コーヒー・アンド・ストッキング10
人生で初めて足を踏み入れる女の部屋は、あまり綺麗なものではなかった。部屋が汚い凜に指摘できたことではないが、纏の部屋は女らしくなかった。
玄関に放置されたごみ袋。部屋の隅で身を潜めているごみ。消臭スプレーの人工的な香りに混じって漂うごみの腐臭。
纏をベッドに下ろして、その隣に座る。深く息を吸って乱れた呼吸を整える。
居酒屋からアパートまで纏に肩を貸して歩いてきた。ろれつが回らない彼女の説明を何度も聞き直しながら。排水溝で嘔吐する彼女につられて胃の中身をぶちまけないように注意しながら。
「凜くん、ごめんね。みっともない姿を見せちゃって」
「アルコールに弱いのに三杯も飲むからですよ。俺もかなり危なかったですけどね」
「でも、今日は楽しかったな。こんなに楽しかったのは久しぶり」
「俺もです」
吐息が酒臭い。二日酔いになるのは確実だ。
「会社の飲み会の後もこんな感じなんですか?」
「こんな感じって?」
「えっと、酔っ払って誰かにアパートまで送ってもらうんですか?」
「酔わないように気をつけているよ。一杯のビールを水と一緒にゆっくり飲んでさ。そもそも私はあまり飲み会には参加しないんだ。社交辞令でたまに参加するくらいかな。会社の飲み会はつまらないから」
社交辞令――社会の暗黙のルールに束縛される苦労を凜は知らない。今もそれを避け続けている。
「社会で生きるのは大変ですか?」
「まあね。オフィスにいると、生きている心地がしないわ。凜くんはどんな時に生きていることを実感する? やっぱり執筆している時?」
「いや、執筆している時は……長い夢を見ているような気分です。現実をさっぱり忘れて、小説の世界にダイブするんです。生きている心地はしませんね。俺が生きていることを実感するのは、缶コーヒーのプルタブを開ける時です」
「なんかわかるかも。でも、どうして?」
「俺、プルタブを開ける音が好きなんです。肩にのしかかっている負の塊がほんの少し軽くなるような……すみません、意味がわかりませんよね」
「ううん、わかるよ。だって、私と同じだもん」
蝉が飛び去る際に発する哀哭のような音が、部屋の空気をつんざいた。
肌色のストッキングが引き裂かれて、日焼けしていない病的なまでに白い太ももが覗いている。異常な光景を目の当たりにして、酔いがすっかり覚める。
「これがストッキングの秘密。毎晩、自分で破いているの。ストッキングが破れる音を耳にすると、孤独がどうでもよくなって興奮するの。変態みたいで気持ち悪いよね」
纏はしおらしくうなだれた。
「幻滅されるのが怖くて、ずっと隠していた。誰にも知られたくなかった。凜くんにも知られたくなかった。でも、このままじゃ変われない。だから、秘密を話すね」
引き裂かれたストッキングは、纏の心を表していた。彼女の心は孤独でずたずたに破れていた。
もう使い物にならないストッキングを脱ぎ、纏は咳払いした。
「高校時代、友達も恋人もいなかった私に初めての親友ができた。彼女は私のことを親友だと言ってくれたの。あの時は大声を上げて泣いたなぁ。たったの一言に感動して、人間の温かさを信じることができた。私は彼女とずっと一緒にいたわ。休憩時間は他愛もない話をして、昼食も一緒に食べた。休日はよく遊んだ。普通の人間にとっては当たり前のことが、とても幸せなことだと思えた。彼女がそばにいてくれたら、それだけで私は幸せだった」
凜には纏の幸せが理解できなかった。
友達と恋人がいる幸せ。一度それを知ってしまったが最後、人間は誰かの温かさに飢えることになる。孤独はまるで呪いだ。
孤独という呪いに苦しめられている纏に、憐憫と羨望の感情が湧いた。
「私は彼女のことが大好きだった。でも、それは親友としてじゃなかった。私にとって彼女は恋愛の対象だったの。もちろん私も気付かなかったよ、自分が同性愛者だったなんて。ある日、彼女は私の家に遊びに来た。その日、彼女はストッキングを履いていた。私はもう遊びどころじゃなかった。ストッキングがあまりにも煽情的で、興奮を抑えられなかった。私はついに唯一の親友を襲った。柔らかな唇にキスをして、彼女をベッドに押し倒した。ストッキングを破いた瞬間、彼女の大切なものを奪ってしまったような気がしたわ。彼女の怯えた表情が脳裏に焼きついて離れない。彼女は私から逃げた。その日を境に、彼女は私から離れてしまった。私は唯一の親友を失った。それ以来、人間不信になってしまったの。まあ、自業自得なんだけどね」
横目で隣を見やると、纏は萎えたストッキングを弄んでいた。
励ましの言葉が見つからない。いや、励ますべきではないのかもしれない。きっと纏の前ではどんな言葉も空気が抜けて軽くなってしまう。
沈痛な面持ちで俯く纏とは対照的に、凜は胸のつかえが取れたように晴れやかな心境だった。疑問の塊が破裂してせいせいしていた。
無言で待つべきだと思った。この部屋に相応しいのは無言だった。
「ねぇ、今夜は泊まっていってよ」
静寂を切り裂いたのは、ナイフのような一言だった。
「さすがにそういうわけにはいきませんよ」
凜はあくまで緊張を押し殺してそう答えた。
「お願い。ただそばにいてくれるだけでいいの。もう一度人間の体温を感じたいの」
「俺でいいんですか?」
「うん。凜くんなら信用できる。私の秘密を知っても幻滅しなかったから。そうでしょう?」
「はい、幻滅なんかしていません。姫宮さんの話には共感できる部分もありました。でも、俺と姫宮さんの孤独は違います」
「孤独であることに変わりはないよ。一人は辛い。私を一人にしないで」
纏はベッドの上に横たわった。彼女は凜に背中を向けて静かにすすり泣いた。
孤独にはもう慣れてしまった。今さら人間の体温なんて求めていない。一度知ってしまえば、孤独という居場所は失われてしまう。
しかし、凜は照明を消して、纏の隣に身体を横たえた。シングルベッドであるため、二人の身体は窮屈に密着していた。
「温かい」
「暑いくらいですよ」
部屋の中は少し蒸し暑かった。
窓から吹き抜ける風が、汗をゆっくりと冷やしていく。
暗闇がいつもより明るく思えた。孤独がいつもより遠くにあるように思えた。
――凜は人間の体温を知ってしまった。
「ねぇ、凜くん」
「はい」
「夢も希望もない質問だけど、もし小説家になれなかったら凜くんはどうするの?」
「旅に出ようと思っています。何かとの出会いに期待して、あてもなく放浪するつもりです。京都にでも行こうかな」
「ちゃんと将来のことを考えているんだね」
「何も考えてませんよ。俺はただ社会から逃げようとしているだけなんです」
「それはそれですごいことだよ。私は社会から逃げられなかった。社会と孤独の狭間が居場所になってしまった。はぁ、私は一生OLのままなのかな」
「先のことなんてわかりませんよ。だから、人間は生きている」
「おお、凜くんが言うと含蓄があるね」
凜は溶けるようなまどろみに誘われていった。纏の体温を感じていると安心できた。今夜は安眠できそうだった。
朧な意識の中で、消え入りそうな嗚咽が鮮明に凜の耳の奥に残っていた。
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