二日目7

 ティーカップを手に、リビングの外へ出る。外には紅茶の甘く上品な香りと、うっすら吐き気を伴うような臭いが、霧のように現れたり消えたりしていた。それは奥へ行くにつれ、ひどくなっている。

 廊下の突き当りに、羅針盤と五芒星のタぺストリーのかかった部屋がある。森側に位置し、神に一番近いこの部屋が、シエラのアトリエだった。

 シエラはよくここに籠っている。ノックをしても声をかけても、返事が返ってこないことはわかっていた。絵であれ勉強であれ、彼女は一度集中したら声や音、人を認識する範囲が極端に狭くなる。使用人時代からのクセだ。わかってはいたが、一応、だ。


「シエラ!」


 やはり、返事はない。そうと分かれば、だ。いつも鍵はかかっていないので、俺はドアノブを捻る。

 頭を揺さぶるようなひどい臭いが鼻を突いた。腐臭とも血の臭いとも違うこのひどい臭いには、いつまで経っても慣れない。仕方なく外の空気を肺いっぱいに吸い込み、腕で鼻を押さえて部屋を覗く。

 シエラはこちらに背を向け、イーゼルの前に座っていた。散らばったキャンバス、パレット、筆の山。そして極彩色の壁、床。それらの隙間に無理矢理イーゼルは立てられていた。いろんな本や書類がイーゼルには立てかけられている。だが、頁をめくる音がしなければ、全くシエラが動いている様子もない。


「シエラ?」


 怪訝に思ってシエラの肩を叩き、顔を覗き込む。

 彼女の薄緑の瞳が何回か瞬いた。瞬間、俺に気づいたか、ゆっくりとこちらに目をやる。


「あら、リューク」


 起きたばかりの子どものようだ。というか、寝起きなんだろう。落下した筆に、書きかけの文書。これは、寝落ちだな。シエラの言葉は少し舌足らずで、瞳の焦点はどこかあっていない。だが、その顔には儚げな笑顔があった。


「わざわざ私に会いに来てくれたの?」

「ついでだよ、自意識過剰」


 紅茶を差し出すと、シエラはからかうような笑みを浮かべてティーカップを受け取った。


「うん、おいしい。さすがディエだ」


 一口含んで、シエラは恍惚とした表情で一息ついた。

 その冷め切った水あめのような紅茶のどこがおいしいんだか。常人には理解できない味覚をしているのだろう。本人が幸せなら、それでいいんだが。

 シエラの幸福に満ちた顔を尻目に、俺はアトリエを見回す。足場の一切がない部屋だ。片づけができないのではなく、しない。しても無駄だと言っては、先代がため息をついていたのを思い出して、俺は笑った。そして、昔のように、彼女の代わりに片づけるのだ。


「別に、片づけなくても」

「足場がなくて困んのはお前の方だろーが」


 パレットや筆を一か所に固めながら、俺はシエラの質問に答える。

 ふと目に止まったのは、何枚もの完成されたキャンバスだ。

 海の絵。遠い国の彼方にあるという、黄金でできた見たこともない建築物の絵。深い森の川に遊ぶ動物たちの絵。遥か、地平線の向こうにあると言われる塔。

 車椅子の彼女が、行きたい、見たいと願った風景だ。

 それはこの森以外、まだ叶ってはいない。

 少し、気分が悪くなった。

 キャンバスを放り投げ、奥に立てていく。

 ほどなくして、部屋はすっかり片づいた。


「こうも変わるのね……私の部屋じゃないみたい」


 感心したような声を上げ、シエラは車椅子でアトリエを一周した。

 たしかに、先ほどまでの部屋と比べれば、同じ部屋ではないだろうと思えるほどには片づいた。右端にキャンバスは立てられ、道具箱にしまわれた筆。イーゼルの横の小さなテーブルと絵具。まだ汚いが、暮らせるほどにはなっただろう。まぁ、どうせこれも二日ほどで元に戻ってしまうのだが。

 ふと、偏頭痛が襲った。こんな狭くて日当たりが悪くて埃っぽくて絵具の臭いの充満した空間にいたせいかもしれない。日頃からこの部屋に籠り続けているなんて、想像しただけでも気分が悪くなりそうだ。余計体を悪くしかねない。

 よし、と俺はシエラの車椅子を握った。


「ちょ、リューク? まだ勉強中なんだけど……」

「いいだろ、そんなの。そもそも寝てたんだし」

「う……だから、続きをやろうとしてて――」

「はいはい」


 車椅子を押し、俺は家を飛び出した。苔むした石畳の道を駆け、深い茂みへと駆ける。


「ちょっと、リューク!? いったいどこに行く気?」

「いいから。あんなとこに閉じこもってると、体壊すだろうが」


 道はいつもより広く感じられた。足元には砂利も木の根もなく、視界を遮るかのような枝葉もない。ルーザの香りとシオンが、目指すほうを示してくれていた。

 やがて目的地に着くと、シエラは文句を言っていた口を閉ざした。


「綺麗……」


 思わずといったようにシエラの口から漏れた言葉に、俺は笑みを零さずにはいられなかった。

 真夜中。屋敷を抜け出して、二人でこっそり森まで来たこと。


「……懐かしいな」


 静かな泉に堂々と建つ神殿には、神々しい美しさがあった。灰の壁に沿うようにソリアが群がる。無機質な壁はシオンの光を受け、青や紫の色を成していた。その光は、幾何学に模したソリアの窓を抜け、祭壇を照らし出しているのだろう。

