番外編4
大海を落ち葉のように漂う小舟の上で、少女は目を覚ました。どうやら気を失っていたらしい。
日差しに焼かれた全身が熱い。体を起こせば、血糊で張りついた服が、べりべりと音を立て、船底から剥がれた。
意識がないままのほうが、良かったかもしれない。体のあちこちが痛かった。
頭のてっぺんにある自慢の耳も千切られてしまったし、左腕は折れているのか、少しでも動かせば激痛が走った。打ち身と痣だらけで、息をするのもつらい。
それでも運は良かったのか、少女を乗せた小舟は風に運ばれ、陸に着いた。
少女が目指した場所――人が忌み嫌う、呪われた孤島へ。
なんとか舟から降りて、少女は足を引きずって歩いた。周囲には人間のみならず、生き物の気配すらない。――さもありなん。なぜならここは、恐怖の象徴である、魔王の根城があるからだ。
島の中心に建つ「真紅城」と名のついたそこには、すぐにたどり着いた。
荘厳なる佇まいの、美しい城。
正気だったならば畏怖の念を抱き、足を踏み入れることなどできなかったかもしれない。だが今は、感覚が麻痺している。
少女は魔王城の重たい扉を体当たりするようにして開けて、一心不乱に進んだ。
城の構造は予め聞いていた。入ってから西をひたすら目指せば、階段がある。そこから地下に下りれば、「開扉の間」に着く、と。
「開扉の間」は、ほのかに明るかった。壁に設置された、精霊灯のおかげだ。しかし主を失って長い時が過ぎたというのに、ひたすら命令に従い続ける精霊たちの舞いが、少女には物悲く感じられた。
「開扉の間」の奥へ向かい、壁に突き当たったところで、少女は腰につけたポーチから一通の手紙を取り出した。彼女が生まれる前から、代々ずっと大切に保管されていたものだ。何度となく読んだ文面に、少女は再度目を通す。
『勇者が行方不明になりました。恐らく一人で異界に向かったものと思われます。私とクララも後を追おうと思います。念の為あなたにも、「異界の扉」の開き方をお知らせしておきます。今後、世は乱れるでしょう。魔導師が連れていた獣人の少女を匿ったことで、あなたにも災難が降りかかるかもしれません。そのときは、異界に身を隠すことも考えてはいかがでしょうか。お節介かもしれませんが、束の間でも仲間だったあなたが心配なのです。ゲントー』
それ以降の文字は、血が足りないのかクラクラして、あまり良く見えない。が、暗唱できるほど繰り返し読んでいたので、大丈夫だろう。
覚えていた呪文を少女が唱えると、壁から取っ手が現れた。それを握り、手紙に記された内容を思い出しつつ操作すると、今度は壁にぽっかり穴が空く。
穴の中は真っ暗で、どうなっているのか分からない。しかし少女は、微塵も恐怖を感じなかった。
この世界に残ったほうが、よっぽど悲惨な目に遭う――。
穴に入り込んだ途端、少女はバランスを崩し、転んでしまった。しかし地面は柔らかく、まるでふかふかの絨毯のように、彼女を優しく受け止めてくれた。
立たなければと思うが、あまりに心地良くて、体から力が抜けてしまう。――少女は、そのまましばらく眠ってしまったらしい。
目を覚まし、慌てて起き上がると、少女の全身の痛みはなぜか消え失せていた。驚いたことに、骨折していた左腕も自由に動くし、頭を触ってみれば、ボロボロに引きちぎられた耳も元に戻っている。
奇跡だ。それとももしかしたら、自分はもう死んでしまったのだろうか。少女がそんな不安に包まれていると、どこからともなく誰かの声が聞こえてきた。
『どこへ行きたい?』
突拍子もないその問いは、するすると少女の心の奥に入り込み、答えを引きずり出した。
「まおうのところへ。まおうにあいたいんだ」
言葉にしてみれば、ますますその想いは募り、血が滾る。
――魔王を倒す。魔王を殺す。そして自分があとを継ぎ、新しい世界を作るのだ。
揚げたての春巻きを箸で摘み、かじりつく。皮がパリッと小気味良い音を立てた。
「若い男の子なんて、そんなもんじゃないの~?」
幻燈の前では彼の愛妻が、温かい麦茶を飲んでいた。
妻の名は、海月 クララという。クララは帰りが遅かった夫より先に、夕食を済ませたようだ。
「ネットだと人格変わる人って、多いらしいわよ」
クララはダイニングテーブルに並べられた写真を手に取り、目を細めた。たくさん撮ったそれらに収められているのは、魔導師イズーである。本日彼の住まいを訪れた際に、幻燈がこっそり撮影してきたものだ。
「にしても、いい男ね~」
イズーは確かに、黙っていればイケメンである。
クララも元の世界では、勇者に同行していた。だが魔王城でやり合ったとき、イズーは頭からすっぽりローブを被っていたから、彼の素顔を見たのは今日が初めてなのだ。
写真の隣には、何枚かの紙が置かれている。ネット上の書き込みをプリントアウトしたもので、「黒き魔導師」を名乗る人物、つまりイズーの発言がまとめられていた。
