9話――鎖





 ……窓が、開く音がした。


 カラカラと、窓が開いて、すうっと夜風が入り込んでくる。冷気が足元から駆け上がって、俺に絡みつく。


「あっ、ウィルっ。やっぱりここにいた」


 タッと何者かが床に降り立つ音がする。

 見るまでもなく、声で分かった。


「……まったく、エレナちゃんてば面倒な結界張ってくれちゃって…………」


 幼馴染のアリアだ。


 俯いて一瞬何かをブツブツとつぶやいたアリアは、バッと俺の方を見て、表情を綻ばせる。

 花が咲いたような明るい笑顔で、俺に笑いかけた。


 俺の心の中が安堵で満たされる。

 アリアの顔を見て、安心することができた。

 きっとそれは、『異常』になってしまったエレナではない、見知った人に出会うことができたからだ。

 三日間ずっと拘束されていた俺の精神は、ほとんど限界に近かった。


 アリアなら、あるいは、エレナを抑えることができる。

 今は『異常』にしか見えないエレナも、一旦落ち着かせて、ちゃんと話し合えばまたいつもエレナに戻ってくれるはずだ。

 またいつもみたいに気軽に笑いあえるはずだ。


 そう思考した俺は、アリアに全ての事情を話そうとして、踏み止まる。


「――――」


 俺はジッとアリアの笑顔を見た。

 そんな俺を不思議に思ったのか、アリアは首を傾げた。

 いつもと変わらない、アリアの何気ない仕草。


 いつもと変わらない。その筈なのに――、


 ――その時、俺は先日のことを思い出す。


 エレナに拘束されることになる直前、アリアに『告白』された、その時のことを。


――――あー、もう、ウィル、大好き。


 だけど、まぁ、それは今の所は保留にしてもらっても問題ないだろう。

 アリアだって、そのへんの時と場合くらいはわきまえてくれる筈だ。


 俺はアリアを見る。そこには、理性の宿った瞳。アリアは未だに首を傾げていた。


 

――――お兄ちゃん、大好き。



 いつかのエレナの言葉が脳裏を過って、酷い寒気が身体中に走った。


 その時、首を傾げて不思議そうにしているアリアと目が合った。


 アリアが、微笑む。


 その笑顔が、なぜかエレナの笑顔と重なった。

 再び襲いかかる寒気。


 アリアにまで怯えるなんて、どうやらエレナのことが相当に精神にきているらしい。

 俺は一つ大きく深呼吸して、アリアに一歩近づいた。

 アリアはそんな俺の行動をどう思ったのか、一つ頷いて俺の目の前に立つ。

 小さく首を傾けて微笑み、俺に手を差し出すアリア。

 

