第4話 端午の節句

 五月の連休に入った途端、あれだけ降っていた雨も狙ったように上がり、太陽が顔を出した。夏が迫った空は、雲と切れ間の色がはっきりとした二色の空だ。

 連休であっても予定はない。親父にどこにも連れていってやれなくてすまん、と謝罪されたが、高校生にもなって二人で出かけるのもこっぱずかしい。連休はずっと家にいると告げたときの、親父の顔が忘れられない。軽く憎悪の念を抱いた。少ないが友達くらいいる。

「ごめんね、せっかくの連休なのに」

「別に。暇だし」

 こういうことである。蓮見和菓子店に手伝いを所望すると一方的に告げられ、放り出されてしまった。

「肺炎はよくなったんだけど、今度は腰を痛めちゃってね」

「親父から聞きました。早く良くなるといいですね」

「お見舞いのお茶もありがとう。とっても喜んでいたわ。ひとりで選んだの?」

「…………や、えと……知り合いから」

「ではその方にもお礼を伝えてね」

 どう伝えればいいのだろうか。悪意のない笑顔が今は堪える。

 むわんとしたものが頭をよぎり、何なのか考えても答えは見つからない。あの公園での出来事以来、担任の得体の知らない諦めきった顔と大人びた流し目が小刻みに揺れ動いている。得体が知れないのは俺の頭かもしれない。

 床やショーケースの掃除を終え、和菓子を並べる。一人前にはほど遠いのに、任された責任は重大だ。

「電球も変えましょうか?」

「いいの? じゃあお願いしようかな」

 端の電球だけ光が失ってしまっている。脚立に上るが、俺でも天井に手を伸ばさなければ届かない。

「ありがとう。とても助かるわ。雅人君にお土産があるの」

 渡された袋は重みがあり、手に落ちる。

「柏餅よ。この季節限定で、作っているの。ほら、端午の節句だから」

「…………こどもの日」

「同じようで違うのよ」

「そうなんですか」

 薫子さんは端午の節句だから、と繰り返す。こども扱いしない姿勢は、親父とは違う。親父は俺の誕生日となると、平気でお子様ランチを作る。サイコロステーキ入りのお子様ランチだ。

「お父さんの分は別にあるから、それは雅人君ひとりで食べて」

「……ありがとうございます」

 一体何個入っているんだ。けっこうずっしりくる。

 働き以上のお駄賃にお礼を言い、店を出たちょうどそのとき、道路を挟んだ向こう側によく知る人物が先を歩いている。全身の毛穴が開いて汗が一気に吹き出てくる。熱のこもる季節でもないのに、足下がふらりとした。俺は全力で走り、車が来ない道路を渡った。

「星宮先生」

「え?」

 呼ばれた先生も驚いているが、俺だってけっこう平静を失っている。一度しかお目にかかっていないコンタクトレンズ姿だ。身体に合っていないカーディガンでもこじゃれたスーツでもない、パーカーとジーンズ姿だった。

「偶然だね……びっくりした。お家はこの辺りなの?」

「あそこ……蓮見和菓子店が、俺の義理の母親にかるかもしれない人の店」

「ここだったの?」

 嬉しそうに声が高くなる。

「いずれ行ってみたいなって思ってたんだ。ネットで検索して、美味しいって出てたし。白あんを使ったお饅頭もあるみたいだし、なかなか白あんってメジャーじゃないから」

「黒あんばっかりですからね。……黒あんは嫌いですか?」

「ううん。好き」

 好き。眩しい笑顔にどうしようもなくて、俺は明後日の方向を見た。偶然が重なり、目線の先は公園だ。この前の夜の出来事がフラッシュバックする。

 袋の中を覗いて見た。柏餅が三個。ひとりで食べられなくはないが、多い。

「先生……あの……何してましたか?」

「僕はお散歩。車は置いてきて、することがないから買い物でもしようかと思って」

「よければ……公園で、」

「公園?」

「…………柏餅、食べませんか?」

 そういう顔になるのも分かる。あのときは先生が歩けないくらいの緊急事態で、もし誰かに見られても上々な理由を並べられた。今とは違う。もし生徒に見られたら、どう理由を整列させたらいいのか。古賀の顔が脳裏をよぎった。

