだ――そう、心の中で叫んでも、彩斗の体は応じない。


 震えている。笑ってしまうほど大きく、先ほどから彩斗の全身は震えっぱなしだ。顔色は蒼白色に染まり、歯はかちかち鳴り続け、ともすれば目を瞑ってしまいそうになる。

 スララが、懸命に凌いでいるのに。

 息を上げて、必死にサイクロプスの巨腕を、夜津木の刃を、殺人鬼と巨人のワルツから逃れようともがいているのに。どうしようもなく彩斗は臆病の鎖で縛られる。


「スララ、逃げてくれ……」


 横薙ぎに振るわれたサイクロプスの金属棒が、いくつもの岩を粉砕する。

 破片が宙を薙ぐ。粉塵が高く舞い上がり、大音響が悪夢のごとく押し寄せる。


 ――勝てないよ。どうせ無理なんだ。戦うための技術も覚悟もなく、夜津木のような狂気も持ち合わせていない彩斗は、学校で目立たない立ち位置の生徒。魔法が飛び、強者と魔物が闊歩するアルシエル・ゲームでは勝ち残れない。


「ハハッハーっ! そーれ、挟み撃ちだっ!」


 凶刃を振りかざし、楽しそうに夜津木は戦場を踊る。


「スララ……」


 爆裂する地面。


「もうやめてくれ……」


 狂笑と破砕音が、二重三重になって飛び回る。


「逃げても無駄だ! 跳べっ、サイクロプス、それで俺たちの勝ちだっ!」


 背筋が凍った。走り回るスララに向かって、巨人が大きく跳躍をしたのだ。その着地点は――彩斗のいるすぐ近く。


「うわあああっ!」


 砕け散った地面の破片に巻き込まれ、彩斗は転げまわる。砂と土が盛大に巻き上がり、彩斗の体を容赦なく吹き飛ばした。

 視界がぐるぐる周り、いくつもの岩が空を貫いていった。轟音に次ぐ轟音。砕けた岩が落下して、粉微塵に四散する。


「う、く……」


 まるで隕石でも衝突したかのような惨劇に――それでも自分が無事なことに彩斗は不思議な感覚を抱く。

 そして、すぐに気づいた。ひんやりとして、柔らかいものが彩斗の体に覆い被さっている。

 サイクロプスの落下の直前に、スララが彩斗に駆け寄ってきて、彼を庇ったのだ。それで、何割かだったが、衝撃は減退していた。


「大丈夫? 彩斗~」


 リコリスの鎧のまま、彩斗の上に覆いかぶさりながら、スララが聞く。


「危ないところだったよ~、彩斗が無事で、良かった~」

「スララ……」


 呆然として、目の前の少女へ向けて彩斗は呟く。


「な、なんで……」


 薄く笑みを浮かべるスララに、彩斗はなんだか惨めな気分になる。


「なんで、そんな笑っていられるの? キミは、ボクのせいで苦戦しているのに。本当なら一緒に戦って、ボクはゲヘナを当てるべきなのに。スララ、なんで、キミはどうしてそんな笑っていられるんだ……」

「ん~、わからない~」


 彩斗が絞り尽くして言った言葉に、スララはのほほんとして答える。


「わたし、バカだもの~。誰のせいとか、誰が悪いとか、あんまり考えないよ。それより、彩斗が無事な方が大事だよ」

「ボクは――」


 彩斗は、咳き込んだ後に言い募る。


「ボクは、足手まといと言われても仕方ないんだ。戦いに参加できないどころか、スララの足を引っ張ってる。ゲヘナを当てないといけないのに。ゲヘナを、……っ、ボクは、くっ、情けない……っ」

