四、別の世界『サイコピア』


 翌朝、まだ夜が明け切らない頃、ロン・リーは北へ向かって歩き出しました。

 三日ほど歩くと、登り坂が続くようになりました。五日目には更に急坂になり、木々の背丈も低くなっていました。七日目には雪が降り始め、やがて吹雪になりました。

 何日歩いたことでしょうか、道はようやく下りはじめました。道中、雪を食べながら歩いて来たロン・リーでしたが、この頃にはもうふらふらでした。気が遠くなりながら歩いていると、ロン・リーはついうっかり足を滑らせてしまい、下り坂を転げ落ちて気を失ってしまいました。

 どのくらい眠っていたでしょうか。気がつくと、そこは山の中腹でした。雪はすっかり消えていて、眼下には熱帯の森が広がっていました。

「あれが別の世界か、もう少しだ。」

 気力を振り絞って山を下りると、昼でも薄暗い森が出口のないトンネルのように、どこまでも続いていました。じめじめとした湿気と暑さの中を進んでいると、ロン・リーの足音に気付いた大ムカデが、すっと木の裏に隠れました。不気味な気配を感じてロン・リーが周りを見回すと、巨大なナメクジが葉っぱに張り付いてこちらの様子を伺っていたり、無数のヒルがこっそりと後ろから忍び寄っていました。

「留まると危険だな、先を急ごう。」

 終わりの見えない旅を続けていると、どこからともなく甘い香りが漂ってきました。香りを頼りに更に進むと、急に目の前に鮮やかな赤や黄色やオレンジ色などの色彩がたくさん現れました。よく見ると、様々な果実がたわわに実っているのでした。

「…何だ、ここは?」

 あたりをきょろきょろしながら、ロン・リーはどんどん奥へと歩みました。やがて大きな桃の木が現れ、その下にはたくさんの熟れた桃の実が落ちていました。

「とりあえずこれでも食べて、飢えをしのごう。」

 ロン・リーが桃の実を食べようと下を向くと、突然木の上の方から「キーッ、キーッ」という鳴き声があちこちから聞こえ、あたりは騒がしくなりました。

「な、何だ、あの声は⁈」

 ロン・リーが上を見上げると、周囲の木々の枝という枝が、ゆっさゆっさと揺れていました。それはまるで、森が動いているかのように見えました。そしてそのうちの一つの影が、素早い動きで枝から枝を伝って近付いて来て、ロン・リーのすぐ上にある枝で止まりました。それは黄金色の豪華な毛並みのボスザルでした。

「そいつは俺様のものだ。勝手に食わないでもらおうか。なあ、みんな。」

「そうだ、そうだ!ボスの言う通りだ。キーッ、キーッ、キーッ!」

「どうだ、分かったか?これがみんなの意見だ。」

 ボスザルは落ち着きはらって、少し目を細めながらロン・リーを見下ろしました。

「これだけあるんだから、一つくらい分けてくれてもいいじゃないか。」

「いや、だめだ。その熟した桃で、酒を作るんだ。」

「じゃあ、あっちの葡萄は?」

「あれも酒にする。」

「あっちのオレンジは?」

「分からない奴だなあ、この『サイコピア』の果物は全部俺様のものだ。悪いがイヌには用がない、帰ってもらおうか。」

「オイラはイヌじゃない、オオカミだ。」

「どっちも似たようなもんだ。そんなに食いたきゃ、これでも食いな。」

 ボスザルが桃の種を投げつけると、他のサル達も一斉に桃の種をロン・リーに投げつけました。

「痛てててて、ちくしょう!」

 ロン・リーはたまらなくなって走り出しました。しかし、そのまま逃げるのかと思いきや、となりの葡萄の木に近寄って、むしゃむしゃと葡萄の房を食べ始めました。

「ああ、あの野郎、俺様の葡萄を食いやがった!お前達、あいつをとっちめてやれ!」

 サル達は木から下りて来て、ロン・リーの周りをぐるっと囲みました。

「おいオオカミ、袋のネズミだ。もう逃げられないぜ。さぁてっと、これからどうしてくれようかな?キッキッキ。」

 ボスザルは、これから起こるであろう出来事を想像すると、にやにやと笑いが止まりませんでした。しかし、その笑顔は長くは続きませんでした。突然、ロン・リーがボスザルに向かって突進してきたのです。

「狙うは貴様の首ただ一つ、覚悟しろ!」

 それまで真っ赤だったボスザルの顔が、一瞬で青白く変わりました。

「しまった、罠か!」

 ボスザルは大慌てで上の枝をつかもうと飛び上がりましたが、それに合わせてロン・リーも飛び跳ねて、ボスザルの喉元にガブリと噛み付きました。空中で数回転した後、二人はどさりと地面に落ちましたが、ロン・リーは食らいついたボスザルの首を放しませんでした。それを見ていた手下のサル達は、身も心も石のように固まってしまいました。

