第二十六話 心火、燃ゆ

 仲直りしろよ、なんて軽く言って、虎徹は去ってしまった。

 そんなこと、急に言われても勇輝は困ってしまう。

 そもそも、この部屋の教官はどうしたのだ。


「楓……。僕、荷物あるって、聞いてきたんだけど……」


 二人きりの沈黙に耐えきれなくて、勇輝が口を開くと、楓に睨まれた。

 睨むことないじゃないか、と思うが、勇輝はその雰囲気に気圧されて口をつぐむ。


 楓は、勇輝に答えることないまま近づくと、その背後にあった扉の鍵をかけた。

 次いで、勇輝の手を取って、部屋の中央へと導く間も、楓は無言だった。

 その圧力に負けて、勇輝はなされるがままに履物を脱いで、一段高くなった室内に入って行った。


 教官室は、入り口に履物を脱ぐ小さな三和土たたきがあり、そこから上がると畳敷きの部屋になっていた。周囲はぐるりと本棚で囲まれ、雑多な書類や本が文机に積まれている。

 その書類の中に、学生の名前が書き連ねられているのが目に入り、咄嗟に背けた。ここは、部屋の主人あるじがいないときに勝手に入っていいところではない。


「あの、教官は……」

「いない。荷物があると言うのも方便だ。二人で話したかったからな。教官に頼んで、部屋を貸してもらった」


 その言葉に、あぁ、ここの教官は、三条家派だったな、と気づく。だから、楓の我儘も通されたのだろう。でなければ、私的に教官室を利用するなんてできないことだ。


 別の事を考えている事を非難されるように、ぎゅう、と繋がれた手が強く握られる。

 勇輝の方を見ようとしない楓は、怒っているような、傷ついているような表情をしていた。


「かえ……」

「――お前はっ!」


 勇輝が口を開きかけたが、楓の泣きそうな声に遮られた。

 勇輝を見上げる顔はひどく傷ついていた。その表情に、胸が締め付けられる。


「……お前は、なんであんなに喜んでいたんだ」

「……なんの事?」


 勇輝は、本気でわからず、聞き返した。喜んでいた? 何を?


「月の物が来た時。喜んでいただろう」

「……あぁ、それは……」

「月の物が来たってことは、やや子ができてないってことだぞ! お前は、俺との子が欲しくないのか!?」

「楓……?」


 楓は、心底傷ついたと言う表情をしていた。そして、勇輝の腹に手を伸ばす。腹に触れる楓の手の優しさを、勇輝は知っていた。


「ここに、俺の子がいると思っていたのに……」


 楓が折に触れ、勇輝に、――特に腹に顔を埋めるように抱きついてきたのは、いるかもしれない子を思っての行動だったのだと、今日、ようやく気がつく。

 こんなに望まれていたのか、と思うと同時に、どうしてわかってくれないんだ、と悲しくなった。


「楓……。僕は楓の子を産まないよ。渾天院を辞めるつもりは無いんだ」

「お前は、まだそんなことを言っているのか」


 勇輝の拒絶は、楓に届かない。呆れたように一蹴されてしまう。


「そんなことって、僕にとっては大事なことだ!」

「俺のものになるなら、四至鎮守軍にも入らなくて済むんだぞ。四至鎮守軍に入らんなら、ここをすぐにでもやめて構わんだろ」

「構うよ! なんで、僕の将来を楓が決めるの」

「なんでって、お前は、もう俺のものだろう? あの夜のこと、鱶河城でのこと。忘れたわけではあるまい?」


 夜の話をされ、勇輝の頬が赤くなる。もう未通子おぼこではないが、だからと言ってあけすけに話せるようになるわけでもない。


「楓、そういうことは言わないで。それに……もう、あの夜のことは、忘れよう。なかったことにしたいんだ」


 その言葉に、楓がぽかんとする。だが、次の刹那、その表情は一瞬にして怒りに染まった。


「ふざけるな!」


 楓の怒声が、部屋に響く。


「なかったことにする? 忘れろ? 本気で言っているのか」


 楓が、怒りを滲ませた目で、ひたと勇輝を見つめた。勇輝のどんな嘘も見抜くと、その目線は言っていた。

 だから、勇輝も、負けずに楓を見つめ返した。自分は本気だと、楓と決別すると、目線で返す。


「もちろん、本気だ」

「忘れられるのか」

「忘れる」


 できるできないではなく、するのだ、と言う強い意志で返す。


「忘れて、どうする。お前は、俺と情を交わしたのに、他の男にも股を開くのか」

「そんな言い方っ……!」

「伊吹兄様か? それとも今日、勇輝をここに連れてきた図体のでかい薄ら馬鹿か? ……まさか、大輝となどとは言わんよな」

「僕を何だと思ってる!」


 周りの男を上げ連ねることは、勇輝を辱めることにほかならなかった。


「僕は、誰とでもそんなことができる人間じゃない!」

「だが、忘れるとはそういうことだ」


 楓の強い視線が勇輝に突き刺さる。


「俺を忘れて、ずっと一人でいるのか? 違うだろう? 俺を忘れて、他の男の物になるつもりなんだろう? ……それとも、もう、他の男の物なのか?」

「楓!」


 楓の表情は、怒りよりも悲しみの方が勝っていた。目をつぶり、息を吐く。それは、何か苦い物を飲み下したかのようだった。

 その様子に勇輝は、罪悪感を覚えたが、それも一瞬だった。


「……そうだな。忘れていた。お前はだった」


 目を見開いた楓には、もう、悲しみはなかった。ただ、決意があった。


「だから、忘れるなんて馬鹿なことを言い出すんだ」


 勇輝が楓の腕を抑えていたはずが、いつの間にか、楓が勇輝の腕を握っていた。その力は強く、ビクともしない。

 この小さな体の、どこにそんな力を持っていたのだろう。

 楓の戦い方は、大輝と違って柔よく剛を制す戦い方なので、力はそんなに強そうに見えない。だから、勇輝もいざとなれば楓を振りほどいて逃げられるだろうと思っていた。いたのだが……。


「……楓?」


 呼びかけた勇輝の声に、先ほどまでの意志の強さはなかった。このままではいけないと、本能が警鐘を鳴らす。だが、それは遅かった。

 身をよじって逃げ出そうとしたが叶わず、楓と二人、もつれる様に倒れこむ。

 じたばたと暴れるが、楓の力は強く、いつの間にか馬乗りにされていた。こうなっては、いくら体格差があれど、勇輝の力で抜け出すことは不可能だった。


 今まで見たことがない様な、冷たい視線が降ってくる。そこには、一欠片の熱もなかった。

 その視線に、あの日の恐怖が蘇ってくる。

 こんな目は知らない。こんな、男の様な、あの夜の朧の様な目は、僕の楓がしていい目じゃない……!


「かえ……!」


 叫ぼうとした口を、グッと押さえられる。そして、楓は勇輝に顔を近づけ、その頬をべろりと舐めあげる。楓の吐く息からは、獣欲の匂いがした。

 その刺激に、勇輝の肌は粟立った。ひゅっと、喉が締められるような悲鳴を上げる。


 鼻の奥に、あの夜の香の甘い匂いが蘇る。

 蹂躙された記憶が、頭を満たし、嫌だ……と言う呟きが漏れた。

 それを見て、楓は狂気を宿した瞳で嗤う。


「下賤の者は、物の道理も知らんらしい。忘れると言うなら、忘れられぬ様、その身に刻むまで。高貴なる俺が、お前に教え込んでやろう。女の幸せというものを」


 そう言う楓は、あの日の朧と同じ顔をしていた。

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