「仕方ないよ~。怖いのが普通だよ。あの人たちが異常なだけ。彩斗は、何も悪くない」


 その声音はどこまでも優しい。けれど、だからこそ彩斗は自分が情けなくなって、仕方がない。


「でも、じゃあどうやって戦うんだ。スララだけじゃ勝てない。でも、ボクは怖い。体が動かないんだ。どうすればいい、スララ。ボクは、どうすれば……っ」

「岩の陰に隠れて~。それで、応援して。わたしが、あの二人に勝てるように」

「スララ……」


 その瞬間、彩斗は胸が苦しくなった。これほど苦境に立たされても、スララは怒るどころか、むしろ笑っている。

 彩斗が怖くならないように。

 これ以上、苦しくならないように。

 夏の花みたいな笑顔を見せ、精一杯、見つめてくれる彼女に――彩斗はとめどない申し訳なさが沸き起こる。


「スララ……、キミは」


 彼女に、打算なんてなかった。妥協もない。スララは心の底から彩斗を案じて、少しでも彩斗が良くなってくれればと言葉をかけている。

 なんでそこまでできるのだろう。

 魔物だからだろうか。人ではないからだろうか。根本的に彩斗とは違っていて、だからこそ苦難の極地でも笑っていられるのだろうか。


「――っ」


 いや、違うのだ。そうではない。彩斗は、自分が決定的な勘違いをしていることに気付いた。

 なぜならば、スララの手もまた――震えていたから。

 庇った拍子に重ねられた、彩斗とスララの手。リコリスの鎧に包まれ、直接触れることはできなかったが、鎧を通じて、スララの震えも伝わってきた。


「スララ……キミも、まさか」


 怖く思っているのだ。考えてみれば当然だった。夜津木とサイクロプスの猛攻を前にして、平静でいられる方が異常なこと。

 けれど、スララはしまったなーという顔をする。


「あ、違うよ。これは、違うよ。えへへ……」


 笑いながら、とっさにスララが身を引こうとする。彩斗は、反射的に彼女の手首を掴んだ。


「スララ。キミも、じつは怖かったんだよね……」

「違うよ~。これは武者震いだよ。わたし戦うのが好きだから、だからなの~」

「そんな嘘は、ダメだよ、スララ……」


 嘘をつかせてしまったことで、また胸がきゅっと苦しくなる。

 このまま彼女だけに戦わせるなんて、できなかった。不安を必死に押し殺し、一人だけで彼女に全てを任せても、待っているのは敗北だけだ。

 戦わねくてはいけないのだ。

 怖くとも、何でも、スララだけに委ねては、闘技を勝ち抜けない。


「ごめん……ボクがバカだった」

「彩斗……?」


 将来も夢もなく、展望もなく、ただ目の前のことに流されるようにしてやってきた。

 いつだって残した結果は平凡で、平均的で、特筆すべきことなど何もない。見た目の声もあまりに普通すぎて、まるで空気のような存在だった。


「ボク、ずっと前はさ、もっと必死な時があったんだ」


 彩斗は語る。過去を。自分の今ではない姿を。もうずっと遥か昔に感じられる、自分の中に押し込めていたものを。


「ずっと前、小学校の時にさ、図工の時間があったんだ。それで、ボクはすごく頑張って作品を作りあげたんだ。でも、クラス一の秀才に簡単の方が、もっと凄い物を作って、悔しい思いをした。あれは、忘れられない」


 小さいときの彩斗は、今のように陰の薄い少年ではなかった。昔はもっと、激しく、猛々しい、やんちゃと呼ぶのが適切な男の子だった。


「それで、次の図工のとき、もっと頑張って作品を作り上げたんだ。家に持って帰って、一日中そればっかりに時間を費やした。完璧だと自分では思った。でもその秀才は、ボクのよりずっと上手い作品を作っていた」


 かすれた声で彩斗は語る。その単語の隅々までスララは理解できているわけではない。でも悲しい響きを、彼女はじっと聞いていた。


「それでさ、ムキになって他の授業のとき、その秀才を超えようと頑張ってみたんだ。国語、算数、理科、社会。英語に体育に音楽に……たぶん、全部に全力を費やしたと思う。絶対抜くんだ、あいつに勝つんだって、毎日躍起になってた。でも……」


 声のトーンは、スッと落ちていく。


「しばらくしてもテストの点数が、全部あっちの方が上だったんだ。ショックだった。何をやっても勝てないんだって、思い知らされた」

 ……一番ショックだったのは、その秀才すら、隣のクラスの天才にはまるで敵わないことを知ったときだった。ボクがどんなに頑張ってもダメだったのに、その相手すら別の子には簡単に負けている。

