コーヒー・アンド・ストッキング5

 午後九時。

 夕食で満腹になり、睡魔が襲い来る時間帯。凜はノートパソコンを閉じて椅子の背もたれに体重を預けた。

 そろそろカフェインが必要だ。まだ眠るには早すぎる。

 凜は部屋着から私服に着替えた。鏡の前でまだワックスのついた金髪を少し弄り、両親には何も告げずに家を出た。

 外にはまだ夏の残滓が漂っていた。うだるような空気が重苦しくて呼吸しづらかった。

 明日は休日。通りでは、雑談しているサラリーマンの集団がいくつか見受けられる。これから居酒屋にでも飲みに行くのだろう。真面目に帰宅している人間もちらほらいる。

 あのOLはもう帰っただろうか。それとも、コンビニにいるだろうか。

 凜は鼻で笑った。

 さすがにあり得ない。夕食を買って帰るにしては遅すぎる。あのOLと出くわす確率は低い。

 例のOLについて思案していると、ふとした疑問が浮かび上がってきた。


 ――何故ストッキングは破れてしまったのだろうか。


 少なくとも、午前二時から午前十時の間にストッキングが破れたことになる。深夜にストッキングを買いに行ったのは、恐らくその直前に何かあったからだ。そして、今朝も何かあったのだ。その何かのせいでストッキングが破れて、再びコンビニでストッキングを買い直す羽目になってしまったのではなかろうか。遅刻したのは、寝坊か何かのせいだろう。

 凜の推測で鍵となったのは「何か」だった。

 もう少し「何か」について推測してみることにする。

 時間帯を考慮に入れると、恋人の男が絡んでいる可能性もある。恋人にストッキングを破られているとしたら。そういう嗜虐的な趣味のある恋人だったとしたら。なるほど、胸中に芽生えた疑問はひとまず解消される。

 ところが、この男が恋人でないと仮定するとどうだろう。あのOLの弱みを握って乱暴しているとしたら。その際にストッキングが破れているとしたら。「何か」からは犯罪の匂いもする。

 そして、例のOLが一人暮らしで恋人がいないと仮定してみるとどうだろう。単なる偶然でストッキングが破れてしまった可能性もある。偶然が二度続くこともまた偶然だ。あり得ない話ではない。

 例のOLについて真摯に推測していることが滑稽に思えてきた。凜は込み上げてくる笑いをこらえた。

 いずれにせよ、コンビニに行けばわかることだ。たとえ今日出会えなくてもいつかは出会える。その時、ストッキングを買っているか否かでまた推測が変わってくる。

 こうして一人の人間について思案していると、推理をする探偵のような気分になれる。推理小説に挑戦してみるのも悪くないかもしれない。

 コンビニに辿り着く。駐車場は満車。店内は多種多様な人間で繁盛している。これこそがコンビニのあるべき姿だ。

 案の定、例のOLはいなかった。サラダとお茶をかごに入れているOLならいたが、凜の目当てのOLではなかった。

 いつものように飲み物のショーケースへと直行し、缶コーヒーを手に入れる。一応、トイレを確認してみるが、鍵はかかっていない。念のために全ての棚を回ってみるが、やはりはOLはいない。

 凜はがっかりして肩を落とし、お菓子の棚の前で立ち止まった。

 今日は三人の大学生がいた。彼らはかごの中に適当なお菓子を片っ端から入れていた。カロリーはもちろん、金も気にしていない様子だ。かごはすぐに満たされた。三人の会話から察するに、じゃんけんで負けた者がおごるという賭けをしているらしい。輝かしい青春の一ページに、凜は冷めた視線を注ぐばかりだった。

 はしゃぐ三人の大学生を横目に、今日の夜食を選ぶことにする。

 今朝はチョコレートを食べた。甘党の凜は好んで甘いお菓子を選ぶが、夜食といえばジャンクフード。たまにはスナック菓子もよさそうだ。

 ふと今朝の出来事が脳裏を過ぎった。


 ――フライドチキンを一つお願いします。


 そういえば、あのOLはストッキングとミネラルウォーターと一緒にフライドチキンを買っていった。彼女はきっとやけになっていたのだろう。若い女がフライドチキンを注文するなんてめったにないことだと思う。ひょっとしたら貴重な光景に遭遇したのではなかろうか。

