第6話 燃えて、燃やして

6-1

「おなかへった……」


 かすかに正気が戻った赤い瞳が、また徐々に輪郭を失っていく。早水 大祐は大いに焦った。

 この行き倒れの少女をどうしたらいいのか。警察に連れて行くか、または病院に連れて行くか。しかしそれらの施設へ少女を運んでも、万事解決とはいかないだろう。少女の所持品はゼロで、保険証も身元を確認できるなにかも持っていない。――いや、それどころではなかった。

 猫耳に尻尾。この少女は、そもそも人間なのか?


 ――きっと、ややこしいことになる。


 大祐はぞくっと震えた。


『この怪しい少女は何者だ?』

『お前との関係は?』


 医者や警察官に厳しく問い詰められている自分の姿が、大祐はありありと想像できた。

 しかし自分だって、少女についてなにも知らないのだ。倒れているところを発見しただけ。だから聞かれても困る。


『どうしてこの子はこんなに衰弱しているんだ?』

『どうせお前がなにかやったんだろう?』

『さらって監禁でもしたのか? それともレイプか?』

『白状しろ! この犯罪者め!』

『ニートめ! 社会不適合者め! のろまなブタめ!』


「うああああああ!」


 自身の妄想に詰られ、傷つけられ、大祐は膝から崩れ落ちた。


 ――俺が悪いんじゃない! 挫折した人間に冷たい、この世の中が狂っているんだ!


 硬い地面に手をつき、大祐は昨今の無慈悲な世相に声なき声を上げた。が、今はもちろんそんなことをしている場合ではない。

 では、どうしよう。

 二択である。少女を見捨てるか、助けてやるか。


「……………………」


 大祐は少女を見詰めた。キテレツな衣装に、本物の猫耳。この少女は恐らく、ファンタジーの中の人だ。

 剣と魔法の不思議な世界。そのような界隈に、大祐は憧れていた。だが実際にそこで暮らしている人間と接触を持ってみると、嫌悪に近い恐れを抱いてしまった。

 少女は可愛い顔だちをしている。が、彼女の赤い瞳やパサパサで枯れ草のような色の髪は、自分の風貌と違い過ぎてなんだか怖い。そのうえ少女は長いこと風呂に入っていないのか、垢と汗の匂いが酷く、鼻が曲がりそうだった。

 女は二次元に限る。かの格言を、大祐は本日、実体験を経て理解した。

 だから、「見なかったことにしよう」。心の天秤がそちらに傾きかけたとき、しかし大祐は、とある男と交わした約束を思い出した。


『決行は一週間後でいいか?』


 大祐の丸い顎から滴り落ちた汗が、アスファルトにシミを作る。


「……………………」


 ビルとビルの狭苦しい隙間は、だが古びたコンクリートの壁が夏の陽光を遮ってくれて、いくらか涼しい。おかげで大祐の頭は冷え、決心がついた。


「しょうがない……。どこでどう縁が繋がってるか、分かんねーし。それに俺は、勇者になるかもしれない男だ……」


 大祐はため息をつくと、どっこいしょと大きく重たい尻を上げ、少女に手を差し出した。しかし少女は電池の切れたおもちゃのように動こうとせず、ぼーっと大祐の手のひらを眺めている。


「ほら、立てよ」


 しびれを切らした大祐は、少女の腕を掴むと強引に立たせた。そのまま彼女の上半身を抱え込むようにして支え、ビルの隙間から脱出する。

 本当はお姫様抱っこだとかスマートな運び方もあろうが、大祐には腕力もなければ、そもそも女性の扱い方が分からない。せいぜい少女が転ばないように気をつけつつ、ふらふら歩くしかなかった。

 運良く、すぐにタクシーを捕まえることができた。少女を後部座席の奥へ押し込み、自分も手前の席に腰を落ち着けながら、大祐は運転手に指示した。


「えーと、K駅方面に向かってください」


 車が動き出した直後、少女はシートにだらりと体を預け、気を失うように眠ってしまった。

 しばらくして大祐は、運転手がルームミラー越しにちらちらと、少女の様子を伺っていることに気づいた。そりゃ確かに、どこからどう見ても怪しい客だろう。車内のクーラーのおかげで引いた汗が、再び湧き出てくる。