 ――自分よりすごい人間はどれほどいるのかって想像をしちゃったら、なんか、すごく怖くなったんだ」


 語りは滑らかに続く。けれど彩斗の表情にあるのは、諦観、だった。


「それでね、ある日さ、ふと頑張ることをやめたんだ。クラスの秀才に勝つことを諦めて、全部テキトーに済ますことにしたんだ。

 そうしたら――こう、羽が生えたみたいに、体が軽くなったんだ。ふわって。何かから解放された気持ちが、湧いてきた。それからは、すごく楽だったよ。すごい成績を出す人を見ても、全然悔しくない。ボクが四十点で、誰かが八十点だろうが、九十点だろうが、その上だろうが、全然まったく平気だったんだ。すごいよね」


「彩斗……」

「でもね、その頃から、何か変になったんだ。色んなことに、興味がなくなっていったんだよ。楽しかったゲームも面白く感じないし、好きな音楽も魅力を感じなくなった。色んな意欲や興味自体が、どんどんなくなっていった。

 ――目に映るものも、そうでないものも、色を失ったみたいにさ、みんな、灰色に映るんだよ。変だよね」


「彩斗……」


 楽しくもないのに、彩斗は小さく頬が緩んでしまう。


「それからだった。『影が薄い』って言われるようになったのは。でもさ、それで良かったんだよ。全力を出したのに悔しい思いをするくらいなら全力を出さない方がいい。だからそれを続けようと思った。毎日続けた。ボクは影の帝王なんだ。みんなの影にずっと潜んでた。ずっとそれで行くって、決めていた――」

「でも彩斗、それでアルシエル・ゲームを続けたら、石になっちゃう」

「そうだね」


 間違いなく、そうなるだろう。そのまま何もせす戦えば、敗北は明らかだ。


「でもさ、ボクはどうなってもいいけど、スララだけはダメだ」

「え……」

「スララだけは、石になんかなってほくしない。キミは、ボクを助けてくれた。夜津木に最初に襲われたときもそう。牢屋に押し込められたときもそう。今だって、ボクは助けられている。絶対に、スララだけは石にさせない。だから――」


 彩斗は、自分の胸に、強く、握り締めた拳を添える。


「ボクは――戦う」


 大きく吹いた風に、二人は覆われる。立ち上っていた土煙、巨大な障壁のごとく発生していたそれが、サイクロプスの薙ぎ払いで、吹き飛ばされていった。


「最後の会話があまりに長くて、退屈だったぜー」


 コンバットナイフをくるくると回しながら、夜津木が薄く笑う。


「長々としゃべってるのはいいけどよ、俺たちにも忍耐の限界ってもんが――」


 夜津木は油断をしている。

 彩斗は極限まで冴えた頭の中で、冷静かつ瞬時に現状を把握する。

 逆転の機会はわずかしかない。今しかない。体を弛緩させて言葉を吐き出す夜津木と、その隣にいるサイクロプスは、隙だらけの状態だ。


 だからそれを狙う。切り札を使う。頭の中に黒い蛇を浮かべ、それを打ち出すイメージをする。

 彩斗は叫んだ。ただの三回だけ与えられた、奥の手を。ペアの人間にだけ使える、最強の業火を。ありったけの、勇気と共に。


「――全てを喰らい尽くせ! ゲヘナァっ!」


「なっ!?」


 暗黒の炎が、真っ直ぐサイクロプスへと殺到する。

 空気を焦がし、大気を穿ち、まるで巨大な大蛇となりながら漆黒の業火が走り抜けていく。

 かろうじて横に跳んだサイクロプスだが、予想外の光景に夜津木はいきり立った。


「てめえ、このやろ、」


「――ゲヘナぁぁぁぁっ!」

「っ、くっ!?」


 黒い大蛇が再び放たれる。

 夜津木を無視してサイクロプスへと猛進する。

 間髪入れず放った二発目の黒い大蛇に、夜津木の顔色が蒼白に染まった。サイクロプスは着地したばかり。そこへ撃たれた暗黒の業火に、一つしかない目が限界まで見開かれる。

 巨人が金属棒を投げつけた。だがゲヘナの黒い業火はそれを丸ごと呑み込み、そればかりか、巨人本体をも焼きつくさんと迫りゆく。


「避けろ、サイクロプス! 当たればこっちが負ける! 避けるんだ!」


 その声に反応したのかそれとも本能がそうさせたのかはわからない。だがサイクロプスは寸前のところで地面を転がり、巨体を滑らせることで難を逃れた。


 彩斗が、氷のように冷静な口調で呟く。


「かわされたか……!」

「てめえっ」


 あやうくパートナーが焼かれるところだった夜津木の叫びを無視して、彩斗はスララと共に疾走する。

 アルシエルは、言っていた。闘技は魔物が倒れた方を、負けとすると。だから迷わず、サイクロプスにゲヘナを撃ったのだが――黒い炎には、重大な欠点があることが今わかった。