 夜食をフライドチキンにするのも魅力的だ。小腹を満足させるにはちょうどいい。

 だが、深夜に食べる頃にはまずくなっているだろう。きっとすっかり冷たくなって油で衣がぶよぶよになっている。

 やはり無難なチョコレートか。

 三人の大学生がチョコレートの箱から離れる隙を窺っていると、自動ドアの方から妙に静やかなハイヒールの足音が聞こえてきた。

 例のOLだ。

 後ろめたいことがあるわけではないが、なんとなく隠れなければならないような気がした。ひとまず凜は棚を回り込んでみることにした。

 飲み物のショーケースの前で棚の角を曲がる。その瞬間だ。


「ああ、びっくりした。ごめんなさい」


 足早に歩いてきたOLと危うくぶつかってしまうところだった。てっきりまたストッキングを選んでいるものだと思っていたが、彼女は先にミネラルウォーターと缶ビールを取りに来ていた。

 これからストッキングを買うのか観察したいところだが、鉢合わせになってしまった以上それは難しい。もしかしたら、顔を覚えられているかもしれない。いや、この目立つ金髪を認識されているかもしれない。

 凜はOLの横をすり抜けようとしたが、残念ながらそうはいかなかった。逃がさないとばかりに呼び止められてしまった。

 両親と話すことも少ないため、緊張で磔にされたかのように硬直する。


「今日、君と会うのはこれで三度目だよね?」


 返事をしたいが、どうしても吃ってしまう。OLとまともに目を合わせることができない。

 凜はどうにか首肯を返した。緊張を察してくれたのか、彼女は申しわけなさそうに視線を外した。


「いきなり話しかけたりしてごめんなさい。迷惑だったよね」


「あっ、いや、そんなことないです」


 咄嗟に否定できたものの、それ以上は言葉を続けることができなかった。OLは気まずそうに苦笑した。


「ブラックの缶コーヒーが好きなんだ?」


「はい」


 本当は好きというわけではないが、説明するのも面倒だったので肯定しておく。


「やっぱり。今朝も缶コーヒーを買っていたよね?」


「はい。目覚ましにちょうどいいんです」


「へぇ、ブラックが飲めるなんてなんか渋いね」


 会話が続かない。当たり前だ、まさか話しかけられるなんて思ってもみなかったのだから。完全に油断していた。話しかけられる可能性を考慮して、話題の一つや二つくらい用意しておくべきだった。

 すぐに立ち去るわけにもいかず、話題を求めて脳を最大限まで働かせる。季節外れな雪で脳内がホワイトアウトする。

 しかし、一筋の光で雪は晴れた。救済は意外にも早く訪れた。


「ストッキング、買わないんですか?」


 OLはきょとんとした。

 ああ、やってしまった。

 凜は愚かな質問を後悔した。

 ストッキングが破れた理由が単なる偶然だったとしたら。今回、OLがストッキングを買いに来ていないとしたら。もしこのどちらかが当てはまるのなら、わけのわからないことを口走ってしまったことになる。

 ところが、OLはぎこちなく視線を彷徨させた。


「ああ、買うよ」


 この一言で偶然という推測は除外された。


「やっぱり君も私に気付いていたんだね。見苦しいところを目撃されてしまったな」


「見苦しいところ?」


「ほら、今朝のこと」


「ああ」


 ゆっくりと互いの歩調を窺いながら、二人はストッキングが置いてある棚の前まで移動した。OLは肌色のストッキングに手を伸ばした。


「寝坊はするし、二日酔いはするし、ストッキングはテーブルの角に引っかかって破れるし、オフィスでは上司に浴びるほど怒られるし、残業はさせられるし、今日は最悪の一日だったわ」


