第二章 煤の姫

06. 陶器でできた人形のような

 夜のうちに森をおおったつゆは葉の上で玉を形成していた。イオストラの歩みが草木を揺らす都度、露は葉の表面を滑って零れ落ちる。うちいくらかはイオストラの服の布地に吸い込まれ、なけなしの体温を奪い去った。


 濡れた服は肌にまといついて体力をも奪う。皮膚の表面がしびれたようになっていて、脳に伝わる感覚は鈍い。足は重く、上がらない。前に進もうとして足が出ず、重心だけが前のめる。体勢を立て直すことができず、イオストラは倒れ伏した。


「クソ……」


 何とか起き上がろうとするが、不思議と手足が動かない。そもそも自分はどうやって手足を動かしていたのだろうか。地面に這いつくばって、イオストラは遠い記憶を探る。土の匂いが鼻孔に広がった。


「可哀想に……」


 頭上で声がした。イオストラは苦労して顔を上げた。エルムの薄ら笑いがイオストラを見下ろしていた。


「今すぐ好きな場所にお前を移動させてやろう。それともこの場に家を出そうか? たっぷりの湯、綺麗な服、紅茶にクッキー、温かい暖炉に柔らかなベッド。何ならリャナも付けようか?」

「……リャナ……」


 イオストラはカテドラルで出会った女官の名を呟いた。

 家の再興のために必死に努力して、皇宮おうきゅう女官の座を勝ち取ったのだと言っていた。なのにその地位を捨ててついて来てくれた。イオストラが帰らなければ彼女はどうなる?

 イオストラは渾身こんしんの力を込めて体を起こす。


「無理をしたって仕方がないだろう。そうやって身を削れば報われるのか? その保証はどこにもない。だが俺にただ一言願うだけでそれは必ず叶えられる。」

「誰がお前の甘言に乗るか……!」

「そうは言いつつもお前は俺を手放さない。いざとなれば頼るつもりがあるからだ。」

「違う! 命綱さえあれば無理が利くからだ。」


 イオストラは土を握り込む。爪の間に入り込んだ土の異物感が意識にいやらしく引っかかる。


「お前を使ったら負けなんだよ……!」

「強情だなあ。」


 エルムは困ったように笑った。


「俺の力に頼るのは卑怯なことじゃない。俺は誰にでも従うわけではないのだから。さあ、言ってごらん、イオストラ。君の願いを叶えてやろう。どんな願いも、幾つでも……」

「うるさい……! 私は……私は……」


 頭にもやがかかったようで、言葉がうまくまとまらない。視界がじわじわと黒いものに侵食され、音がくぐもって遠ざかる。何かが切れたように、イオストラは意識を失った。


 精魂尽き果てたイオストラを、エルムは薄い笑みを浮かべて見下ろしていた。



*****



 その日カレンタルが山に入ったのは、全くの偶然だった。


 彼は山間にある小さな村に暮らしていた。

 かつて神聖帝国とリニョン王国の国境がこの付近にあった。国境は不動のものではなく、情勢に合わせてぐねぐねと形を変える。この地で暮らしていた人々は、二つの国の力関係に合わせて移動する国境線に翻弄されて暮らしてきた。

 たまらず逃げ出した人々が隠れ暮らすようになったのが、カレンタル達の村の起源だという。


 隠れ里めいた歴史を持つこの村も、リニョン王国なき今は神聖帝国の一部として税を収めている。おかげで村に通じる道ができ、支援も受けられるようになった。


 それでも基本は自給自足。小さな畑で作物を育て、山の獣を狩って肉とし、いつ自然に呑まれてもおかしくない細々とした生活を営んでいる。


 カレンタルは立派に成人しているが、どうにも気が弱かった。両親は共に山に呑まれてしまい、庇ってくれていた兄も二年前に仕事を求めて都会に出た。

 兄からの定期的な仕送りと畑仕事で細々と暮らしてきたが、それが村人たちには良く映らなかったらしい。彼のおどおどした態度が気に障るのもあっただろう。どうにもカレンタルには、村人たちの苛立ちのはけ口として扱われているところがあった。


 長らくそれで善しとしてきたカレンタルだったが、この日、唐突に彼の中の反骨心が顔をのぞかせた。肉屋で肉を買おうとして、たまには売ることができないのか、と嫌味を言われたのがきっかけだった。カレンタルは肉を買うのを止めて家に戻り、手入れだけは欠かさない猟銃を手に山に入ったのだった。


