第5話 文学館のふたり 続

 その後、マリノーの足は放課後の文学館からめっきり遠のいていた。終業のベルが鳴るとすぐに、誰にも、アシュトンにも、他のクラスメイトにも見つからないうちに教室を抜けた。明るい校庭では、血色の良い少年たちがボール遊びやかけっこに興じているのに、マリノーはその仲間に加わることはなかった。

 石造りの、アーチ型の窓の並ぶ渡り廊下を抜けると、まだ誰も帰っていない寄宿舎の扉をくぐる。階段を登ると、清潔な廊下がさらに続いていて、そこに並ぶ小さな木のドアを開けると、物の少ない、整頓されたマリノーの部屋があった。文学館にさえ行かなくなった彼にとって、ここが唯一の居場所だった。清潔で、きちんとしていて、そして寂しい場所だった。

 机に向かい、ノートを開く。


『声をかけてくれればよかったのに』


 数式の邪魔にならないように、端に書かれた文字。それを見ると胸が痛んだ。マリノーはその端を手で切り取った。紙片は捨てようか、とも思ったのだが、なんとなくためらわれて、結果机の引き出しにしまわれることとなった。一片の羽のように、細長い紙片。


−ユースタスに近づかなければよかったんだ。

 延びる白い手。赤い光。不気味な書物。あの放課後の出来事が目の前にちらつき、得意なはずの方程式さえ、まったく解を導けない。誰にも邪魔されないはずのこの空間で、マリノーはただひとり苦悩に踏み迷っていた。


「ミスター・ブランシェだね?」

「神父様、おはようございます。」

 マリノーの、まだ声変わりを迎えていない澄んだ声がチャペル前の廊下に響いた。

 翌朝の礼拝前、皆がぞろぞろとチャペルの中に消えていく中で、神父はマリノーを呼び止めたのだった。

「どうしたのかね。顔色が優れないようだが。」

「そうですか?」

マリノーの白い額は一層白く、頬は血の気を失い、鳶色の目は隈に沈んでいた。

「何か悩みがあるのなら、いつでも相談に来なさい。」

「はい、ありがとうございます。」

華奢な少年の後ろ姿を見送りながら、神父は祭壇へと静かに歩んだ。


−神父様は、もしかしてあのことをご存知なのかしら。

 文学館でマリノーが触れたタブー。ユースタスが開いた、古の、異界の事象。

−そんなことが知れたら、僕は−


「…誘惑に惑わされてはならない。あなたがたが耳を傾けるべきは、常に神の声のみである。」

神父の声は、マリノーの耳に鋭く重々しく響いた。

−あれは、誘惑だったのかしら。本を開いてしまったユースタスは、どうなるの?

マリノーは、一体耳を傾けるべき「神の声」がどういうものか、分からなかった。


 いつものようにチャペルから教室へ向かうとき、マリノーの頭上に声が降ってきた。それはユースタスのような声をしていた。

「君、最近文学館へ来ないんだね。」

やはり姿を見る勇気はなかったのだが、紛れもなく紅の唇から聞こえてくることは間違いなかった。

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