 ゲヘナは、遅いのだ。

 闘技の切り札とも言うべきこの黒い炎は、確かに当たればどんな魔物も一撃なのだろう。防御も不可能。スララのリコリスを容易に焼いたことから、それは明らかだ。

 しかしその速度は、常人の彩斗でも視認できるほどだ。おそらく二輪が走る程度しか出せず、魔物へ撃っても真正面からではかわされる速度でしかない。直撃させるには、工夫が必要だと結論する。


 ゲヘナを当てる方法は、三つだ。

 魔物を『行動不能』にして撃つか、『ゼロ距離』で放つか、『不意打ち』して撃つか。

 そのうち、彩斗が取るべき選択は――。


「――単なる人間風情が、このサイクロプスに勝てると思うな」


 大質量を率いて、巨人が拳を振り下ろす。

 金属棒がなくなっても、凄まじい風圧だ。地面は砕け、細かな破片が彩斗たちへと降り注ぎ、視界を確実に悪くする。

 しかし、それに構わず、彩斗はスララと共に、サイクロプスの周りを駆け抜ける。


「彩斗~、あと一発しか、ゲヘナは撃てないよ~」

「当てる。当てるさ。ボクが絶対に、スララを石にはさせないっ!」


 気迫のこもった言葉に、スララが嬉しそうな顔をする。

 だがその直後、凶刃が彩斗の頬をかすめる。


「調子に、乗るなよ! おらぁ――っ!」


 滑空じみた疾走で、夜津木がコンバットナイフを振りかぶる。

 三日月のごとく刃が走り、一閃、二閃。銀光があやうく彩斗のこめかみをかすり、返す刀が鼻先にまで迫りゆく。


「彩斗っ」


 スララのリコリスが、ぎりぎりのところでナイフを受け止めたが、夜津木の口が、不気味なほどに広がる。


「ヒヒハハハッ、ゲヘナ――っ!」

「スララっ! 危ないっ!」


 夜津木が右腕を差し向けるのと、彩斗がスララを突き飛ばすのは、ほぼ同時だった。黒い業火が走り抜ける。スララの肩――紙一重をかすめて、黒い大蛇は対面の岩を溶かし、戦場の端にまで突き進んでいった。


「俺も、あと一発ぅ!」


 切り札が残り少ないことで、逆に戦意が高揚したのか、夜津木の顔は炎のように紅潮して真っ赤だ。目は血走り、コンバットナイフは大きく掲げられ、口は狂気に歪んで凄みを帯びる。

 先ほどまでの彩斗なら、その姿を見ただけで、怯えていたに違いない。

 けれど今は違う。

 彩斗の中では、殺人鬼や巨人への恐れより、スララと戦いたいという気持ちが数段も勝っている。


「スララ、やってほしいことがあるんだ!」


 夜津木と離れるために、走って距離を稼ぎながら、彩斗が並走する少女に振り向く。


「――わかった。でも、彩斗、その方法だと、彩斗が危ないけど、大丈夫~?」

「平気だよ。というより、もうやるしかないんだ」


 彩斗はスララの澄んだ瞳を、じっと見つける。


「夜津木たちに勝とう! 今は、それだけを考えるんだっ!」


「――うんっ!」


 弾んだ声の後、スララは彩斗から離れて行く。

 その行動に、夜津木は一瞬迷った。スララを追うか、彩斗を追うか、刹那の空白が彼の中に生まれる。


「夜津木っ! ボクを見ろ!」


 絞れるだけ絞った声で、彩斗は叫ぶ。注意が来るように。彼の意識が、こちらに向くように。


「夜津木、お前の、負けだ!」

「ああ!? なんだとっ!?」


「ボクはもう怯えない。お前なんか相手にしても、全然怖くない。――来いよ、殺人鬼。ボクがお前を、叩きのめしてやるっ!」

「いい度胸だなおいーっ! 俺は男よりは、女を斬りたいんだがなぁ!」


 ――かかった。

 爛々と目を危なく輝かせて突進する夜津木を見ながら、彩斗は恐怖と勇気の狭間で勝利を確信する。

 夜津木はもう、闘技のルールや戦いの優劣なんてほとんど考えていない。スララに何度刃を振り向けても、まったく傷つけられなかった先ほどまでの戦いは、彼に多大なストレスを蓄積させている。


