二日目2

 砂利が石畳に変わったころ、辺りはすっかり明るくなっていた。中央広場へ続く道では、鋭いものを引きずったような跡がついていた。つんと鼻を刺すような酸い臭い。点々と残された水滴。甘い匂いに紛れて、微かに血が香った。きっと、どんくさい誰かが見つかったのだろう。


「……臭うな。なんなんだ、この痕跡は」


 ヒュウガが顔を顰めて鼻を押さえた。真面目に説明するのも面倒で、俺は聞こえていないふりをした。

 畑へと急ぐ男たちが、なにやら話をしていた。また消えたのか。これで何人目だ? それで合点がいく。誰かではない。誰かたちなのだ。横を通り過ぎたとき、男たちは俺に睨みを聞かせて吐き捨てた。……悪魔さえいなければ。俺は言ってやりたかった。悪魔もそんなに暇じゃねぇよ、と。

 気が変わった。俺はさぁな、とヒュウガに答えた。


「バケモノにさらわれたんじゃねぇの?」


 大通りを直進する。この先には小さな広場がある。そこから路地に入り、配給をもらいに行くのだ。曲がり角に差し掛かったとき、聞こえてきたのは複数人の声だった。


「――なんだ、拒むというのか?」


 ヒュウガを背に隠し、角の先を覗き見る。そして、声の主たちの右手の刻印を睨んだ。

 そこにいたのは、不浄の花ケルズを右手に刻んだ男と兵士たちだった。その中心にいたのが、全体的に丸い男だった。贅沢で美しい服だが、容姿が追い付いていない。神の巨像の前に集った人々にがなり声を浴びせる男は、騎士二人と、目の周りに布を巻いた傭兵のような男を連れていた。


「セグレタか……っ」

「誰だ? あの見るに堪えない男は」


 覗き込んだヒュウガは丸い男に、不快に眉間にしわを寄せて呟いた。

 俺は咳ばらいをし、答える。


「アイツはギルドラートが送り込んだ、役人のアイドだ」

「なにをしているのだ? あんなに怒鳴りかかって、やかましい」

「まぁ、邪教の使途は根絶やしに、という感じだな。あれを見ろ」


 視線の先には、神を侮辱しながら、神の巨像にナイフを突き立てている、あのオルガンたちの姿がある。その目は暗く沈んでいる。神の巨像には、神を信仰する者の手によって付けられた無数の傷が存在していた。その周りには、石膏の粉が舞い上がっている。


「増税。屋敷の増改築による民の駆り立て。他国から武器を買うのにまた民を搾る。酷使される民にとっての拠り所は、神さんだけなんだ。だけど、ここの領主であるギルドラートは別のモノの信仰を強要した。だから奴は、ああやって順に民の信仰心を試すんだ。本当に神さんを信じていなければ、そんなことは安易にできるだろう、ってな。そして、」


 俺はその先に憐みの目を向けた。アイドの命令に拒んだじいさんが、男によって殴り飛ばされていた。その年寄りは涙を流し、何度も頭を下げ、抵抗している。だが、そんな年寄りの軟弱な体では、屈強な戦士を足止めするなどできるわけがない。むしろ男はおもちゃを見つけた子どもたちのように、そのじいさんを弄んでいた。


「……ひどいな。集団リンチにもほどがある」


 ヒュウガは口元を押さえ、目を逸らした。しかし、耳はその音を捉えたことだろう。静寂に包まれたその空間に響く、ばきりとなにかが折れたような音を。

 男の異常なまでに盛り上がった筋肉と、血走った目。口や体表からはだらしなく体液を垂らし、顔は歪み切っている。じいさんを蹂躙する動きはまるで野獣めいていた。その動きは、ギルドラートの術によって強化された、化け物の名を冠する人間、セグレタのものだ。

 俺たちから夜の安息を奪う、バケモノたちだ。

 セグレタはさんざんじいさんをなじった後、折れた彼の足を掴み、暗闇の細い路地の先へ消えていった。


「拒んだ者は邪教の使途、つまり神さんを信仰する者とされ、明日にはここにいなくなる」

「つまり……」

「殺されてるってことだ。苛め抜かれて首を刎ねられて、最後には山にポイ。愉快だろ?」


 だから皆、たとえ信仰する神を傷つけることになろうとも、殺されないためにアイドに従う。アイドに指示を下す、ギルドラートに。

 わからないのは、なぜそうまでしてあの年寄りは神を傷つけようとしなかったのかということだ。アイドの目の前でだけ神を侮辱すれば済む話なのに、なぜ断固として首を縦に振らないのか。潔く死んでいくならまだわかるが、泣いて消えていくのでなおさら謎だ。俺が言えた口じゃないが、よっぽど不器用なのだろうか。


「……まるで踏み絵だな」


 ヒュウガがぽつりと呟いた直後、アイドと目が合った。


「貴様ら、そこでなにをしている、早く並べ!」


 ……面倒なことになった。

 ここで逃げてもなにもならない。とりあえずヒュウガを連れ、列に加わる。思ったより列の進行速度は速く、ヒュウガになんの耳打ちをしてやることもなく、俺の番が来てしまった。

