第14話

 娘が生まれてから半年後、妻が新聞の折り込み広告を一枚、私の前に差し出した。

「見てこれ、実家からも近いし、良い場所だと思わない?」

 新しく造成して作られた住宅地の広告で、土地と戸建て住宅がセットで販売されているものだった。

 その日は金曜日の夜で安本と林と飲んだ帰り。時刻は二十三時を過ぎていた。妻は余程、その広告を私に見せたかったらしく、私の帰りを待ちわびていたように見え、機嫌は良かった。久しぶりに笑顔を見た気がした。珍しく娘も眠りについていた。

「家かあ」

「ね、ローン返済のシミュレーションも出てるのよ。やれそうじゃない?」

「へえ」

「毎月節約すれば大丈夫だと思うの」

 妻が言い出したら聞かないという事は心得ていた。


 翌日の土曜日、広告の土地を見に行った。六か月の娘と外出をするには、たくさんの荷物を用意しなければならず、それは思ったよりも大仕事であった。妻は頻繁に実家へ帰っているようだったが、その度にこのような荷物を持って行くのだろうか。大変な労働だ。

 私は妻が用意した大きなバッグを二つとベビーカーを所有している軽自動車の荷台へ詰め込んだ。高校卒業後に両親が買ってくれた中古車で、主に大学への通学に使っていて愛着があった。

「この車も、小さいわよね。大きい車、欲しいね」

 妻は私の車にも不満らしかった。

「でもその前に、家よね」

 日常に溜まる不満は、家の中で発生することが多い。生後六か月の赤ん坊と過ごす家は妻にとっては一番重要な場所なのだ。分っている。それに付き合って、こうして土地を見に車を走らせている。傍から見たら、私は結構良い夫なのかもしれない。妻の事は理解しているつもりでいるのだ。

 

 広告の地図を頼りに軽自動車を走らせた。見慣れた町だ。大体の事は分かった。ここを曲がればあの駅に出るとか、さびれた文房具屋がある、とか。

 実家から確かに近かったが、それでも車で二十分は離れていた。ローカル電車の終点駅から歩いて二十分と広告に書かれた町外れ、車が無いと生活に不便な土地の上にある。車も持たず、電車だけで生活する人がこの土地に家を購入するとは思えなかった。


 到着した場所には全く知らない真新しい風景があった。森を切り開いて作った人工的に突如発生した所だ。田舎へ続く一本道の脇道を入り、短い坂道を登るとパックリ割れたような空間が広がっていた。その先にはまだ体温の無い冷たい土地が広がっていた。

 周りに広がる森の木々はこんもりと生い茂っていた。紅葉にはまだ早い十月初旬の頃だった。完全に夏が終わっておらず、暑い日と寒い日を繰り返していて、その日は寒い日の方だった。


 入り口近くに、小さなプレハブ小屋が立っていた。私たちが入って行くとセールスマンが小走りで出てきて、車の止める場所を指示した。

 妻は娘を車から降ろすとベビーカーに乗せ、ひざ掛けほどの小さい毛布で体を覆った。慣れた手つきで「寒くないかしら」と言い、何度も娘の体の隅々まで手を入れて、隙間が空いていないかを確認していた。


「いらっしゃいませ。簡単にご説明させていただきますので、どうぞ、こちらへ」

 私たちはプレハブに誘導された。

 

 プレハブ小屋はエアコンで温められていた。簡易な事務所はガランとしていて、大きなコピー機だけが異様に目立った。

「本日は、お越しいただきありがとうございます。どうぞおかけください。こちらに広告には載っていない情報がございます」 

 娘をベビーカーに座らせたまま、私たちはパイプ椅子に座った。目の前に立派なパンフレットが二冊差し出された。私と妻は一冊ずつ手に取り、ペラペラとめくりながらセールスマンの言葉を聞いた。殆どパンフレットの中身を音読しているだけの内容だった。一通りの説明に、三十分はかかった。

「それでは実際に現地をご覧になってください。どうぞご案内いたします」

 

 私たちは観光地のツアー客のように言われるままにプレハブ小屋を出てセールスマンと行動を共にした。

 身長が高く、肥満気味なセールスマンは、体よりも一回り大きいようなスーツを着ていた。暑苦しそうな様子で、ネクタイを少し緩め、歩きながら説明を始めた。

 再びパンフレットの内容を繰り返すセールスマンに、深刻な程に嫌気がさした。私はベビーカーを押し、セールスマンと妻の後ろを歩いた。


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