 夜津木は、誰かの血を見たくて見たくてたまらない。

 だから、それを利用する。

 スララにゲヘナを当てればいいという思考に至らせない。

 サイクロプスと連携してスララを追い詰めれば、勝ちなのだと思い出させない。


「どうしたんだよ、殺人鬼。ボク一人斬れないのか? ボクはここだ、ここだぞっ?」

「うるせえヒャッハーっ!」


 蛇のごとく腕を回し、夜津木が凶刃を閃かせる。

 彩斗の頬にかすった。髪が何房か持って行かれ、細かな切り傷が体へ無数に出来ていく。

 それでも、彩斗は逃げない。震える脚を叱咤して、萎えそうになる気持ちを必死に鼓舞しながら、挑発し、罵倒を加え、夜津木の中からスララという存在を打ち消していく。


「……あっ」

「もらったっ、左肩、いただきぃ!」


 だが、そこで彩斗の限界が訪れる。脚がもつれた。過剰な緊張と恐怖にまみれた体が耐えきれす、どさりと彩斗は背中から転んでしまう。


「ヒャハハハハ――っ」


 コンバットナイフの軌跡が、驚くほどスローモーションで動いている。

 血走った夜津木の眼と、凶悪に光る刃の煌めき。

 何か、何か武器はないのかと彩斗は思う。夜津木の攻撃を凌げるもの。この窮地をほんのすこしでも乗り越えられるもの。

 それは。それは。それは――。


「――くっ」


 あった。彩斗はとっさに右腕を差し出し、閃くナイフを弾こうと試みた。

 ――手首にある、腕輪を盾にして。

 ガキンッ、と激しい火花と金属音が響く。


「このやろ、俺の攻撃を、見切った!?」

「自分で狙う場所を叫んだろ、バカかっ!」


 一瞬の隙だった。彩斗は腕輪を突き出す。夜津木の顔面に直撃させる。


「ぐあああっ!?」


 そして彼がふらついたところを、力いっぱい突き飛ばす。

 破壊はできないとアルシエルが言っていた腕輪だ。きっとどんな名剣でも砕くことはできない硬度なのだろう。一瞬でそこまで計算してやったわけではない。気持ちだった。スララと絶対に勝ち抜くと決心した思考が、本能が、彩斗に唯一無二の打開策を提示した。

 仰け反った夜津木を尻目にして、彩斗は叫ぶ。


「――スララっ!」

「ええーいっ」


 一方で、サイクロプスと対峙していたスララがリコリスを長く伸ばす。

 それは、先程まで行った薙ぎ払いや、刺突の攻撃ではない。

 捕縛だ。スララはリコリスを、サイクロプスの右腕と左足に巻きつかせることで、自由を封じようとしたのだ。

 かわそうと、サイクロプスは跳躍を試みたが、何度も跳躍していたせいで、スララに読まれた。跳躍前の一瞬の隙を縫い――半透明の二条の房が、その太い左脚と右腕に、絡みついていく。


「引きちぎるっ!」

「させないよ~っ」


 大きく腕を振り回し、拘束を解こうと巨人が力を込める。

 だが伸びたリコリスの柔軟性は、解放を許さない。巨木のような腕が、脚が、どれほど絶大な力を秘めようと、リコリスは最強の触手となって巨人を拘束し、自由を奪う。


「――彩斗っ、今だよっ」


 それからの光景を、彩斗はあまり覚えていない。

 右手を突き出した彩斗は、念じた後、腕輪からゲヘナを放った。

 地面を抉りながら猛進する黒い業火が、大気ごと燃やし、サイクロプスへと猛進する。


 火炎が、直撃した。分厚い胴体が、巌のような巨体が、黒い大蛇のような炎に包まれていく様を、薄れる意識の中で彩斗は見た。


 ――勝っ、た……


 思うのは、それだけ。激闘を制した喜びも達成感も抱く間もなく、彩斗は夜津木の絶叫と、悶える巨人の悲鳴だけを最後に聞いて、意識を途絶えさせた。


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