 かろうじて出る小さなかすれ声で、ボスザルが言いました。

「ま、ま、待ってくれ。話せば分かる。話せば分かるってば…」

 ロン・リーは食らいついたまま応えました。

「まず手下どもを下がらせてもらおうか。」

「わ、分かった。お前達、あっちへ行け。」

 手下のサル達は一目散に逃げ散りました。それを見届けて、ロン・リーはようやくボスザルを解放しましたが、またいつでも飛びかかる体勢でいました。

「まあまあ、待ってくれよ。そう怒るなよ。冗談だってば、冗談。」

 そう言いながら、ボスザルは自慢の黄金色の毛並を整えました。そして満面に笑みを浮かべて続けました。

「いや〜、君は強いなあ!大したもんだ。さあさあ、どうぞご遠慮なく、好きなだけ果物を食べていってよ。おいしい酒もたくさんあるよ。ところで、この辺では見かけないけど、君は一体どこから来たんだい?」

「ギマンの森だよ。」

「ギマンの森⁈聞いたことないなぁ…。で、君の名前は?」

「オイラはロン・リーだ。」

「俺様はサドマックナールプサイだ。」

「…サ、サ、サド…マ?」

「サディでいいよ。…で?ロンちゃん、何しにここへ?」

「山の向こうに別の世界があるって聞いてね。まさか本当にあるとは思わなかったよ。」

「あはははは、ただの好奇心かい?チャレンジャーだねぇ。ここは『サイコピア』っていうんだ。最高の森、サイコピアだ。一年中温暖で、一年中色んな果物が採れて、それを求めて動物達もいっぱい集まるよ。もちろん、それを狙う動物もだ。君もそのうちの一人かと思った。」

「ギマンの森では、動物を捕ることを禁止されているんだ。」

「ええ⁈本当かい?信じられないなぁ。ここは自由の森だから、何でも捕れるよ。好きなだけ狩っていきな。ここでは強い者と、“賢い者”が偉いんだ。」

「じゃ、桃をいただくよ。」

 ロン・リーはガツガツと桃を食べ始めました。サディはそれを冷めた目で見ながら、考えを巡らせました。

(どうやらオオカミは怒らせると厄介だが、単純な性格のようだな。俺様の自尊心を砕いた奴は絶対に許さないぞ。オオカミなんかよりも、俺様の方がずっと頭がいいってことを思い知らせてやる。さてと、まずは奴を油断させることだ。キッキッキ…)

 お腹いっぱいになったロン・リーは、舌なめずりをしながら振り向きました。

「ごちそうさま。」

「どういたしまして。だが、こんなのはまだまだ序の口だよ。今夜ロンちゃんを宴会に招待したいんだが、どうかな?」

「宴会⁈」

「ああ、サイコピアの王が主催する宴会が、ちょうど今夜あるんだよ。」

 ロン・リーは不吉な予感を覚えました。

「王って、もしかしてトラかい?」

「おや、知ってるのかい?サイコピアの王者、リビド王を。」

「いや、直接は知らないけど。…というかギマンの森には伝説があってね、昔ギマンの森でクマとトラが争って、負けたトラがこっちの方に来たって噂があるんだよ。そのトラの子孫が今でもいるっていう話だ。」

「俺様には詳しい歴史は分からないけど、もしかしたらそうかもね。」

 核心を突かれて、とっさにサディはわざとぼやかしました。ですがロン・リーは、噂は本当だったんだと見抜いて、奇妙な高揚感と恐怖心を感じました。

「サディ、今までギマンの森からこっちへ来た者はいるかい?」

「さあ、一々どこから来たかなんて聞かないからなぁ。あちこちからたくさん集まるから、もしかしたらいるかもね。」

「ここからギマンの森へ帰った者がいないらしいんだけど、恨みを持つトラに食われたんじゃないかって言われているんだ。」

「ふふっ、どうかな?ここでは弱い者と馬鹿な者は生きていけないからなぁ。トラに限らず、他の誰かに襲われたっていうこともあるよ。」

「ふ〜ん、サイコピアって、豊かでもあり、恐ろしくもあるんだね。」

「まあ、とにかく、ここでは“馬鹿”は生きていけないよ、“馬鹿”はね。さてと、俺様は宴会の準備があるからこれで失礼するよ。宴会は陽が沈んでから、この桃の木の下でやるから、それまでロンちゃんはぶらぶらと遊んで来なよ。」

「分かった、ありがとう。」

 ロン・リーの姿が消えるのを見計らって、サディはキツツキのエニグマを呼びました。

「おい、エニグマ、こっちへ来い。」

「はい、ここでございます、サディ様。」

「今のを全部見ていたな?」

「はい、もちろんでございます。」

「よし、奴を見張れ。それから急いで宴会の準備を誰かにさせろ。予定はしていなかったが、仕方がない。初めから今日は宴会が予定されていたということにして、秘密のうちにみんなに知らせろ。リビド王には俺様が直接言う。今夜奴にはリビド王の餌食になってもらうとするか。キッキッキ…」

 サディの笑い声は、サイコピアの森に静かに広がっていきました。




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