「ほら、はやくあたしと一緒にいこ? あたしはちゃんと分かってるよ? ウィルはエレナちゃんに脅されてたんでしょ? そんな気がする」


 まさか、アリアは今の俺が置かれている状況を全て把握して、ここに駆けつけてくれたのか。

 言い知れない、幼馴染に対する感情がこみ上げてきて、思わず涙が出そうになった。


「でもあたしと一緒にいれば大丈夫だからさ、……あたしがちゃんと、ウィルを守ってあげるから。……だから、ね? ね?」


 ある種の感動に揺らされて、その場に棒立ちになっていた俺を、そっとアリアが優しく抱き込んだ。


 やわらかい。

 人と触れ合う温もりが、ここまで精神を安らがせてくれるとは思っていなかった。

 ここまで来ると、本当にアリアという女の子に惚れそうになって、


 あの時の告白を受け止めて、アリアとずっと一緒にいるのが最善に思えてきて――、


 ――ピチャ、と、小さな小さな水音が聞こえた。

 エレナから逃げる時に負った額の傷に、何か、濡れた柔らかいものが触れた。


 ドクン――、と『何か』を悟った心臓が跳ね上がった。


 俺は訳がわからないまま正面のアリアを見る。

 すると再び、額の傷に濡れた何かが触れる。


 アリアが、俺の額を舐めていた。

 優しく、労わるように何度も舐められる。


「――」


 やがて額を舐めるのをやめたアリアは、少し血に濡れた舌で、唇を湿らせた。


 ……あぁ。


「大丈夫、大丈夫だから……。あたしが一番ウィルのことを分かってあげられる。愛してあげられるから。……好きだよ、ウィル」


 ……あぁ、あぁ。


「な、なぁアリア」

「ん? なに?」


「……これは?」


 俺の右手首とアリアの左手首が銀色に輝く鎖で結ばれていた。

 右手をよじると、ジャラジャラと金属が擦れ合う音がそっと耳を撫でる。


 次に放たれたアリアの気後れの見当たらない言葉に、俺は戦慄した。


「うんっウィル、あたしたち、ずーっと一緒だよ?」


 ――――――無理だ。


 ガシャンっ! と、鎖が音を立て、俺の手首に深く食い込んだ。

 自分で鳴らしたはずのその音に、俺は驚く。完全に無意識だった。


 咄嗟の本能でその場から離れようとしたが、意味がなかったのだ。


 何だこれは何だこれは何だこれは。


 ぐるぐる、ぐるぐると、視界が回る。


 理解できないしたくないしないしないしないしない無理だ何だこれはどう考えてもおかしいおかしいおかしいおかしい。


 ある一つの予測が脳裏をよぎったようだったが、俺はそれに気づかないフリをする。


 だって、そんな筈がない。


「どうしたのウィル? そんなに慌てて」


 ジャラ……、と鎖を鳴らし、不思議そうに俺を見つめるアリア。


「何だよ、これ……」


 思わず飛び出た声はかすれていた。


「あ、これ? これはね、あたしが自分で作ったんだけどね? 一回繋がれるとね、無理やり壊さない限り絶対外れなくてね、どこまででも伸びるの」


 嬉しそうに、アリアは語る。


「だからね、これでいつでもウィルがどこにいるか分かるし、会いたい時にはいつでも会える。あ、これね? つながっている対象と一緒にいたいっ、って思ったら勝手に縮むんだよ。すごいでしょ?」


 アリアと俺を繋ぐ鎖が、じりじりと縮んでいた。

 俺とアリアの体が、密着する。


「あはっ、これだとずっと短いまんまだね。伸び縮みするように作ったけど、意味なかったよー」


 えへへ、とアリアが照れくさそうに頰をかいた。


 意味が、分からない。


「なんで、こんなことするんだ?」


「そりゃ、あたしがウィルとずっと一緒にいるためだよ。言ったでしょ? あたしはウィルが大好きだって。だからもう、ウィルをエレナちゃんに渡すようなことしないよ? そう決めたの」


「……は?」


「あのね、三日目にね、ウィルがエレナちゃんに無理やり転移させられたのを見てね、思ったの。あたしやっぱりウィルとずっと・・・一緒に居たいって」


 その『ずっと』は、きっと俺が知っていた『ずっと』とはまた意味が違う。


「エレナちゃんに、ウィルが好きなようにされるなんてあたし耐えられない……絶対に嫌」


 一瞬だけ無表情になってアリアが言う。

俺はその場から逃げ出そうと身を引いたが、限界まで縮まった鎖がそれを許さない。手首に鎖が食い込む。


「ウィルだっていやだよね? 実の妹に、同じ家に住んでるのに、ウィルのことを何も考えてあげられてないあんな子に、好きだって言われるのは。そうでしょ? ねぇ? ウィル」


 ジッと、吸い込まれそうになる紫紺の瞳が目の前にあった。


 そこで初めて気がつく。アリアの、純粋で無垢な瞳に――いつか見た、つい先ほど見た、エレナのオッドアイと同じ『色』をたたえた、その瞳に。


 分からない。一体アリアに何があったのか、分からない。

 なんでこんなことになったのか、分からない。


 すると、アリアはまるでその時の俺を心情を読んだかのように、口を弾ませた。


「あたしねっ、ずっと思ってたんだ。ウィルと『ずっと』一緒に居たいって、あ、これさっきも言ったよね?」


 えへ、とアリアが笑う。


「でもね、やっぱりこういう無理やりなのはウィルにも迷惑かなーって思ってたの。でもね、エレナちゃんが、ウィルを取っちゃった・・・・・・のを見て、考え直したの。ホントは、ウィルの方からきて欲しかったんだけどね、エレナちゃんに好きにされるくらいなら、って……」


 エレナが、両手で俺の手を包み込む。チャラと鎖が音を立てた。


「ごめんね、いきなりこんなことして。びっくりしたでしよ? でも安心してっ、絶対ウィルに嫌な思いはさせないから。絶対にウィルが幸せだって思えるように、あたし、頑張るからっ。もちろん、エレナちゃんからも守ってあげるよ? 今だってここにあたしがいなかったら、ウィル、エレナちゃんに無理やり転移させられてる」


 そういえば、エレナは俺を呼び寄せることが出来るんだったか。

 そんな事実に今更気が付いて、身が震えた。

 そして、なんの気負いもなく、淡々と語り続けるアリアの無垢な笑顔を見て、さらに身が震えた。



 これはもう、――――だめだ。



 それを認めた瞬間、体全身の力が抜け落ちた。


 ずるずると崩れ落ちる俺を、アリアが優しく受け止める。


「うん、うん、怖かったよね……。大丈夫、大丈夫だよ、あたしがいるから……」


 包み込むように抱きしめられた。


 酷く、柔らかくて、優しい抱擁だった。

 

 何も考えたくない。思考したくない。想像したくない、何もしたくないできない出来る筈がない――


 ――轟音が鳴り響いた。


 どこか遠い世界の出来事に思えるその音と共に、部屋の壁が吹き飛んだ。


 中に入ってきたのは、エレナだ。


 

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