幻燈とクララは、「漆黒と混沌」という名のオカルト系SNSに、「黄泉の国のナギナミ」というニックネームを使って、潜伏していた。通称「しっこん」上に、魔王や魔導師の情報が引っかかるのを待っていたのである。
そして二週間ほど前から、「しっこん」に、やけに魔法に精通したユーザーが現れるようになった。
その者の名は「黒き魔導師」。――イズーである。
権力者ほど日々の悩みは深く、道標を求める。占いは彼らがすがるのにうってつけで、その道の実力者として名を馳せていたクララは、多数のお偉いさんを顧客として抱え込んでいた。そしてそれら顧客の力を利用し、幻燈たちは「黒き魔導師」の個人情報を得たのである。
とはいえイズーの情報を得るのに、IPアドレスを辿り、うんちゃら……と小難しい技術も手間も一切不要だった。イズーはSNSのプロフィールに、ご丁寧にも住所からなにから余すことなく、事細かく入力していたので……。一応は「しっこん」の管理者だけが参照できるその情報を、幻燈たちは前述のコネを使って見せてもらっただけだ。
イズーには同居人がいることも分かったので、その人物――風吹の素性も洗った。
つまり――。幻燈らが風吹の勤める会社に自宅のリノベーションを依頼したのも、そして風吹の部署がその案件を担当することになったのも、偶然ではないのだ。
「ネットだと人格が変わるって、あなたはどちらが本当の魔導師だと思うんですか?」
「そりゃ、ネットでダラダラ書き込んでるほうでしょ。鬱陶しいけど、恋に迷う彼の言葉には嘘がないわ。あなただって、分かってるんじゃないの?」
「……………………」
幻燈はムスっとしながら、ご飯を口に押し込み、咀嚼した。
「思うんだけど、別にあのイズーって子は、まだなにも悪いことをしてないのよね。魔王にも接触してないし。こっちの世界を征服しようだとか、そういうことも考えてないみたいだし」
「でも彼がその気になれば、容易いでしょう。世界征服も、大虐殺も」
「だから、その気になれば、でしょ。今の彼は、そんなものには興味なさそうじゃない」
「……………………」
今は確かにクララの言うとおりなのだろう。だが、いつ気が変わるか分からない。
元の世界において、イズーは恐るべき魔法使いだった。彼の強力な魔法の犠牲となった者は、数知れないだろう。だがそれは別に、イズーの性格が残虐だからだとか、そういうことではないのだ。幻燈は今日、彼に会ってみて分かった。
イズーはただ、魔法を極めたいと思っている。己の能力を高めるためなら、なんだってする。そこに罪の意識はない。しかしその純粋さが、幻燈は恐ろしいのだ。
硬い表情のままの夫を見て、クララは苦笑する。
「あなたって、本当に真面目よね。帰れなくなってしまったことが、故郷を見捨てたような気がするんでしょ? だから災いとなる可能性のある魔導師くんに関わり、見張ることで、罪悪感から逃れようとしている。違う?」
「……………………」
幻燈は一瞬箸を止めたが、すぐにたっぷりと肉の乗ったサラダを、黙々と口に運んだ。
「あなたにはそういう贖罪の気持ち、ないんですか?」
「ないわ」
クララは即答した。
「私たちは別にヒーローでもなんでもないし、世界を救う義理なんてないもの。まあ強いて言えば、その役目は勇者が果たすべきだったのかもしれないけど。ほら、『勇者』っていうくらいですからね。でも、あれって単なる特異体質だし。本当に世界を救うべきなのは、為政者でしょ」
「まあ……そうなんですけど」
幻燈の顔つきは、幾分か柔らかくなった。
「予言のことも、気になりますし」
「まーねー。あ!」
テーブルの上の紙を取り上げて、クララはニヤニヤ笑う。
「ねえねえ、そういえば、『黒き魔導師』くんてば、彼女に子作りを拒まれて凹んでるみたいよ」
幻燈の眉間に、再びシワが寄った。
「それはいけない。魔導師殿は、前の世界の感覚が抜けていないんですね。こちらの世界で子供を作る、そして育て上げることがどれだけ大変なのか、分かっていない」
「そうそう。先輩として、教えてあげなさいよ。これ以上ヘタこいたら、魔導師くんてば、風吹ちゃんに捨てられちゃうわよ。それが世界を滅ぼすきっかけになりかねないわ。失恋は絶望を招くもの」
「あ、確かに」
幻燈はため息をついた。
「結局、私がせねばならないのは、若造のお守りですか……。もうちょっと、崇高なミッションが待っているかと思ったんですが」
「あら、迷える子羊を導くのは、古来より聖職者の大事なお仕事じゃない」
幻燈が差し出した茶碗にお代わりをよそってやりながら、クララは微笑んでいる。
~ 終 ~
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます