11/28ペチカ「スミレの花の砂糖漬け」

「眠れないの?」

 父のこだわりで設置されたペチカの前で、理人が楽譜を広げていた。床にまで楽譜が散らばってしまっているのはいつものことだ。私は床に落ちた楽譜を順番通りに並べ、紙束を軽く揃えた。

「響こそ」

「私は目が覚めちゃっただけ」

 理人の隣に腰掛ける。理人の前には琥珀色のお酒が入ったグラスが置かれていた。未成年の私にはまだお酒の味はわからない。けれどどうしようもない気持ちになったときに飲むことがある、というのはわかっている。

「何か飲む?」

「それは私の台詞じゃない?」

 一ヶ月の半分はうちにいる理人は、研究室にこもりきりでほとんど帰ってこない父よりもこの家に長くいる。とはいえ本来この家の住人でも何でもないのだ。

「私もお酒飲みたいな」

 目を伏せる理人に向かって呟く。大人はどうしようもない気持ちになるとお酒を飲むものだ。じゃあお酒が飲めない子供は、どうしようもない気持ちになったときにはどうすればいいのだろう。

「楽しく飲めないお酒は、あまりいいものじゃないよ」

「……まともなこと言わないでよ」

「それもそうだね。僕はちゃんとした大人じゃない」

 最近わかってきた。この人は大人になれなかった人なのだと。大人なら割り切れることも、彼は受け入れずにここまで来てしまった。彼をここまで導いたのは、音楽の才能、ただそれだけだ。だからこそ彼は多くの人を傷つけてしまったし、そのことを悔いては眠れない夜を過ごしている。そのくせ音楽は捨てられないし、捨てるつもりもない。おそらく彼にとっては、自分自身の命よりも、音楽の方が重いのだ。理人はそんな、どうしようもない人だ。

 でも、私は――そんな彼だから、好きになってしまった。

 薪が爆ぜる音を合図にして、私は立ち上がった。

「ホットチョコレートでも飲む? スミレの花の砂糖漬けでも入れて」

 その味は、甘すぎて私の好みではなかったけれど。ショパンが愛したというその味を理人も好んでいることは知っている。結局、口にするものすら音楽が先に来る。彼はそういう人間なのだ。

「うん。それ飲んだら、今日はもう寝ようかな」

 理人が静かに微笑んだ。その表情を見て、私はほっと胸をなで下ろす。

 いつか理人は音楽の神様に連れ去られてしまいそうな気がする。そして理人はそれを望んでいるようでもあった。でもとりあえず今日は、この家に――私のそばにいてくれる。

 薪が爆ぜる、小さな音が響いた。

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