 俺はいいのだ。適当に唱え、ナイフで削ればそれでいい。だが、問題はヒュウガだ。


「なにをしている? さぁ、早く!」


 怒鳴るアイド。対して、首をかしげるヒュウガ。なにをすればいいのか分かっていないのは明白だった。ナイフを握っても、まるで料理でも始めるようだ。

 マズイ。これではヒュウガは邪教の使途だと思われてしまうかもしれない。


「やらぬと言うか……やはり貴様もアーシュヴェルンの使途か!」


 アイドは手を上げ、それに合わせて兵が動こうとする。セグレタが消えての兵士が二人。その程度なら落とせる。ヒュウガを連れて逃げるなら今だ……と駆けだす前に、先手を切ったのはヒュウガだった。


「アーシュヴェルンの使途だと?」


 ぎろりとアイドを睨み、そして弾かれたように突如笑い出したのだ。


「なにを言っているのだ。この俺がこんな堕ちたる天使に仕えているだと? ずいぶん笑わせてくれるじゃないか」


 厨二病は光より闇を好む。

 神さんが言っていた言葉の意味が、今やっと理解できた気がした。

 目を見張るアイドと街の奴らを気にすることなく、包丁の持ち方でヒュウガは巨像にナイフを突き立てて見上げた。


「この街の奴らはこんな張りぼてを神と敬うのだから不思議だ……本当の神というものは、目の前にいるというのにな」

「その通りだね」


 その声に、俺は背筋が泡立つのを感じた。

 声の主は俺の横を通り過ぎて行った。真っ赤なベルベットのコートがなびき、銀緑の結わえた長髪からルーザの香りが漂う。目じりに俺を捉え、微かに口の端を上げたのを俺は見逃さなかった。彼はまっすぐと歩いていく。騎士とアイドは彼に右手を掲げ、頭を下げた。民までもがそうであった。それだけで、彼が只者では無いとわかるだろう。

 彼はヒュウガの元までたどり着くと、その細い右手を差し出した。その手を、ヒュウガは握ることなく、彼を見上げていた。


「こんな悪魔を慕うなんて、バカげている。そういってくれたのは、君が初めてだよ」

「正しいことを言ったまでだ」

「あぁ、君は正しい。正しいことを言い、正しい行為をしている。それだけで、君には生きる価値があり、選ばれた者になれるだけの価値がある」

「……ずいぶん頭が高いようだな。この俺を誰と知っての言葉か?」

「貴様、このお方を誰と……!」

「いいんだ、アイド。それに、この人は邪教の使途なんかじゃない。僕が保証するよ」


 口を挟んだアイドに左手を振り、彼は民に向き直った。


「さて、今日はこの辺で終わろうと思っている」

「なっ、ギルドラート様!?」

「皆が望むなら、我々の神は、いつでも君たちを受け入れる準備をしているよ」


 その目は民ではなく、俺と、ヒュウガに向けられているのが視線でわかった。端麗な顔に浮かび上がった笑みは、天使の彫像のようである。だが、彼がそんな清い存在でないことを、俺はおろか民のすべてが知っていた。

 ではね。ひらりと手を振って去ろうとする背を呼び止めたのは、ヒュウガだった。


「お前は……誰だ?」


 彼は振り返った。しなやかな肢体を、優雅な足取りで。そして、貴族のごとき麗しいお辞儀をした。


「申し遅れました。私はこの地を治める領主、ギルドラート。ギルドラート・フローベル・ハロンです」


 張り付いた聖者の仮面。その本性は、狡猾で劣悪で、強欲で残虐な悪魔だ。

 目をしばたたいたヒュウガを、ギルドラートはくすりと笑った。


「なんだか、どこかの誰かのような反応だね」


 流し目にこちらを見られ、俺は目を逸らした。ギルドラートは固まる皆の顔を見回し、その変わらない笑顔のままで続けた。


「そうだ、彼、たしか結構な農家さんだったよね」


 彼は年寄りの消えた路地をちらりと見、続けた。


「あの哀れな老人の家族は、ちゃんと明後日までに相続税を納めてね」


 また税……。

 人々はあちらこちらを見やる。老人の家族を探しているのだろう。だが、名乗りを上げる者など、いるわけがなかった。

 その様子を眺め、ギルドラートはさらに続ける。


「もちろん、脱税は赦さないからね」


 浮かび上がった笑顔。されど、その灰色の目は冷たく、鉛かなにかのようである。まるで民の反応を楽しんでいるかのようである。

 人々は沸き起こる不満を呑み込み、ただ俯いていた。満足げに頷いたギルドラートは、マントを翻した。


「じゃあ、また会えればうれしいね」


 奴と目が合って、俺は顔を背けた。


「……いつでも、歓迎するよ」


 耳元で囁かれた声。振り向くが、もうそこには誰もいない。

 銀緑の残影が右目にちらついた。その微笑みと、揺らめく炎に、俺は首を振る。刹那の幻に過ぎないのだ。もう右目には、闇が広がっているだけである。

 ヒュウガを見る。ギルドラートのあの様子、ヒュウガが何者であるかどうかはさておき、この地の者ではないとは知られたであろう。奴の目に留まり、気に入られてしまったことも明白だ。

 ざわつき始める人々。どうせ犠牲となるにふさわしいものを探しているに違いない。税の取り立てを無視すれば、取り立て日には必ず五人が死ぬことになる。それを防ぐためには、税を払えないにしても、一人を相続人に立てなければならない。当然、税を納められる訳もないので、単なる犠牲者になるというわけだ。その犠牲者として選ばれる前に、俺はヒュウガの手を引いて別の路地へ逃げ込んだ。

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