5、おかしな要望

 次の授業で、大沢家に来た岡田は、さすがに驚きを隠せなかった。


 中庭にあったあの木が無残な焼け跡をさらしていたのだ。日曜日の落雷にやられたのは明らかだった。ひきずっていた悪夢の記憶も消し飛んだ。


「どうも先日は、落雷で……」


 土間で靴を脱ぎながら、岡田は出迎えた冬美の母親に言った。


「そうですのよ。私どももまあ大変でした。あの木は大事にしていたのに、本当に残念で……」


 彼女は語尾を濁し、ちらっと木のある方を向いた。


 彼女の目もと口もとはどんよりしていて、単に家のものが痛んだというよりは、心の支えを……いや、自分自身のよってきたるところを……一部にせよ失ったのだと言わんばかり。


「ご愁傷さまです」


 慰めつつも自分の心のどこかでかすかにほっとした気持ちがわき上がるのを見過ごせなかった。


「あの、先生、言い忘れてましたけど」

「何でしょう」

「最後の授業で、私ども両親がどうしても家を留守にしなければいけませんので、大変申し訳ありませんが、娘と二人で授業をお願いします。先生なら安心ですので」

「いやしかし、冬美さんの方は……」

「はい、それでしたら構わないということですので、一つよろしくお願いします」

「はぁ」


 珍しく歯切れの悪い返事だった。そのまま和室に入った。


 授業の前半が終わり、休憩に入って、彼は最後の授業を話題に出した。


「うん。あたし、別にいいよ。先生のこと、信じてるし」

「あー、その……。そう言えば、落雷が凄かったね」

「ああ、あれね。父さんも母さんも、あの木はもうどっちみち寿命だったって」

「そうか」


 しつこく質問するのは止めておくことにする。彼女は意識してか否か無表情だし、他人様の事情に立ち入るのもまずかろう。


 その日の晩、彼は帰ってしばらくしてから電話を受け取った。冬美の母親からだ。


「いつもお世話になっています。あの、授業のことですけど」

「はい」

「実は……大変不躾ですが、最後の授業を火曜ではなく日曜にして頂けないでしょうか。引っ越しの都合や主人の仕事の方でいろいろありまして、いえ、無理にとは申しませんが」


 ぱっと聞くだけだとごく普通の申し出だ。相手が何か緊張しているような印象を受けた。初日の授業が脳裏に蘇った。もっとも、それをどうこう言うべき時でも立場でもない。


「あ、はい、いいですよ。何も予定は入ってませんし。では、ご両親ともご在宅ですか」

「いえ、それが、あの、当日も二人で出なくては行けませんので、本当にこちらの都合ばかり申しましてすみません。時間はいつも通りで」

「はい、どうぞお気になさらないで下さい。こちらはまったく問題ありませんので」

「ええ、有り難うございます。それでは」


 冬美の両親は、娘が寝入っているのをこっそり確かめた上でもう一件電話をかけた。岡田の担当が受話器に高慢気な台詞を投げ始める。


「うまくいったの?」

「はい……はい。あとは最後の授業を待つばかりです。娘もだいぶおとなしくなりました」


 冬美の母親は神経質そうに薄笑いを浮かべた。むろん、受話器の相手にはわかるはずがない。


「そう。雷を使うなんて、ちょっと油断してたわね。けど、ちゃんと見張ってなかったのはあなたたちの責任だからね。岡田君が失敗したら、冬美ちゃんを使わせてもらうの、忘れてないでしょ」


 返事を待たず、電話は切れた。


 最終日、日曜日。


 いつも通りに授業は始まった。親がいなくても冬美の態度に変化はないし、ごく淡々と授業を進めた。自分の受け持つ最後の授業はやはり、有終の美を飾りたかった。


「先生、今日でもう会えなくなるね」


 休憩時間に、彼女は言った。


「またどこかで会えるよ」


 と答えつつ、冬美自身とのメール交換云々は差し控えておく程度には用心深い倫理感覚を備えている。


「そうだね」

「まあ、でも、冬美さんは実際出来のいい生徒だったよ」

「有り難う。前の先生にもそう言って貰ってたけど、先生から言われる方が嬉しい」

「それはそれは。でも、前の先生は、あー、不幸な出来事だったね」

「そうだね。あたしを裏切ったのだものね。不幸と言えば不幸だよ」

「裏切った?」

「うん。あたしとは怖いからもう付き合いたくないとか言い出したの。それで、怒った父さんと母さんがやっちゃった。先生はそういうことってないよね?」

「怖い? 良くわからないな」

「歌手の江頭 喜美子って先生も知ってたでしょ?」


 かろうじて無表情を保った。


「先生、あたしの父さんと母さんね、鳩時計の塔の力で知り合ったんだって」

「ああ、あの願かけってやつね」


 明るく振る舞おうとしたてわざとらしく筆箱を手に取り、落としてしまった。


「今のおうちとかも、鳩時計の塔にお祈りしたらかなったらしいよ。でもあの中庭の木ね、お祈りをかなえてもらうかわりにしなくちゃいけなかった事の一つだって。母さんがいつか言ってた」


 返事につまった。


「信じてくれないの?」

「事実をありのままにとらえるのが俺のやり方だ。冬美さんの言っていることそれ自体はきちんと最後まで聞くよ」

「うん。……時計塔のことで、やらなくちゃいけないことは他にもあって……。でも、あたしがすごく嫌がったから、親と仲が段々悪くなってきて……」

「他って、あと何をすればいいんだ?」

「生け贄を捧げるの。鳩時計の塔に」

「誰を?」

「誰でもいいけど、……」


 冬美の視線がじっと岡田に注がれた。


 冬美がすすり泣き出し、胸が悪くなってきた。彼女の輪郭がぼやけてきた。段々意識がもうろうとして……。

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