2、初めての授業

 二日後、約束の時間の五分前に大沢家についた。


 家自体には駐車スペースはなかったが、向かいの道路の脇にちょっとした幅があるので差し障りはない。


 玄関でベルを鳴らすと、事務所の電話で聞いた冬美の母親の声が上がった。ドアが開き、十年前までは美人で通用した中年の女性が現れる。


 和服が良く似合っている反面、緊張しているせいかどことなく動きがぎこちない。


「今晩は」


 岡田は挨拶した。何事も出だしが肝心である。明るく歯切れの良い印象を与えねばならない。ただ指導が優秀なだけでなく、教え子の家庭とうまく付き合うのも才覚の一つだ。


「今晩は。お待ちしてました。さ、どうぞ」


 最初の挨拶が効いたとみえて、ともかくも快く居間に通された。ただ、和服の裾を踏みつける音が二、三回耳に入った。


 居間では、少女が一人に冬美の母親と同じ年代の男性がソファーに座っており、二人とも彼が戸口に現れると立ち上がって挨拶した。


 男性の方は仕事帰りそのまま、ズボンにワイシャツとネクタイという格好で、少女の方はトレーナーにジーパンだった。


「今晩は。父の義弘です。娘が世話になります」


 義弘は、どちらかと言えば朴訥な調子で言った。


「今晩は。冬美です。よろしくお願いします」

「岡田です。こちらこそ、よろしく」


 こうしてお辞儀の交換が終わると、冬美の母親は待ち兼ねていたかのように一歩進み出た。


「それでは早速始めて頂きたいのですが、部屋はこちらの隣に和室がありますので……」


 愛想良く言ったつもりなのだろうが、眉と唇の端が引きつっている。


「はい、承知しました」


 少なくとも上辺はにこやかに頭を下げつつも、どこか……どこか引っ掛かるものがある。


 冬美の母親の雰囲気には、有無を言わせず自分の意見を押し通したがっているところがあった。まるで、相手にはっきりした理屈を説明できないまま強引に言いなりにさせたがっているようだ。


 場違いにも担当のOLを思い出して、すぐに気持ちを切り替えた。


 冬美の父親と冬美にちらっと会釈し、冬美が立ち上がると同時に冬美の母親は岡田を和室に案内した。


 すでに背の低いテーブルが構えられ、座布団が敷かれている。テーブルの上には教科書や問題集が置かれていた。岡田の事務所では自前の教材を販売してはいない。


「冬美さんは国語と社会の、具体的に何が苦手?」


 母親が引き上げて一対一になり、岡田はリュックから筆記用具を出しながら聞いた。


「現代文と世界史。それと、冬美って呼ばれるのは好きじゃない」


 真面目な顔で冬美は言った。岡田は驚いた。


 この地方では他人の男性でも女の子のファーストネームを呼ぶのにとくに抵抗はなく、初対面の女性に対してでもとくに失礼ではない。むしろ名前にさんづけの方が堅苦しいと敬遠されがちだった。


「どうして?」

「単純だから。冬に生まれたから冬美ってつけられたんだ」

「俺は十二月生まれだけど、冬男とは呼ばれないからなぁ」 


 岡田の言葉に、冬美はくすくす笑い出した。笑うと垂れ目気味なまぶたがとても魅力的になった。


「先生って変な人だね」

「そうか?」

「じゃあいいよ。冬美って呼んでいい」


 年頃の女の子にはどうも無器用な岡田だが、それがかえって気に入られたようだ。


「ありがとう。それで、授業の話だが……」


 授業自体はごくスムーズに進んだ。


 彼女は別に頭が悪いのではなく、現代文や世界史の全体の流れや仕組みが飲み込めないだけだった。岡田は難しい成り行きを大雑把にまとめるのが得意だったから、相性は合った。


 授業自体は二時間ではあるものの、途中で休憩時間を設けるのが慣例である。事務所の規則で茶菓子の類は出さないよう生徒の家庭に連絡しているが、どこの家でも気を遣って出していた。


「さ、先生、お茶をどうぞ。この紅茶、どこか普通と違いません?」


 冬美の母親が、テーブルの脇に座って盆からカップを渡した。カップが小刻みに震えているが、なぜなのだろう。


「え? ……いえ」

「ま、ちょっとしたブランド品ですのよ。ティーパックで最近出回ってますけど、あれはたいていが偽物なのです。でも、これは産地直送ですからね。それと、このカップとお皿はマイセン製ですけど何年か前に私が夫を連れてドイツに旅行に行ったとき、ある貴族のお館に……」

「お母さん、もういいから出てって」


 一気にまくしたてようとする母親を一言で退場させた冬美は、顔をしかめてケーキを一切れ食べた。


 どうにも気まずいものを感じながら、岡田は紅茶を一口飲む。渋みのある腰の強い味わいで、確かに美味ではある。


 自慢するのも無理はないが、冬美の母親は茶道楽なのだろうか? いや、それ以前に、ここの家庭は何か親子で深刻な問題でも抱えているのだろうか?


「連れて行ったとはなんだ。通訳は私がしたんだぞ」


 ふすま越しに、冬美の父親の不満げな指摘が届く。


「ダンケとビッテしか知らなかったくせに、偉そうに言わないでくださいよ」

「お前だって……」


 夫婦喧嘩の実況中継など願い下げだ。


「何かこう、好きなバンドとかはある?」


 ふすまの向こう側を無視し、紅茶をもう一口飲んで、岡田は言った。生徒と同じ話題があれば授業の展開がずっと楽になる。


「いろいろあるよ」


 彼女の表情が明るくなったのを見て、岡田はそれまでの相手の緊張を思いやった。何だかんだ言っても、年長の男性に対しては身構える一面があるようだ。


 冬美に意識を集中しようとしたが、彼女の両親の言い争いはお構いなしに続いた。さすがに不快感を禁じ得なかった。


 いや、かすかに別な音が混じり始めた。まさに虚をつかれた。……鳩の鳴き声だ。まるで二人をあおりたてるように、いや面白がってすらいるように、強弱濃淡をつけて発声している。


 鳩は夜行性ではないが、どこか近所で飼っているのだろう。強いてそう結論し、半ば強引に話題を続けた。


「そう言えば、この前ラジオで聞いたけど、新人で江藤……えーと、江藤なんて言ったっけな……」

「あ、先生も知ってるの?」


 にこにこしながら彼女は言った。堅苦しさがほぐれてきたようで、そうなると親しみやすい人好きのする女の子だともわかる。


「ああ、一回聞いただけだけど」

「そう。あたし、有名になる前から知ってたんだ。やっぱり知ってる人は応援したくなっちゃうよね」


 彼女は紅茶を飲んだ。岡田は何の気なしにガラス戸越しに外を見た。室内の照明に、うすらぼんやりと先日見た中庭の木が浮かんでいる。


 あの鳩はどうしているだろうか。いや、何故自分はそんなことを考えてしまったのだろうか。家庭教師としての職務に一切関係ない。


「……そろそろ再開しようか」


 努めて快活に岡田はもちかけた。


「うん」


 冬美も教科書を開いた。


 その日の授業は終わった。大沢一家から何度も頭を下げられ、岡田は少し恐縮して玄関を出た。中庭の砂利に足跡をつけながら門まで進む。


「あ……?」


 足元に何か落ちているのが防犯灯の明かりでわかった。拾い上げると鳩の羽根だとわかる。


 門を出てから捨てようかとも思った。家のすぐ前にごみを落とすのもまずかろうと思い直し、車で近くのコンビニまで行って捨てることにした。

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