第2話 僕の事情

 十五歳の春、僕は高校受験に失敗した。絶対に受かる自信のあった志望校の受験日によりにもよって駅の階段を踏み外し、昏倒して救急車で運ばれた。

 目覚めた時には試験は終わってしまっていて、結局入学できたのは考えても見なかった底辺校になった。

 いっそ高校浪人しようかとか、考えなかったわけじゃない。でも、さすがに一年乗り遅れる勇気はなかった。

 ここは自分の居場所じゃない。

 そんな気持ちは周りにだって通じてしまうものなんだろう。僕はクラスの中で明らかに浮いた存在として一年を過ごし、そのまま二年生の一学期を終えた。

 二年生の夏休みに一人で母方の祖父母の家に滞在したのは、父の海外出張に母が同行する事になったせいだ。別に一人で留守番でも構わないのに、両親は僕を離島にある母の実家に預けた。

 高校に入ってからの僕はたぶん狂ったように勉強していた。自分の居場所に戻りたいと、それだけを思いつめていたからだ。

 学年で一番は当たり前。

 この学校で一番でも、そんなのはたいした事じゃない。レベルの高い学校なら僕くらいはいくらでもいる。僕がこんなところにいる間に彼らは切磋琢磨してさらに高めあっているだろう。しつこく業者テストを受け、順位と偏差値を確認しても、不安はまるで消えなかった。

 ともすれば不安に目を覚まして、そのまま夜中に勉強を始めたりする。眠った方が効率がいいとわかっていても、焦りに焼かれるような気持ちで眠るなど、できるはずがなかった。

 たぶんそんな事も、両親が僕を祖父母に預ける気になった理由だったのだろうと思う。



 祖父母の家でも予備校のインターネット授業を活用して、勉強に勤しむ予定だったのだけど、祖父は僕が勉強だけに勤しむ事を許してはくれなかった。

 母の実家は離島にあるが、母は離島出身ではない。祖父母は母が独立したあとに離島に移住してきたからだ。祖父の趣味は海釣りで、それが離島に移住した理由らしい。

 祖父は僕が釣りに興味がない事は、理解し許容してくれた。しかし、朝から晩まで机に向かう生活をすることは許容してくれなかった。祖父に言わせればそんな生活は、島の自然と海に対する冒涜なのだそうだ。僕は雨の日以外は朝食を食べると強制的に、外に放り出された。

 陽子と初めて出会ったのも、午前中の海辺での事だ。

 海に張り出した岩に腰掛けて、ゆるゆると泳いでいる人影をぼんやり眺めていると、その人影が仰向けに浮かんだ。その仰向けになる様子があんまり自然だったから、つい目を向けてしまったのだと思う。海面に浮かんでいるというよりは波に寝転がるという方がしっくりくるぐらい、当たり前のように、仰向けに浮かんでいた。

 それからしばらくの間、寝てるのかなって思うくらいずっと浮いたままでいて、それからひょいっと起き上がる感じで泳ぎだすと、スルスルと僕の方に近づいてきた。

 人影がかなり近づいて、やっと僕はそれが女の子なのだと気づいた。

 肩ぐらいの髪は両耳の後ろにサイドの髪だけくくってあって、後ろは首や背中に張り付いている 

 髪の色素は薄くて肌はよく焼けているので、全体になんだか薄茶色っぽい印象だ。僕が腰掛けていた岩によじ登ると、ふうっと息をつき、それから僕をはじめて見た。

 「誰?」

 その言い方でこの岩場が、彼女がいつも使っている場所なのだとわかった。闖入者はどう考えても僕のほうだ。

 「あの…」

 口ごもった僕を見て、彼女が首を傾げる。

 「泳ぎにきたってわけじゃないの?」

 彼女はたぶん僕の服装を見てそう言ったんだろう。短パンにTシャツにスポーツサンダル。最近の水着なら普通にある組み合わせだ。

 「いや、その、僕は泳げないから。」

 実際に僕は泳げなかった。いや、学校の授業でなら、ぎりぎり二十五メートルは泳げないこともない。けれどもそれは凪いだ水のプールだからできる話で、絶え間なく波に揺れる海で通用するとは思えなかった。

 「浮けない?」

 いや、さすがにそれは出来る。プールだったら二十五メートル泳げるわけだし。

 「ふうん。じゃあ大丈夫だね。」

 そう言うと、彼女はいきなり僕の腕に飛びついて、海面の方に引っ張った。バランスを失った僕は呆気なく海に落ちる。

 思いっきり海に潜った僕は、足先に触れた海底を蹴って慌てて浮き上がる。海面から頭を出すと、目の前で彼女が笑っていた。

 「おい…」

 「上を見て。」

 言われて、つい反射的に見上げてしまうと、太陽の眩しさに目が眩む。

 「力抜いて。そのまま寝そべって。」

 肩を押され、引っ張られて仰向けに水に浮かんだ。

 ー頭から水に突っ込む勢いでのけぞれ。そうすりゃ浮くから。

 昔、そんな事を誰かに言われたのを思い出す。

 「ね、気持ちいいでしょ。」

 どうだろう。なんだか背中が心もとない気もする。

 「私は陽子。太陽の子どもで陽子だよ。」

 陽子は自分も波に寝そべって、そう名乗った。

 「僕は海斗。海に北斗七星の斗。」

 「海の星?ヒトデ?」

 そう言われてびっくりした。名乗ってヒトデだなんて言われたのは初めてだ。

 「初めて言われた。」

 英語の凧なら言われ慣れているけれど。

 「だって海の星ってヒトデだよ。」

 そう言われると確かにそうなんだけど、名付けた親も気づいてないと思う。

 「ここ、流されにくいから、寝そべるには向いてるんだよ。」

 陽子はそう言って、そのまま僕らはしばらくただ浮いていた。

 しばらくすると陽子は気が済んだのか、起き上がって岩に上がった。僕も同じように岩によじ登る。

 そのまま岩の上を二人でペタペタ歩いて陸に戻る。

 「またね。」

 なんの約束もなくそう言って、陽子は去って行った。

 僕もそのまま祖父母の家に戻り、シャワーを浴びて着替えてから、いつもどおり勉強をした。

 日に当たって海に浸かったせいか、その夜はぐっすり眠った。

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