第18話 5000兆円で大臣になってみた

 カロカロ共和国が国家として独立を果たした一週間後。

 和夫と美知子が寂しく住む山奥の一軒家に、珍しく人があふれ返っていた。奥田先生以下九人の、5000兆円を十年間で使いきるプロジェクトに関与した同志たちが全員集合したのだ。メンバー全員が一同に集まるのは、FBIの追っ手が迫る中でこの家に緊急避難してきた日以来のことだ。


 和夫と美知子以外の全員はこの数年間、カロカロ族の独立に向けてお互いに緊密に連絡を取り合ってきた頼れる仲間同士である。彼らは親しげに話し合い、これまでの苦労と努力を笑顔で称え合っていた。

 ひたすら山奥で人目を避けて暮らしていただけの和夫と美知子は、彼らにとっては単なる「金庫」にすぎない。電話口で簡単なやり取りをしたら、黒いATMから黙って活動資金を指定口座に振り込んでくれる、ただそれだけの人。

 黒いATMは和夫と美知子しか操作できないので、メンバーに欠かせない人間ではあるのだが、その役割がなければ二人の存在理由など全く無い。

 二人はなんとなく場違いな居心地の悪さを味わいながら、ポツンと部屋の隅で所在なげに座っていた。


 普段はあまり笑わない奥田先生が、今日は珍しく上機嫌で笑顔を浮かべながら、ワインの瓶を取り出して言う。

「ドメーヌ・ルロワの1990年だ。今日くらいはこれくらい奮発しても罰は当たらんだろう」


 先生が持参した、いかにも高級そうなワイングラスが全員に配られ、そこにワインが注がれた。先生の音頭で乾杯をする。

 このワインが一体いくらするどんなワインなのか、和夫にはちっとも分からない。ただ、とにかく自分が今まで飲んだことのあるワインとは全く違う味であることは確かだった。美味いかと言われれば美味いが、何も知らされずに飲んで美味いかと聞かれたら、ちゃんと美味いと答えられるかどうかは自信がない。


 その後は、先生がどこかに作らせて持ち込んできた豪華な料理と、高級なワインを囲んでの賑やかな宴会となった。

 この山奥でもう三年以上、ほとんど人と接しない寂しい暮らしを続けてきた美知子は、賑やかなこの場の雰囲気だけでもうご満悦だ。周囲の優秀な人達が繰り広げる難しい会話に、おそらく半分も意味は分かっていないだろうが、それでも楽しそうに首を突っ込んでいる。

 そんな中でただ一人、セバスティアンだけがどこか喜びきれていない、やや冷めた表情を崩していないことが和夫には少し気がかりだった。


 宴もたけなわになった頃、奥田先生がグラスを手にスッと立ち上がって一堂に語り掛けた。

「さて、ここで私から皆さんに一つご提案があります。

 私たちはこの八年半、一つのチームとなって、5000兆円を使いきるというこの途方もない目標に向かって、ひたすらに駆け抜けてきました。

 しかしこの目標も、カロカロ共和国の独立という一つの大きなヤマ場を乗り越え、あとは最後の大詰めを残すのみとなりました。これはひとえに、優秀な皆様の献身的な努力の賜物であります。

 ――ですが、ここで私たちが決して忘れてはいけないことが一つあります」


 先生は、和夫と美知子を指さして高らかに名を呼んだ。

「それは、ここにおられる金井和夫さんご夫妻の存在です!」


 突然名を呼ばれて、オタオタと慌てふためく和夫と美知子。奥田先生は構わずに続ける。

「そもそもこの、5000兆円というおとぎ話のような夢自体が、お二人の存在なくしてはあり得ませんでした。しかもお二人には、金生教設立の際には創始者として大変ご活躍を頂いたのですが、そのせいで結果としてこの数年間、この山奥のお宅で不便な暮らしをお願いすることになってしまいました」


 奥田先生が自分に向かって素直に感謝の言葉を言うなんて、最初に会って以来、初めてのことではないだろうか。和夫はその言葉を聞いて、嬉しいと思うより先に不気味に思ってしまった。