「………………うん」

「え?」

「……食べたい」

「いい、んですか」

 変なところでつっかえてしまった。

「こどもの日だし」

 先生からすれば、俺は子供だ。社会人と学生の差は、こんなにも大きい。

「じゃあ、あの、公園で」

 駅からは離れているし、入り組んだところにある。生徒に会わないと思いたい。

 宝石を並べたとは言い難い、錆びついた機具が点々とある公園だ。点検はしているのか、子供は怪我をしないのかと、関係のないことばかり頭に浮かぶ。

 ベンチに座ると、星宮先生はペットボトルの水とブラックコーヒーを買って、片方を渡してきた。

「この間のお礼」

「ありがとうございます」

「いつもブラックなの?」

「あまり飲み物はあまり飲まなくて。先生はいつも水?」

「普段は緑茶が多いかな。水は滅多に飲まないんだけど、今はそういう気分」

 水を飲みたい気分というのはいまいち分からないが、そういうときもあるのだろう。俺も、好きなコーヒーじゃなく、たまにはコーラやサイダーを飲みたいときだってある。

 三つあるうちの二つ取り出し、一つずつ分けて食べた。

「柏の葉の香りがいいねえ」

「違いなんてあるんですか?」

「あまり匂わないものもあるよ。僕は、しっかり香る方が好き」

 小さい口を開けると、赤い舌が見えた。視線が宙を舞い、同じ赤いものでも変色した赤いすべり台が目に止まった。

「……もう食べたんですか」

「美味しくて」

 残った葉をたたみ、名残惜しげに器用に結んだ。

「もう一個食べます?」

「それ、一ノ瀬君がもらったんじゃないの? こどもの日だし」

「子供子供って……バカにしてます?」

「違うよ。愛されてるなあって、羨ましく思っただけ」

「先生の家は、そういうイベントはやらなかったんですか?」

「ないね」

 きっぱりとした言い方だ。

「あ、でも、おばあちゃんはよくしてくれたよ。得意の根菜の煮物で祝ってくれた」

「愛されてるじゃないですか」

「おばあちゃんからはね」

 謎が残り、後に引く言い回しでモヤがかかる。

「あのさ……話を聞いたら……駄目ですか?」

「そりゃあこんな言い方をしたら気になるよね。家族全員、ゲイを受け入れてくれなかった家で、おばあちゃんのところに逃げただけ」

 現実を突きつけられたのに、俺は光のようなものが舞い込んできた。がっかりだとか、可哀想だとか、そんな感情よりも心が踊り狂いたいと、高ぶっている。先生が俺だけに、プライベートの話をしてくれている。

「……星宮先生は、子供が好きですか?」

 もっといろいろ、聞きたくなった。

「子供ってひとくくりにはしてないよ。それぞれ個性をちゃんと見てる」

「先生の鑑ですね」

「え? そう取る?」

「どういう意味?」

「好き嫌いがあるって意味」

「うわ…………」

「引いた?」

 悪戯に笑う顔は、俺には眩しい。眩しくて、顔を伏せた。

「内申点は平等につけているから心配しなくていいよ。僕も、給料分くらいはちゃんと働いている」

「なんで教師になったんですか?」

「安定しているから」

「安定感……」

「そう。安定感ね。それ以外は、国語の成績はいつも良かったから」

「子供が好きとかじゃなく?」

「うん」

 むしろここまで暴露大会となると、いっそ清々しい。

「親に捨てられた僕は、子供の気持ちは分からない。楽しそうに同世代と好きな人を打ち明ける気持ちも、帰りにハンバーガーショップで時間を潰す気持ちも……異性の恋人を持つ気持ちも。さっきはちょっと嘘ついた。好き嫌いがあるって言ったけれど、苦手か嫌いがほぼ九割」