「お客さーん……」

「あ、は、はい?」


 運転手は年配の男性だった。ルームミラーに映る目が、きょろきょろと動いている。


「お連れさんさあ……」


 なにを言われるのだろう。大祐は身構えた。


「それ、コスプレってやつでしょ?」

「――は」

「いやね、うちの娘もそういうのやっててね。娘のさ、部屋ね、布やら糸くずやらでぐちゃぐちゃだって、女房がいつも怒っててねえ。家の手伝いもしないで、休みになると撮影だなんだと飛び出してって、困ってるんですよ」


 大祐はホッと胸を撫で下ろし、そのまま運転手の勘違いに乗っかることにした。


「そうそう、そうなんです。ぼ、僕たちも撮影やってたんだけど、ツレが気分悪くなっちゃったみたいで……」

「ああー、暑いもんねえ。こんな夏の盛りに外で写真なんて撮ってたら、体調もおかしくなるよー」


 運転手はミラーを通して、嘲笑と同情が混ざった眼差しを大祐に向けた。


「本当にそうですね。気をつけます……」


 そのあとは運転手が娘の趣味について語るのを、ひたすら聞いた。

 タクシーから降りると、大祐は半分眠った状態の少女を引きずるようにして、なんとか自宅に入った。

 三十坪に満たない小さな一戸建ては、父の死により、残っていたローンが免責されている。せっかく両親が残してくれた家なのに大事にするでもなく、たいして掃除もしないから埃っぽい廊下を、大祐は少女を抱えて進んだ。奥の和室に着くと、畳の上へ投げ捨てるようにして寝かせてやる。


「腹減ったっつってたな」


 エアコンを点けてから、大祐は台所を漁った。料理なんてしないから、家にあるものといったら、レトルトやインスタント食品、ジュースと菓子類といったところだ。その中から適当に見繕って、倒れたままの少女の前へ並べてやる。


「……!」


 少女の可愛らしい鼻が、ひくひくと動いた。


「こんなもんしかねえんだけど、食えるか?」


 素早く体を起こし、座り直した少女は、お湯の入ったカップラーメンを物珍しそうにまじまじと眺めた。


「三分経ったから、もう食えるぞ。ほら」


 フォークを渡してやると、少女はラーメンの蓋を開けて匂いを嗅ぎ、恐る恐る中身を一口、二口、啜った。どうやら気に入ったらしく、そのあとは勢い良くがっつく。


「美味しい。あったかい……!」


 あっという間にラーメンを平らげると、少女は自分のために置かれた食料に、次々と手を伸ばした。


「おい、ゆっくり食べないと……!」


 直後、少女の手が止まる。顔色が真っ青だ。


「う……!」


 近くのくずかごを抱えると、少女は食べたものを全て吐いた。


「うわっ、汚えな! もー、だから言っただろうが……」


 仕方なく大祐は、少女の背中をさすってやった。


「でも、おなかへってたんだ……」

「戻しちまったら意味ないだろ。ていうか、やっぱり刺激が強かったか……。もうちょっと体に良さそうなものを買ってきてやるから、とりあえず寝てろ」


 少女はのろのろと再び体を横たえた。汚れたくずかごを片してから、やっぱり直に畳に寝かせるのは可哀想かと、大祐は少女のために布団を敷いてやった。


「ほら、こっちで寝ろよ」

「……………………」


 少女は這うようにして、布団の中に潜り込んだ。


「えーと、買ってくるのは食い物と……。あとほかに、なんかいるもんあるか? 女だしなあ。臭えし、風呂にも入れねえと」


 少女の寝ている近くにノートパソコンを運んで、大祐は色々と調べ始めた。胃腸に刺激の少ない食べ物について、女性に人気のボディーソープ、シャンプー、その他……。


「あーあ、こんなことやってる暇ねえのに。こっちにいられるの、あと一週間もねえんだぞ。まったくよう」


 大祐はぶつぶつ文句を言うが、彼の脂ぎった横顔は、ここ数年ぶりにいきいきと輝いていた。









 陽の光がたっぷり注ぎ込む、明るく清潔なキッチンに、いかにも美味しそうな匂いが漂っている。愛、そして幸福の象徴のようなその空間には、しかし不似合いなものが二つ存在していた。

 ひとつは、浅黒い肌の大男である。名をイズーという彼は、類まれな魔法使いだ。己の知識と魔力を高めるためなら手段を選ばぬ男で、血も涙もない破壊神として恐れられていた。しかしここでは「恋人のために料理の腕を磨く、健気で純情な青年」でしかない。

