くじ引き、寒さ、黒い影

 文化祭準備期間初日は、こうの最後の日常だった。


『さこちゃん、よろしく!』


 佐藤香、が香のフルネームだ。もう一人佐藤がいるから、さこちゃん。

 松山さんは美人で、おしゃれで、サッカー部のマネジャーもしていて、まさに花の女子高生。

 テニス部万年補欠で顔も普通の香より、クラスの上の方の人だ。


『うん』


 だから香は松山さんのお願いを断れない。

 それが高校生活だし、香も断らないほうが色々上手くいくから、断る気もない。

 運動部女子のゆるいつながり。

 ちょっとした上下関係はあるけれど、みんなと仲良しだった。

 松山さんの片思い相手、池田君は、顔が新人俳優にちょっと似ていて、クラスの素敵な男子だ。

 池田君と松山さんなら、つりあいもとれているし、きっとうまくいく。

 香はそう思っていた。

 池田君のことが気になっていないと言ったら、嘘になる。

 でも、女子の友情の方が大切だ。

 二人が付き合うなら祝おう。香はそれだけだった。

 だったのに。


『お前ら、だいたい希望者が偏るから今年はくじ引きな! 恨みっこなしだ!』


『先生、向き不向きってのがありますって!


『それを一丸となってどうにかするのが、クラスだろ! さっさと引いた、引いた!』


 男子の抗議も虚しく、くじ引きは強行された。

 そして。


『佐藤さん、これからよろしく』


 そう言った、池田君のちょっと困ったような、愛嬌のある笑顔。

 その後ろの、能面のような無表情なのに、激しい視線を香に向けている、松山さんの顔。

 気まずい。よりにもよって池田君と同じ担当だ。

 耐えられず、香は手を上げた。


『おし、全員決まったな。役目の交換とか、するんじゃねえぞ!』


 先生わたしこの仕事苦手だから松山さんに代わってほしいです。

 そんな香の言葉は、言う前に封じられた。


『佐藤さん、大丈夫?』


 力なく腕を下ろして、がっかりした香に、池田君が優しく話しかける。

 やめて。

 松山さんからの視線が強まる。


『実は私、この仕事、苦手なの。松山さんは得意だから、変えてもらおうと思ったけど』


『別にいいんじゃない? 僕もサポートするし。一緒に頑張ろうよ』


 やめて。その答えは一番まずい。

 だけど、池田君の好意を断っても、松山さんが不機嫌になる。

 そっと、香は松山さんをうかがう。

 泣き出す寸前の、真っ赤になった松山さんの目と、目があってしまった。

 そして、香の高校生活は暗転したのだ。

 昼食をそれとなく避けられ、仲がいいと思っていた松山さんたちとの会話も、必要最小限に。

 小テストの範囲を聞けば答えてくれるし、嫌がらせもないので、そっけないただのクラスメイトになった、といった感じだ。

 それでも仲良くしていた女子との関係が変わったのには間違いない。

 大丈夫か、と香は池田君に心配された。

 大丈夫、と言ってそれとなく松山さんと池田君が一緒にいるように香は仕向けたが、池田君はさらに香に対してあれこれ気を使う。

 そして、松山さんの香に対する当たりは、さらにきつくなる。

 香にとって、最悪の日々の幕開けだ。

 全部、担任が決めたくじ引きのせいだ。

 担当をはじめ、大人はなにもわかっちゃくれない。

 そのくせ、見当違いな配慮で全部ダメにしていく。

 だからこのことは親には話せない。

 大人は、私たちがどれだけ毎日頑張っているのか、一ミリも理解しようとしてくれない。

 みんなと、なにごともなく、和やかに。

 活躍もしない代わり、悪目立ちもしない。

 みんなと一緒にいるために、みんなと同じバラエティやドラマを見ながら宿題をこなして、SNSのメッセージが来たら早すぎず遅すぎないくらいで返して。

 昼もみんなと弁当を食べて、適当に話を合わせて、普通に振る舞って。

 体育祭や文化祭のちょっとした非日常を、さぼりもせず、大真面目にすることもなく、楽しくみんなと合わせて過ごして。

 非日常が終わったら、帰りにカラオケとかファミレスで打ち上げをして、授業の日々に戻っていく。

 それが、平和な高校生活だ。


「それは……しんどいことがありましたね」


 しみじみと、心から共感してくれるマスターの声が、香の胸に染み渡る。


「本当に、どうしてこんなことに……なにか、悪いものにとりつかれているんじゃないかってくらい、悪いことが続いてしまって」


 口が乾いてきちゃった。

 香はコーヒーカップに口をつけたが、空になっていた。

 しかたない。香は生姜糖しょうがとうをつまむ。

 砂糖の甘さに続いて、生姜のからさが口の中に広がる。

 からい。でも、なめているうちに体のすみずみまでぽかぽかしてきて、何だか優しい味だ。


「おいしいです……」


「よかったです。サービスした甲斐がありました……ふむ」


 マスターの目がゆっくりと開く。

 滔々とうとうと流れる大河のような青が、香をとらえた。


「なるほど」


 一瞬で空気が変わる。


 和やかな癒しはどこかに逃げ去っていて、今や、寒々とした山の中のような張り詰めた空気が店を支配していた。


「だから、そんなものが来ると、クダンが言ってくるわけですよ。冗談だと思っていましたが」


「僕は未来が見えるが嘘は言わない。クチナも知っていることだろ」


 青年がほおをふくらませる。子供っぽく微笑ほほえましいしぐさだったが、香は和むどころではなかった。


「そんなもの、って……」


 緊迫した空気の中、店内を照らすランタンの光は、あたたかなたき火のオレンジではなく、日が落ちる前の逢魔時おうまがとき禍々まがまがしい朱色のように香には感じられた。


「お嬢さんはわからない方がいいでしょう。普通の人にはわからない、あやかしになる前の悪しきのかたまり、と言ったところでしょうか」


「なにそれ」


「ここに来て、温まったはずです。ですが、まだ寒くはありませんか?」


 寒いかどうか。香は考えてみる。指先も足先も、首元もぽかぽかだ。

 おなかもコーヒーで温まっているはず。

 だとしたら。


「背中が冷たいような気がします」


 香が答えると、マスターは朗々とした声で宣言した。


「あなたについてきているモノを、はらいます」


「えっ?」


「お嬢さん、すまないね」


 いつのまにか、香の後ろにはひげもじゃの老人が立っていた。

 老人の白髪と髭と一体化しそうな、真っ白な大筆のようなハタキが、香の背中をなでた。


 次の瞬間。


 絹を裂くような甲高い悲鳴があがった。

 積もり積もったホコリをはたいたときのように、不定形の真っ黒な煙のようなナニカが、香の背中から飛び出した。

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