1.ミスラ温泉(マナス王国西部州南部マラガネルハ地方)

 温泉には平野にあるものや、山にあるものがある。大抵は自然に包まれた田舎にあるけれど、それがまた情緒があっていいと思う。自然に囲まれて湯につかるのはとても気持ちがいい。


 自然の中の温泉場では、春は木の芽や野草、夏は魚介類や鹿やイノシシの肉、秋はキノコや収穫したばかりの野菜、冬は冬でできたばかりのお酒を飲めたりと、その時期に一番おいしいものをいただくことができる。


 ほかにも西部州のニコマス温泉では牛、中央部州の北部の森林地帯では卵料理がおいしいと聞くが、こういうご当地料理をいただくのも温泉旅行の楽しみ。


 温泉地に行くまでの旅路も、人々の言葉が妙になまっていたりすることも、独特の雰囲気があって、温泉に来たんだという気持ちを盛り上げてくれるものだ。


 さて私が思うに、景色を眺めて良し、湯に入って良し、料理を食べて良しと三拍子そろった温泉は海岸沿いに多いように思う。


 とある依頼を受けた後で、ロナウドと一緒にミスラ温泉に行ったのは、ちょうど木々の緑が濃くなる初夏のころだった。


 キプロシア家の宮殿がある西部州州都クランジェから、乗合馬車にゆられながら街道を南に進むこと5日間。


 森を抜けると急に目の前に海が飛び込んできた。

 海岸は、急に海に落ち込むようなところが多く、ごつごつとした岩場が多い。その日は風が強かったせいか、岩に砕けた波しぶきが高く舞い上がっていた。


 押し寄せる波に洗われている岩をよく見ると、海苔がこびりついていて、その海苔を食べる小さなカニの姿も見える。


「おっ。カニだ!」と、まるでロナウドは子供みたいにはしゃいでいる。楽しげな声を聴きながら空を見上げると、2羽の海鳥が白い翼を広げて浮かんでいた。


 遠くには海原を行く船が見える。どうやら沖の方の波は危険なほどではなく、むしろ強い風が航海にちょうどよいようだ。


 そんな光景を眺めながら、ちょっと想像してみた。

 夕方になると、手前の岩場も暖かい光に包まれ、水平線の向こうに沈んでいく太陽が海面に光の道を作り出す。

 灼熱色の太陽が沈んだ後はどこか優しげな残照の世界となり、やがて高い空からゆっくりと夜のとばりが下りていく。そんな光景を。



 いざミスラ温泉に到着してみると、そこは海岸沿いにある小さな町の温泉だった。街に宿はいくつかあるけれど、どの湯宿も波打ち際に近いところに湯船があるらしい。


 私たちが入ったのは「ホーメイ」という名前の宿だった。

 なんでも調理師は漁師でもあって、新鮮な魚介類が評判の宿だという。部屋が5つほどのこぢんまりとした宿で、落ち着いて滞在することができそうだ。


 ここの宿は、お風呂が海を見下ろせる高台にあるらしく眺望の良さが自慢らしいが、残念ながら時間借りのできる家族風呂はなく男女別のお風呂場となっているという。

 とはいえ昼間の1時間ほどの掃除時間以外は、いつでも入ることができるとあって何度も楽しめそうだ。


 案内された部屋は石壁に木床のシンプルな部屋で、平均的な冒険者の宿といったところ。シングルベッドが2つ並んでいて、ベッドサイドの小さなテーブルには、白い貝殻を利用して作られたお洒落なランプが置いてあった。


 さっそくお風呂に行くことにして回廊を進み、ロナウドと別れて女性用とある扉をくぐった。


 中は小さな板張りの部屋になっていた。板間のすき間からは床下にある岩が見える。


 壁際に3段の棚がしつらえてあって、そこに幾つものカゴが並んでいた。ここに着替えを入れるのだろう。片隅には宿泊客用と書かれた木札があり、そこに小さめのものと大きめのものと2種類のタオルが積んであった。


 夕方には少し早いくらいの時間帯でまだ宿泊客がいるとも思えなかったけれど、どうやら既に3人の先客がいるようだ。

 さっそくカゴに服を入れ、タオルを持って浴場と書かれた扉に手を掛けた。


 ガラッと横に開くと、目の前に器用に岩を組んで作ってある四角い湯船と、その向こうに大海原が広がっている。気分は最高で、思わず笑みが漏れてしまう。


 隣の男風呂との間にこそ板壁が渡されているけれど、この開放感。潮騒が聞こえ、吹き抜ける海風が心地よい。


 先客は3人ともお湯に浸かっていて、扉から出てきた私を見て驚いていた。どうやら地元の人で、こんな時間に宿泊客が入ってくるとは思っていなかったらしい。

 3人の先客は私よりも年上、30歳を超えたくらいの女性たちだった。日に焼けた肌にニコッと笑った顔に、生命力がみなぎっている。


 ――私らは海女でね、という彼女たち。

 どうやらここの宿は地元の人々にもお風呂を開放しているらしく。彼女たちは今日の漁を終えてきたところだという。


 素潜り漁をする海女という女性がいるとは聞いたことがあったけれど、実際に出会うのは初めてだったので少し緊張してしまった。


 私が外の国から来た冒険者だと言うと、いたく好奇心を刺激したらしくて、今までにどんな依頼を受けてきたのかなどの話を聞きたがった。


 海の話を聞く代わりに、面白そうな依頼の話をおおざっぱにすると、彼女たちは喜んでいた。さっぱりとして明るい物言いの彼女たちと接していると、なんだかこっちも楽しくなってくる。

 今日は良い牡蠣が採れたらしい。生は敬遠する人もいるけれど、ぜひレモンを搾って食べてみてと言われ、思わずつばを飲みこんでしまった。


 お湯は無色透明で、屋外だからかややぬるめ。それでも冷え性や乾燥によいらしく、飲むとしょっぱいけれど便秘に効くらしい。


 温泉でゆったりとした時間を過ごした後はお夕飯だ。

 持参したラフな服装になって脱衣所を出ると、ロナウドがベンチに座って待っていてくれた。


「ごめん。待った?」

「いいや。少しだけさ。……風呂上がりに風が心地よくて、気にはならなかったよ」

「そう。よかった」


 こういう何気ない会話に愛しさが湧いてくるけど、紀行文なのでこれ以上は書かない。恥ずかしいしね。


 けれど、いつもは見慣れたロナウドの姿も、こうして温泉地で湯上がりの彼を見ると、いつもとは違う男の色気のようなものを感じる。これも素敵な温泉効果だと思う。


 一度、部屋に戻ってから食堂に向かい、天気が良いので外のテラスに出た。木製のテーブルにロナウドと対面で座る。

 さっそく海女さんがお薦めしてくれた牡蠣と白ワインを頼む。料理を待つ間、夕陽が海の向こうに沈んでいくのを2人で眺める。


 温かいオレンジ色からゆっくりと藍色へ変化していく空。星が瞬き始めるころには、テラス席に設置されたランプが灯り、ロマンチックな雰囲気になった。


 日没を迎えたとはいえ、昼間の熱気が残るテラスで、プリプリした牡蠣にレモンを搾り一口でいただくと、磯の香りを凝縮し、濃厚で滋養たっぷりな旨味に思わず「おいしい」と言葉が口を突いて出てくる。また冷えた白ワインがよく合う。


 牡蠣の他にもメニューには、白身魚のカルパッチョやブイヤベース、魚のグリルなど、漁港のある温泉にふさわしい料理が並んでいる。


 温泉に美味しい料理。ゆったりとした時間を楽しむなら、ミスラ温泉は良いところだと思った。

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