10.マクレーガ温泉(マナス王国中部州ヴェリカトプスコ)


 マクレーガ温泉は火山の近くにある温泉である。このように書くと危険じゃないかと思う人もいるだろうけど、火山活動は低調であり危険性は低い。


 ここは、山脈を縦断または横断する複数のルートが交わるところにあって、山中の交易拠点として重要な位置を占めている。一方で、マール王国の王都イグナスからほどよい距離にあるため、貴族や豪商、文豪などの芸術家が個人旅行で訪れることも多い。

 噂で聞いたことだけれど、中には不倫旅行でやってくるカップルも多いという。私とロナウドは夫婦なので関係ないけれどね。


 マクレーガ温泉で宿を取った私とロナウドは、近くにあるという渓谷を見に行った。なんでも通称・地獄谷という観光スポットになっているとか。


 春も深まり天気も良く、夏が近づいて来たんじゃないかって思うくらい温かい。登山道を歩いていると、汗ばんだ肌に柔らかな風が吹いてきて心地よかった。

 ところが展望台に近づくや、なにかが腐ったような異臭に包まれる。同じように見学に来ている人々には変わった様子はないので、どうやらこの匂いも地獄谷の特徴なのだろう。ロナウドに笑いかけながら鼻をつまむと、彼も笑いながら鼻をつまんだ。そんな何でもないことが妙に楽しい。


 展望台に上ると、渓谷が奥まで見渡すことができる。ゴツゴツした石だらけの渓谷。その奥に岩肌が黄色く変色した一帯があり、そこから白い煙が立ち上っていた。


 ここには王国の火山観測所があり、展望台にいた観測所の人が私たちに教えてくれた。

 あの白い煙は湯けむりのような蒸気ではなく、火山から出るガスらしい。周囲の草や木を枯らすので、ここら一帯は岩だらけの山肌となっているとか。

 なるほど。しかし大きな岩がゴツゴツした谷間は、不思議な迫力がある。


 さっきから気になっているのだけれど、展望台には黒い卵を持っている人がいる。美味しいとか言っているのを耳にすると、私も食べたくなろうというもの。どうやら同じ展望台のはじっこにある屋台で売っているらしい。

 さっそく屋台に行ってロナウドと自分の分と2つ買った。


 ゆで卵といったら白い殻なのだけれど、この卵は黒い殻。名前は〝温泉卵〟。なんでも、近くで湧き出している温泉に卵を漬けておくと、こうして黒いゆで卵ができるそうで、味も濃厚になるらしい。

 さっそく上半分の殻をむいてみると、白身も赤茶色っぽく変色していた。口に近づけると、変わった香りが微かにする。そのまま一口食べてみた。……少ししょっぱいのだけれど、それがまた卵の味を引き立ててくれている。どうやらこの塩っ気も温泉によるものらしく、普通の塩味とも違う。


「ふ~ん」


 これは確かに美味しいのだろうけど、きっと好き嫌いがあると思う。私はどちらかというと……、あんまりかな。嫌って程じゃないけどね。

 ロナウドも珍しそうに食べていて、「温泉上がりにビールと一緒ならいいかもな」なんていう。なるほど。それわかる。足りないのはそれだったか。

 色々納得したところで街に戻ることにした。


◇◇◇◇

 マクレーガの街は、街道沿いに建物がびっしり並んだ配置になっている。中心部は街道の交差点で、大きな広場があり、様々な隊商や商人がテントを張って簡易店舗を出すことができる自由な露天市場となっている。

 王国の各地から集められた品々が並んでいるところを見ると、北のテルミナとも異なっていて、どこか大陸的な雰囲気があると思う。文化が交わるクロスロードといったところか。


 そんな市場をブラブラと歩き、チェックインしている宿「シュタイン」に向かう。

 ブロック石を組み上げた、がっしりした造りの2階建ての建物である。街道側が入り口になっていて、反対側にはテラスになっている大食堂がある。

 客室はそれほど広くはないけれど、石壁に埋め込まれたような黒い木の柱が印象的で、白いベッドのシーツが際立つシックな装いのインテリアになっている。窓側にはそれなりの広さのベランダがあり、そこに部屋付きのお風呂があった。


 交易で栄えている街なので、文化が異なる客が来ても問題が起きないように、こういう個別のお風呂になっているのだろう。

 ルームサービスとして部屋食もできるけれど、私たちは時間を見計らって大食堂へと向かった。


 大食堂は、片面すべてが大きな窓になっていて、その先は木々が切り開かれていて山や渓谷の景観を楽しむことができるようになっていた。大自然のパノラマを前にすると、山の頂上から眺めているような気持ちになり、思わずワクワクしてしまった。


 まだ日が傾いてきたころで早い時間帯。お客さんもいるけれど、空いている席はいくらもある。さっそく窓側の2人席を確保してロナウドと対面で座ることにした。


 メニューを開いてみると、ビールと肉料理が充実している。調理法も味付けも様々。これはロナウド好みのレストランですな。案の定、じっくりとメニューを見て何を頼むのか検討しているようで、その様子に思わず微笑んでしまった。


 こういうのも旅の醍醐味だと思うし、私もそうだけれど、ロナウドもメニューはじっくり見る派。

 あらかじめ決めておく場合もあるけれど、基本的に一通り見てからでないと注文しない。よく優柔不断とか、貧乏性とかって言われることもあるけれど、実はそうじゃなくて、料理を思い浮かべ、それを自分が食べたがっているのかを確認しているんだよね。