 公園がおかしくなったのか、すべり台だけがおかしくなったのか、視界のすべてがぼやけている。季節外れの霧がかかったのかもしれない。

「俺は、それでいいと思う。子供が苦手だって言っても、先生の授業は分かりやすいし、別に不便なことは起こっていない。義務教育者を相手にしているわけじゃないし、仲良しこよしはする必要ない」

「……生徒相手に、何を話しているんだろうね」

「俺は…………嬉しいよ」

 ぽろっと出てしまった。思ってもみない返答だったのか、先生は口が開きっぱなしになっている。

「一ノ瀬君は、いつもお手伝いをしているの?」

「たまにですけど」

「えらいね」

 手をいっぱいに伸ばした手は、俺の頭に置かれていて。左右に動くたびに俺の頭も揺れる。なんでこうなったんだ。

「完全に子供扱いだな」

「大人の扱いされたいの?」

「まあ…………」

「それはもう少し大きくなってからだね」

「大学生になったら、大人扱いしてくれますか?」

「そう、だね。どうだろ……」

「なんでそんな曖昧なんですか」

 言われてから気がついた。そこは、はっきり大人として付き合うと言ってほしかった。俺は……卒業後にも先生に会いたがっている。

「先生、苦手だからこそ挑戦もできる。連休が開けたら、クラブで琥珀糖を作るんだ。先生も来てよ。クラブの奴らなら、きっと先生も馴染める」

「うん……お菓子は作れないけど」

 腕時計は持っていないのか、星宮先生は携帯端末を取り出して時間を気にしている。俺といる時間が苦痛なのか。

 画面いっぱいには、星空が広がっている。

「先生の机にも本があったけど、星好きなんですか?」

「うん。田舎でよく屋根に上って見てた。一ノ瀬君も好きなの?」

「どちらかというと、天体や星ってのは苦手で」

「なんで?」

 こういうところは教師の鑑だと思う。短い質問で優しく問いただし、蓋の下に眠る原因を探ってくれる。

「小学生の頃、太陽は東から昇って西に沈むってやったじゃないですか。一日のうちで気温はいつ高くなるとか。日本で夏に見える星座とか」

「うん」

「授業で勉強する前に、問題を出されたんです。多分、想像力を働かせるための授業だったんだろうけど。俺、本で読んで事前に答えを知ってたんです。嬉しくなってすべて正解の答えを書いたら、お前は先に教科書を見てカンニングしただろうと、クラスメイトの前で怒られました」

「腑に落ちない話だね。復習を真っ向から否定なんて」

「テストの点数は悪くなかったんですけど、成績表はあまりよくなかった。先生も嫌いになりましたね。子供っぽい話だ。星が苦手って言いましたけど、トラウマを思い出すから過去が嫌いなんだ」

「大人になると逃げ道はいろいろ増えるけど、学生は学校か家しか逃げる場所がない。どちらかが崩れると、居場所が半分減るんだよ」

 端末を渡された。画面には、目を伏せたくなるほどの眩しい星たちが煌々としている。

「これ、先生が撮ったの?」

「綺麗でしょ? 田舎にいた頃を思い出すから、落ち込んだときはこれを見て元気になってた」

「確かに……これは元気が出るかも」

 日本で撮ったとは思えない。そもそも都会だと星はほとんど見られないから、田舎暮らしの特権だろう。どの写真も世界三台夜景と思わせるほどの輝きが、夜空を埋め尽くしていた。

 実は、写真よりも星を語る生き生きとした先生を見ている方が元気が出るけれど、黙止を貫いた。

「先生はずっと田舎暮らしだったんですか?」

「都会とも呼べるし田舎とも呼べるような場所から田舎に移り、都会に来たって感じかな」

「引っ越し多いですね」

「まあね。ゲイって、居場所がないから」

 今度こそ話は終わりだ、と星宮先生は立ち上がり、うんと背伸びをした。普段の幼い顔つきとは違い、いつもより大人びて見えた。

「ずっとお水のお礼がしたかったんだけど、また気を使わせちゃったね。今度、返すから」

「あ、ああ…………」

 宿題は全部終わらせるようにと教師の顔に戻り、公園から出ていく先生を見送った。小粒になるくらい見えなくなるまで、俺は目が離せなかった。

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