「そこで私は、このお二人にぜひ心ばかりの恩返しをしたいと考えております。

 我々が建国したカロカロ共和国は、美しい白いビーチと珊瑚礁に囲まれた地上の楽園のような所です。今はまだ建設中ではありますが、近いうちに世界屈指の最高級ホテルを備えた、究極のビーチリゾートに生まれ変わる予定です。

 お二人には、このカロカロ共和国の、名誉財務大臣のポストを差し上げたいと思うのです!」

 おおー、と一同から拍手がわき起こった。


「名誉財務大臣は名誉職ですので、実際のお仕事は何もありませんからご安心ください。ですが大臣のお住まいとして、広大なお屋敷と使用人をご用意いたします。

 お二人にはこれからカロカロ共和国に移住して頂き、大臣として何不自由のない暮らしを満喫して頂きたいと思うのです。

 これはひとえに、この数年間のご不便に対する心からのお詫びであると共に、このようなチャンスを与えてくれたお二人への御礼でもあります」


 リビングルームに拍手が響きわたると、思わず和夫と美知子はイスから立ち上がってペコペコと皆に向かって何度もお辞儀をした。もちろん南の島で贅沢に暮らせることも喜びだが、それよりもまず、この退屈きわまりない逃亡生活からやっと解放されることが、とにかく嬉しかった。


 しかし、その祝賀ムードを切り裂くような声が奥田先生の背後から響いた。

「ちょっと待って下さい先生!」

 鋭い声の主は、セバスティアンだった。


「ご提案の件ですが、お二人はまだ、金生教の創始者としてFBIと日本の警察からマークされ続けています。今の時点で日本を出国したら、間違いなく出国審査でひっかかって任意同行されます。大変危険です!」

 緊迫した声でそう告げるセバスティアンに対して、奥田先生は面倒くさそうな顔で、小馬鹿にしたような笑いを頬に張りつけながら言った。


「貨物を入れる大型ボックスの中にお二人を隠して空港内に持ち込めばいいじゃないか。使うのは定期便の旅客機じゃなくて、私たちのプライベートジェットなんだ。いくらでもやりようはある」

「しかし万が一、ボックスの中身を空港職員にチェックされてしまったら……」

「大丈夫だ。あの会社はそこのところ、ちゃんと抜かりなくやってくれる」


 奥田先生がいう「あの会社」とは、先生が雇っている超VIP向けの特殊警備会社のことだ。この会社は、法律に触れる密入国や密出国ですら、多額の報酬さえ払えば平然とやってのけてしまうらしい。


「それにセバスティアン、そんな事を気にしていたらお二人は永遠に海外旅行すらできないんだぞ。本来ならお二人は5000兆円の大金持ちなのに、こんな山奥にコソコソと隠れたままで一生を過ごして頂くつもりなのか?」

「いえ……でも……」


 セバスティアンが言葉に詰まると、先生は美知子に質問した。

「奥さんもこんなところで暮らすの、もう嫌ですよね?パスポート無しでこっそり出国してカロカロ共和国に来てしまえば、さすがのFBIも気が付かないでしょうから、そこから先はもうこんなコソコソ隠れて生きる必要はありません。奥さんは名誉財務大臣夫人として、毎日贅沢な暮らしをお楽しみ頂けますよ」


 そういう時は俺じゃなくて美知子に質問するんだな、と和夫は不愉快に思った。贅沢が好きな美知子の性格を知り抜いた上で、先生は敢えて俺ではなく美知子に質問をしたのに違いない。

 案の定美知子は、口調だけは多少警戒した風に「そうね……そうなると確かに助かるけど……」と言葉を濁したが、口元は噛み殺しきれない笑みがありありと浮かんでしまっている。頭の中はもうすっかり、カロカロ共和国でのリゾート暮らしに心が飛んでいってしまっているのが、誰の目にもバレバレだ。


 同意もしなかったが反対もしなかった美知子の言葉を、奥田先生は巧みに拾った。そして「ですよね?助かりますよね奥さん!いやー、コンテナに隠れて密出国なんていう思い切ったことをして頂くことになってしまうので、ひょっとしたら奥さんに反対されるんじゃないかって、それだけが心配でした。本当に良かったです!」