 言わば、自分と対話をしているわけです。料理について。


 うんうん考えているロナウドを尻目に、ひとまずビールと簡単なつまみとしてスティックサラダを注文。

 さっそくロナウドと乾杯してグラスを口にする。よく冷えていて美味しい。スティック野菜を一つ手に取り、3種類のディップを順番につけて食べてみた。シャクシャクした瑞々しい野菜の汁とディップがよく合っている。


「う~ん。決まらないから、食べたいものをちょくちょく頼むか」というロナウド。さっそく「豚肉のロティサリー回転あぶり焼き」を注文していた。串に刺したブロック肉をゆっくりと回転させながら焼き上げる料理で、確かにビールのお供にはぴったりだ。

 料理が来るまで景色を楽しむことに。


 夕暮れが近づいている空は、どこか気だるげな色をしていた。あれだけ強かった陽射しも少しずつ和らいでいる。この空気、これから季節は暑い夏へと移りかわっていく。


 マクレーガを出発すれば、次は久しぶりの王都。私にとっては自分を取り巻く環境が大きく変わることになった思い出深い場所。どちらかといえば苦い思い出の方が多かったけれど、その苦い思い出のおかげで今、こうしてロナウドと一緒にいられるのだ。

 ……人生って不思議だと思う。今となってはあんなにも辛かった日々が、すっかり思い出になっているのだから。


 依頼を受けながらの温泉2人旅。貴族の令嬢だった頃ならば、このような旅は考えもしなかった。空がこんなにも広いなんて、かつての自分だったらわからなかっただろう。そんなことを考えては、しみじみと幸せをかみしめる。


 なんとはなしに、ロナウドに甘えたくなった。彼の顔を見ると、「うん? どうした?」と尋ねられる。私を慈しむような優しい眼差し。思わず微笑みつつ、「ううん。なんでも」と首を横に振る。


 そこへロナウドが注文した料理がやって来た。鉄の串に刺した豚のブロック肉が香ばしそうな色に焼けている。「おまちどうさま」と言いながらやってきた給仕の男性が、お皿を置き、そこへ鉄串を下向きに添える。そして、手にしたナイフでブロック肉を一口大にそぎ落としてくれた。素晴らしい。見ているだけで美味しいとわかるこの手さばき。

 さっそくカットされた1つを口にすると肉の旨みとスパイス、香ばしさとがとろけあって、予想に違わぬ旨さに思わず「んん――」と声が出てしまいそう。これ、お薦めです。


 そうしているうちに空が段々と夕暮れ色を帯びてきて、少しずつ山の表情も、青々とした姿から家路に着きたくなるような少し寂しげな色に変化してきた。

 大食堂にやってくる人々も増えて少しずつにぎやかになるのだけれど、その喧騒がどこか遠く感じ、なぜか寂しげな気持ちになっていることに気がつく。過去のことを色々と思い返していたせいかもしれない。


 そんな私の様子に気がついてか、ロナウドが、

「そろそろ戻るか? お腹が空いたら、あとでルームサービスにしてもいいし」

と言ってくれた。今日はどうしたのか自分でもわからないけれど、妙にノスタルジックな気分になる私だった。


 部屋に戻ると、ちょうど窓から入ってくる光で夕陽色に染まっていた。ベランダに出ると、穏やかな山の空気に満ちている。そのまま沈み行く夕陽を眺めていると、そっと背中からロナウドに抱きすくめられた。それがうれしくて、そっと後ろに寄りかかる。

 たまにはこんな風に甘えたくなる日もある。


 そのまま夕陽が沈み、夜のとばりが少しずつ降りてくるのを眺めていた。満足したところで、少し気恥ずかしくなりながら後ろを向くと、どこか心配そうなロナウドの顔。そのままそっと口づけて、「ありがとう」とだけ口にする。もう大丈夫。その思いが伝わったのか、ロナウドの表情も安心したように微笑んでいた。


 ここも湯量は豊富なようで、個々の部屋に備え付けのお風呂だというのに掛け流しになっている。ベランダの外側には例の如く結界が張ってあるため、ゴミが入り込むこともない。だからか、普段はしないけれどそのままベランダで服を脱ぐことにした。

 服をその場に脱ぎ捨てていく私に「おい。ちょっと」と言うロナウド。一足先に裸になった私はにっこり笑って、彼のシャツに手をのばした。脱がせようとすると、ロナウドは「仕方ないなぁ」と言いつつ自らボタンを外し始めた。


 浴槽は2人が腰掛けて入れるくらいの大きさの円形で、加工した石を組み合わせて造られていた。湯温はぬるめだけれど、昼間に汗をかいたので気持ちよさそうだ。

 服を脱ぎ終えたロナウドが、突然、私を後ろから抱き上げて、そのまま2人でざぶんと浴槽に入った。私は彼の膝の上で横抱きにされている。

 たくましい彼の胸。冒険の日々でついた傷痕を指先でなぞり、私を守るために負った肩の傷のところで指を止める。その様子をじっと見ていたロナウドと目が合うと、急に照れくさくなって、彼に寄りかかって誤魔化した。


 無色透明のお湯はとろりとしていて、化粧水をつけたようにお肌がしっとりとしていくような気がする。

 なるほど、これは美肌の湯だ。しかも交易拠点である賑やかな温泉街の一角で、ひそやかに2人でお風呂に入っているという、このシチュエーション。じわじわと地中で火山の熱が胎動しているように、マクレーガ温泉には男と女を昂ぶらせてくれる効果があるのかもしれない。

 きっと私もロナウドも、この後のことを期待している。そんなジリジリ感をいだきながら、彼の胸にもたれかけさせた頭をぐりぐりと動かすのだった。


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