 実はカレンタルの射撃の腕は悪くない。村の中で彼ほど正確に的に当てる者は一人もいないだろう。だが彼は殺生に向いていなかった。銃口を正確に獲物に向け、引き金を引くのを躊躇ためらううちに獲物に気付かれ逃げられる。カレンタル自身も心のどこかでそれを望んでいるから、逃げ出した獲物を見送って安堵あんどの溜め息を吐いてしまう。子供の頃からそうだった。


 今日も今日とてカレンタルは見つけたトビジカに銃口を向けてぐずぐずと躊躇っていた。トビジカはカレンタルに気が付いているようだったが、逃げようとしない。「どうせ撃てないでしょ?」とでも言いたげな態度だった。

 トビジカが逃げないのでカレンタルは引き時を見失い、いつまでも銃口の先で獲物の姿を追っていた。


 殺生をいといつつも、カレンタルは美味しく肉を食べる。どこかの誰かが殺した肉だ。どこかの獣がカレンタルの口に入るために殺されたのだ。当たり前の生と死の循環であって、そこに参加している以上、カレンタルの手はもう汚れている。なら自分の糧は自分で得るべきではないか。

 でも、すでに死んだ肉が店頭に並んでいるのだからそちらを優先的に食べてしかるべきでは? そうしないのは自分を馬鹿にする村人たちを見返してやりたいという狭量きょうりょうな自負心のためではないのか? そんなもののためにあのトビジカを殺すのか? あんなに美味しそうに餌を食べているのに。

 そうは言っても、肉の需要は高いから仕留めさえすれば絶対に売れる。自分の行動が社会に還元されて誰かの腹を満たすのは凄いことではないか? 肉がたくさん手に入って、お金も入る。


 でもでも、いや待て、そうは言っても……。


 カレンタルが延々と殺生について思い悩んでいる間に、トビジカはたらふく餌を食って満足し、さて帰ろうときびすを返した。カレンタルはようやく狩りを失敗することができると内心で胸を撫で下ろした。


 その時、突然目の前に災厄が降り注いだ。


 しなやかな黒い巨体がカレンタルの銃口の先に現れ、トビジカに襲い掛かった。丸みを帯びた分厚い耳、金色の目、口からはみ出した巨大な牙、大きな手足の先で出入りする鋭利な爪、二股に分かれた長い尾……。魔物、ウォーパンサーだった。


「ひぃぃい!」


 カレンタルはひりついた悲鳴を上げて逃げ出した。

 トビジカを骨ごとむさぼっていたウォーパンサーの金の目が、きょろりとカレンタルに向けられた。口からトビジカの血が滴った。

 ウォーパンサーはしなやかに身をひるがえすと、カレンタルの後を追う。


「うああああああああああ!」


 カレンタルは声を限りに叫びながら、転がるように山道を駆けた。自分でも驚くほどの速度だった。ウォーパンサーが追ってきていることは振り返るまでもなく明らかだ。声もなければ足音のひとつも聞こえないが、背中に感じる圧は確かだった。

 背後から迫る恐怖に追い立てられて走り続けていると、進行方向に人の姿を見つけた。柔らかそうな銀の髪が、木漏れ日を受けてキラキラと輝いていた。


「に、逃げてください!」


 そう叫んでから、カレンタルは気が付いた。その人物の足元に、女性が横たわっている。駄目だ、とカレンタルは悟る。彼らは逃げられない。

 カレンタルは引っ掛けるようにして持っていた銃を握り直した。深く息を吸い込み、片足を軸にして振り返ろうとした瞬間だった。


「ここまで走って来い。」


 滑らかな低い声がカレンタルの鼓膜を揺らした。

 カレンタルは反射的にその声に従った。銀髪の人の足元に滑り込むようにして到達し、カレンタルは肩越しに背後を確認する。ウォーパンサーが三人に向けて跳躍した瞬間が、カレンタルの目に飛び込んで来た。


 銀の人がウォーパンサーに片手をかざす。指先が触れた瞬間、ウォーパンサーの身体が弾け飛んだ。カレンタルは腰を抜かしたまま呆然と、ウォーパンサーの消えた空間を見つめた。緑色の煙が薄く漂っていた。


「大丈夫かい?」


 陶器でできた人形のような美しい人が、カレンタルに微笑みかけた。

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