と調子よく上から言葉をかぶせた。


 それに対して、セバスティアンも何か言い返そうと口を半開きにした。だがその刹那、先生はくるりと顔を向けて、ちらりとセバスティアンに目を合わせた。その時に先生が一体どんな顔をしていたのか、和夫のいる角度からは見えなかった。だが、先生の顔色を見てセバスティアンは全てを諦めたのか、発しかけた言葉を飲み込んだ。


「それでは、新しい名誉財務大臣夫妻に乾杯!」

 あれよあれよという間に俺が財務大臣かよ。あまりの展開の唐突さに状況が整理できず、和夫の思考はしばらく停止した。そして和夫が考えをまとめ終えた頃には、もう話題は完全に次に移ってしまっていたのだった。


 奥田先生は、乾杯の後の拍手もまだ収まっていないうちに次の話を始めた。

「さて、ここでもう一つ、みんなに見せたいものがある。これだ!」

 その急ぎぶりはまるで、この話を一刻も早く切り上げようとするかのようだった。


 先生が鞄から取り出したのは、5種類の紙幣と6種類の硬貨だ。先生がそれをテーブルの上に並べてみせると、一座から「おお~」という喜びに満ちた歓声が上がる。和夫の名誉財務大臣就任の件ごときは、これで完全にメンバーの頭の中から吹き飛んでしまった。


「これはカロカロ共和国の新通貨、ホケレイロだ。ホケレイロというのは現地の言葉で『銀』を意味する。紙幣や硬貨に描かれる絵は、カロカロ共和国に生息する美しい鳥で統一することにした」


 皆は新品の紙幣と硬貨を順番に手に取って、何度も裏表をひっくり返して嬉しそうに絵柄をじっくりと眺めていた。先生の助手の片岡さんが弾んだ声で言った。


「このホケレイロが通貨として認識されて、あの黒いATMの画面に出てきたら我々の目標はついに達成ですね」

「ああ。本当に長かった。ホケレイロ建てでの振り込みができるようになったら、この黒いATMの中の残額を全部、ホケレイロ建てでカロカロ中央銀行に送金する。そしてそれを国中にばらまけば、全てが完了だ」

「ちなみに先生は、山分けした財産を使って何します?」


 片岡さんの問いに、奥田先生は満足げに答えた。

「そうだな。私は行きがかり上、国会議員にまでなってしまったけど、実際にやってみると国政というのも結構面白いもんだと思えてきてね。なので、しばらく政治家をやってみようと思ってる」

「おおお。先生には無敵の資金力がありますからね。これは将来、先生が総理大臣になる日も近いんじゃないですか?」


 みんなはドッと笑い、先生が総理大臣になれば日本は安泰だとか、そうなったら俺たちは総理大臣の友人だ、最高に心強いとか、奥田先生をしきりにヨイショしている。

 盛り上がる一同を少し離れた所で眺めながら、和夫は内心秘かに、もし奥田先生が日本を牛耳ったりなどしたら、きっと恐ろしい国になるだろうなと思った。


 だが、日本がどうなろうが別に俺の知ったことか。

 あれよあれよという間に、俺は日本を密出国してカロカロ共和国に移住すると決められてしまった。出国後にどうなるかについて先生は一切説明をしてくれなかったが、パスポートも持たない身で出国してしまうのだ。そうそう簡単に日本に戻ってこれないのはまず間違いないだろう。


 でも、かといってこの話を蹴ったら、俺と美知子は永遠にこの山奥でひっそりと暮らすことになる。それでも今はまだいい。これで5000兆円を使いきってしまったら、俺は完全に用済みの存在だ。奥田先生とこの仲間たちは、セバスティアンを除いて俺のことなど完全に放置するに決まっている。俺がFBIや警察に捕まろうが、絶対に助けてくれないのは目に見えている。


 確かに、日本を離れて外国で暮らすのは少し不安ではある。でも、名誉大臣になって一生のんびり暮らせるんだったら、もう肚をくくって日本を捨てて、カロカロ共和国に骨を埋めるのもそんなに悪くないかもしれないな――


 色々とモヤモヤする部分は多かったが、それでも和夫は覚悟を決めた。

 俺はカロカロ共和国に永住して、そこで人生を謳歌する。

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