 そしてもうひとつの違和感は、大きな鍋の上にちょこんと腰掛けている、小人である。


「精霊なあ。そりゃ俺たちよりも、八百万の神さんがたに近いんじゃねえか?」


 小人は尖った顎を撫でながら、なあ、と同意を求めるように、イズーの背後を覗き込んだ。小人が目をやった先にはオーブンレンジがあるのだが、その前にもう一人、小人が浮かんでいた。鍋の上の小人は肌も白く、金髪なのに対し、レンジの前の小人は、墨を零したかのように全身真っ黒だった。

 小人たちの正体はそれぞれ、両手鍋の付喪神、オーブンレンジの付喪神である。

 小人というと、絵本に描かれているようなメルヘンチックで可愛らしい姿を思い浮かべるかもしれないが、台所にいる彼らはどちらも目鼻が大きくゴツゴツとしており、妖精というよりは妖怪に近い見た目をしていた。


「やおよろずのかみ……?」


 イズーは持っていた小さなメモ帳に、聞き慣れないその言葉を書き込んだ。


「俺ら付喪神は、人の作ったモノに宿るあやかしだからよ。もっと根源的っつーの? お前の言った精霊っつーもんに近いのは、やっぱ八百万の神さんだなあ」


 部屋にはたくさんの付喪神がいるのだが、喋ったり騒いだりするのはもっぱら両手鍋の付喪神で、そのほかは静かなものだ。


「ふむふむ」


 イズーは両手鍋の付喪神が教えてくれたことを、メモ帳に書き加えた。最近こまめに書き留めるようになった彼のメモの内容は、料理のレシピからオカルト情報まで網羅しており、かなり混沌としている。

 精霊は、イズーの世界においてポピュラーな生き物だった。ありとあらゆるところにいて、たいていの人間が視認できたのだ。しかしこちらの世界で精霊に代わる存在である「八百万の神」とやらは、幽霊や付喪神と同じく、限られた人間にしか見えないらしい。


「その八百万の神とやらには、どこに行けば会える?」

「そりゃ、自然のあるところじゃねえの? この近くだったら……ちょっと行ったところに、でっかい川があるだろ。『多魔川(たまがわ)』。あれは大昔からある川だから、神さんも宿ってるはずだ」

「なるほど……。――あ、ちょっと、どいてくれ」


 そこまで話したところで、イズーは火にかけていた鍋の蓋を開けた。ふよふよと宙に浮かびながら、両手鍋の付喪神は、鍋の中身を覗き込んだ。


「さっきからなに作ってんのかと思えば、スープかよ。ありきたりだな~」

「毎日の食事にサプライズはいらんだろ。野菜たっぷりで薄味。美味くて体にいい。それに勝るものはない」


 スープの味見をしてから、イズーは隠し味に少しだけ醤油を垂らした。


「風吹はあまり朝飯を食べないから、少しでも栄養の取れるものを作らんとな……」


 今度はピーピーとやかましく、電子音が鳴り響いた。オーブンレンジに入れておいたものが、焼き上がったらしい。イズーは鍋つかみを両手にはめると、いそいそとオーブンの天板を外し、シンク横の作業台に置いた。


「なに焼いたんだ?」


 香ばしい匂いに誘われるように、両手鍋の付喪神とオーブンレンジの付喪神が寄ってくる。


「ビスケットだ。ごまとチーズを入れて、あまり甘くしないで作ってみた」


 イズーは焼きたてのそれを摘み、しばらく空中で振って冷ましてから、ひょいと口に入れた。


「ビスケット。……ビスケット!?」

「なんで二回言う。小腹がすいたときにいいだろ。風吹に持たせてやろうと思って」


 イズーはまだ熱いビスケットを二つに割ると、付喪神たちにおすそ分けしてやった。


「こいつそのうち、刺繍とかもやりだすぜ……」


 付喪神たちは呆れたように囁き合う。しかしイズーだって、まるっきり全ての牙を抜かれたわけではない。先ほどのメモを取り出し、読み返す眼光は鋭かった。


「多魔川か。今日の午後、ちょっと出掛けてみるかな……」

「なんだこれ、うめえな! うめえ!」


 イズーが作ったビスケットは、サクサクと歯ごたえがあって美味しかった。付喪神たちは夢中で食べるあまり、気づかなかったようだ。――イズーの形良い唇が、邪悪な笑みを刻んでいることを。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る