 階段の横に設置されたスロープを登り、祈りの間へ入る。残念なことに、神さんは不在だった。恐らくは眠っているのだろう。

 シエラは森と屋敷を望むことができる吹き抜けの天井を見上げた。吹いてくる静謐な風に目を細める。


「覚えてる……確か、迷子になったんだっけ?」


 夜の森。予想外の暗さと、普段慣れていないこともあり、俺たちはすっかり迷ってしまったんだ。まだガキだったから、シエラは泣いて、俺はどうすることもできなくて。少しの月明かりとシオンの光、そして夜目だけを頼りに森をさ迷い歩いた。


「で、ディエとお父様、お母様が助けてくれたのよね」


 そうそう、と俺は頷く。あの時のことは今でも鮮明に覚えていた。遠くで燃ゆる炎。そのぬくもりが、これほどまでに温かく思ったことは、今後ないだろう。


「で、俺はディエさんにぶん殴られて。ホント、手加減してくれねぇんだから」

「驚いたわよ。まさかディエがそんなことすると思ってなかったもの」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。

 ディエさんに殴られて、二人で先代に絞られて。だけど泣きそうになった俺たちを抱きしめてくれた先代と夫人の温もりは、今でも覚えている。後でディエさんに頭を撫でられたことも、懲りずにシエラとまた森に行く作戦を立てたことも。

 本当に、素晴らしい日々だった。

 炎に照らされたシエラの横顔は、思い出に浸るように恍惚とした顔だった。俺はそんな彼女に笑いかけた。


「な? 来てよかったろ?」


 シエラは素直に頷いた。その後に、少し焦ったように俺を見る。


「良かったけど、それは別だよ。ちゃんと勉強もしないと。皆、頑張ってるんだから」


 頑張ってる、なんて、ずいぶんな皮肉だ。だが、彼女は知らない。この街の民の実態を。

 シエラ。そう呼びかける前に、それに、と彼女は深い緑の目を伏せた。


「……私、何もできないから」


 胸を貫かれたような衝撃が走った。右目によぎる逃げ惑う人々、左手に揺れる松明、焼けた家屋に引かれた少女の両足――。


「……え? あ、ごめんなさい違うの、そんなつもりは……」


 シエラは慌てたように訂正する。だが、俺のせいであることは何一つ変わらないのだ。

 白のワンピースの下から覗く、醜く歪曲した足。もう動くことのないその足は、紛れもなく俺が奪ったものなのだ。憎しみに駆られて、衝動に身を任せて。

 必死なシエラに小さく微笑って、俺は首を縦に振る。


「わかってるよ、そんなつもりがないってことくらい。なんせ、お前は天然だしな」


 皮肉を言っても、シエラの表情は変わらない。それほどまでに心が優しいということも、とっくに知っていた。


「そう暗い顔すんなって。俺がやったってことは不変だ。謝るのはシエラじゃなくて俺の方だろ?」

「でも……」

「頼むから、謝るなんてマネしないでくれ。甘えたくなるだろ。俺は、この罪と共存していかなくちゃならないんだ。それを赦されちゃあ、俺は英雄になった意味がなくなる」


 過去の過ちは忘れてはならない。赦されて忘れておしまい、なんて、それこそ赦されない行為だ。その罪は、何らかの形で償わなければならない。それが、罪人に与えられた使命だから。

 シエラは困り果てて困り果てて、ついには泣きそうな顔をしていた。その心優しさが、俺は好きだったんだと思う。だから、何度も甘えそうになった。だけど、今回は。俺はしゃがみ込み、シエラの手を取った。


「絶対、革命を成功させてみせる。ギルドラートをお前の街からたたき出してやるんだ。この神殿と、この剣に誓うよ」

「リューク……」

「神は等しく贖罪の機会を与えられる。これが俺にとって贖罪なんだ。だから……信じてくれるか?」


 シエラはしばし葛藤するように無言だった。だが、重たいため息を吐き出したのち、ふっと笑った。


「えぇ、信じてあげるわ、信じましょうとも。その代わり、約束破ったら、ただじゃ置かないわよ」


 その、勝気な口調には、どこか懐かしいものがあって、俺は噴き出してしまった。一呼吸おいて、シエラも噴き出した。ひとしきり笑った後には、もう彼女の顔には仄暗い影なんてどこを探しても見当たらなかった。


「あぁ、約束だ」


 祭壇に掲げられた五芒星に、俺は固く誓った。

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