午後三時半。その日の授業が終わり、半日間机に齧り付いていた少女達は、勉学から解放される。清らかなチャイムが鳴りやむと同時に、教室として設けられた部屋のそこかしこから、少女達の疲労した声、或いは、我先にと雑談を切り出す声が上がりだす。

 患者と言えども、リトルガーデンの中に居る限り、病状が手遅れになる一歩手前まで、少女達は健康な人間と大した差異なく活動することができる。それは一重にここの設備が充実しているからに他ならないが、ともかく、少女達はサナトリウムの中で毎日生き生きとした姿を見せていた。授業終わりの姿なんかは、その際たる例である。物語を読んで比べる限り、授業後の雰囲気は、ここと外とで大した差はないのだろう。

 今日の授業は、裁縫の練習であった。花痣病は、運命の人と結ばれた後は、健康な普通の人間となってリトルガーデンを去ることになっている。そうして、ここの外、つまり社会で普通に生きていくために、今の内から基礎的なことは全て学ぶのである。

 アカネは、授業で製作したオレンジ色の小物入れを握りしめる。柔らかい布でできたそれは、決して大きなものでなないが、それ故に細やかな作業を必要とした。あまり手先が器用ではないアカネは、自分の指を針で幾度となく刺してしまい、完成まで随分と苦労を強いられたのである。

 今日はいつも以上に疲れた。そういう日は、ざわめきの中に居るのが多少辛い。一人になる機会が少ないリトルガーデンにおいて、その感覚は少し厄介だ。限られた娯楽の中で、一番手早くできる「会話」を率先して行う少女は多い。一度捕まったら最後、解放されることは中々なく、一人になるチャンスを逃してしまう。

 アカネは騒めきから逃げる様に、静けさを探してサナトリウム内を歩いた。いつもより速足になった足は、意図的に人の少ない廊下を選別して歩く。

その先には、少女達を教育する教師、また、ここを管理する看護婦などがいる大人用の部屋がある。少女達は何か特殊な用事が無い限りはそちらに近付かない為、自ずと人影は少なくなる。

 人気のない廊下では、足音がやけに響く。それが気になって何となく足音を殺しながら歩いていたアカネは、ふと聞こえてきた声に、足を止めた。


「それじゃあ、カオルちゃん。貴女の金木犀、明日から展示しに持って行くわね」

「はい」


 曲がり角の先から聞こえてくる清らかな声に、アカネは無意識に背筋を伸ばした。廊下に響く少女の声は間違いなくカオルのものである。若い女性の教師は、明るい声音で、彼女に次の言葉を投げかけた。


「大丈夫、あんなに綺麗に咲いて、匂いもとっても素敵だったもの。きっと今回こそ見つかるから、待っていて」


 きっと運命の人がくるから、という励ましの言葉は、アカネの胸を突き刺した。誰かの隣で幸せそうにするカオルの姿が脳裏を過る。想像に過ぎないそれでさえ、アカネの腹の中に不愉快な黒色を生みだすのだ。それが現実になってしまったら、と思うと、恐ろしい。

 アカネは、無音のまま壁に背を立てた。呼吸さえ止めて、二人のやりとりに聞き耳を立てる。生命の息吹を少しも感じない壁が、アカネの騒がしい心臓の音を露わにする。嫌な音だった。これから、不幸のどん底に叩き落されてしまいそうな、そんな感覚が全身を巡る。


「運命の人、ですか」

「ええ。きっと素敵な人がカオルちゃんにも見つかるからね」

「あたし、まだ信じられないんです。本当にあたしにもいるのかしら」


 何処か疑念を滲ませた柔らかい声の後、くすくすと細やかな笑い声が続く。食堂でも、それよりもっと前にも、彼女はその話題に触れるといつだって「分からない」という回答を口にした。

 アカネは、それを聞く度に、自分の苛立ち、或いは焦燥感が落ち着くことを知っていた。彼女がそれを知らなければ、信じなければ、もしかしたら本当にいなかったことになるかもしれない。そんなことになった時、最後に彼女が辿る結末は悲惨だが、もしも、もしも。

『男』ではない、『王子様』ではない誰かが、彼女の『運命の人』に選ばれるとしたら。

 王子様が消えたとき、彼女はお姫様ではなくなるのではないだろうか。そうしたら、口を揃えてお姫様だと持て囃していた無数の少女達ではなく、唯一彼女をお姫様扱いしなかった誰かが、彼女と運命で結ばれるのではないだろうか。

 つまり、アカネは、こう思うのだ。

 彼女が永久に王子様を信じなければ、彼女がお姫様のドレスを脱いでくれれば、選ばれるのは自分なのである。

 そんな甘美な想像が、アカネに蕩けるような感覚を与えた。だからこそ、分からないという割に金木犀の世話を熱心に行う彼女を見ると、心底眩暈がするような苛立ちに見舞われる。

 永年に王子様の夢など見られなくなってしまえばいいのに。アカネの内心は、このところそんな激情で燃えていた。


「きっといるわよ。実際、運命の人と出会った女の子たちは無事に病気を治してここを去っていったもの。今も元気にやってるってお手紙がくるの。だから、カオルちゃんにもきっといるわ」

「そうですか」

「ええ。楽しみにしていてね。今年は、去年よりももっと多い人が来るはずだから」


 本人よりも浮かれた様子の教師の言葉が聞こえてくる。それに相槌を打つカオルの声を聞き、アカネは小さく目を伏せた。

 金木犀の香りは独特で強い。あの主張の香りを嗅げば、直ぐに金木犀があると理解できるし、そうなれば、自ずと人々は金木犀に注目するだろう。

 去年よりも多く人が来る。つまり、金木犀の香りに惹かれる人間が増える。その中に彼女の運命の人がいないと、どうして断定できようか。

 祈ることしかできない。しかし、祈りが神に通じないということは、自分が花痣病の患者であることが何よりの証拠だ。殆ど覚えていない両親だが、その微かな記憶の中を探れば、自分の子供が健康であるようにと祈るような人達だったはずだ。その祈りが虚しく散った結果が現在のアカネである。祈りなど、何の価値もない思考停止に過ぎないのである。

 もしも現実を自分の思う通りに動かしたければ、行動するしかない。運命は、祈りではなく行動に応えるものだ。


「明日が楽しみです」


 朗らかなカオルの言葉が鼓膜を撫でる。それを合図に、アカネは足音を消したまま廊下を歩いた。廊下の窓から差し込む光が温かい。

 何処か微睡みを誘う光に満ちた空間で、アカネは静かに拳を握りしめる。それから、手中の柔らかい布の感触に、静かに微笑みを携えた。

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