 凜の脳内で推測に訂正が加えられる。

 今朝、ストッキングが破れたのは偶然だった。そして、遅刻したのは寝坊のせいだった。つまり、「何か」があるとしたら午前二時以前だ。「何か」があればの話だが。


「ああ、ごめんなさい。愚痴なんかこぼすつもりはなかったのに」


「今日は災難でしたね」


「ありがとう。大学生?」


「はい」


「ってことは、夏休みかぁ。いいなぁ」


 羨望の眼差しで見つめてくるOL。彼女も少し前まではOLではなく大学生だったのだ。生きるために就職し、社会という荒波の中で生きることになった人間だ。

 このOLが普通なのだ。俺が特別なのであって、普通の人間は社会の中で働く。小説家は社会の中で働いているというよりは、社会の外で孤独に働いていると思う。

 凜は社会を抽象的な労働集団と定義している。

 社会という労働集団に属している人間は孤独ではない。たとえ会ったことも話したこともないとしても、同じく社会という労働集団に属している人間とは仲間である。この世界のほとんどの人間は繋がっていないようで案外繋がっている。

 このOLはどうしてOLになったのだろう。俺はどうして小説家にこだわっているのだろう。どうして小説家という職業に全てを賭けているのだろう。

 これまで疑問に思わなかったことが疑問に思えてきた。磐石だった常識が嘘だと判明した時のような衝撃だった。

 恐らくこのOLがOLになったのはごくありふれた理由からだ。彼女は働くために生きている。働いていることにも生きていることにも疑問を抱くことなく、ただ日常を過ごしている。

 俺は生きるために働きたい。生きていることを実感できる職業に就きたい。本末転倒の人生は望んでいない。俺が小説家にこだわっているのは生きるために働けるからだ。働くために生きるくらいなら死んだ方がましだ。なるほど、俺は小説家という職業に全てを賭けられるわけだ。

 脳内で自問自答している間に、OLはレジに並んでいた。彼女は手招きして他の客を足止めしてくれていた。彼女の後ろに並んだところで、チョコレートを取り忘れていたことに気付いた。

 三人の大学生は未だにお菓子の棚の前で盛り上がっている。迷惑な客だ。まあ、いい。たまには節約をしなければ、缶コーヒーを買う金がなくなってしまう。

 凜は仕方なく夜食を諦めることにした。

 すると、OLは振り返って微笑んだ。


「ねぇ、お腹は空いている?」


「はい?」


「夕食は食べた?」


「えっと、一応食べましたけど、二時間くらい前のことです」


「ふーん、わかった」


 首を傾げていると、OLはレジの横にあるショーケースの中を指差した。


「フライドチキンを二つお願いします」


 二つも注文したということは、夕食にでもするつもりだろうか。また若い女がフライドチキンを注文する光景を目の当たりにしてしまった。若い女がフライドチキンを食べないというのは偏見だったのかもしれない。

 OLはビニール袋を片手に提げてコンビニの外に出た。

 凜はさっさと会計を済ませてOLの後を追う。


「私、ダイエット中なんだ。でも、意志が弱いからどうしてもアルコールとかスイーツとかジャンクフードとかの誘惑に負けちゃうんだよね。だから、一つは君にあげる」


 そう言って、OLはフライドチキンを一つ差し出してきた。


「えっ、そんな、悪いですよ」


「いいから。愚痴に付き合ってくれたお礼。私のダイエットに協力すると思ってもらってくれない?」


「はぁ。本当にいいんですか?」


「うん。どうぞ」


「ありがとうございます」


 渋りながらもフライドチキンを受け取ると、OLは踵を返して手を振った。


「じゃあね。また会えるといいね」


「そうですね」


 蒸し暑い夏の中を歩いていくOL。誇張されたハイヒールの足音。ストッキング、ミネラルウォーター、缶ビール、フライドチキンを携えて、彼女が遠ざかっていく。季節外れなくらい温かいフライドチキン。食欲を刺激する香ばしい匂い。夢から覚めたような気分だ。目が覚めると、缶コーヒーとフライドチキンが手中にあった――そんな感じだ。

 凜は缶コーヒーのプルタブに指をかけようとして、途中でやめた。

 鼻から深く息を吐き出し、帰路につく。


「いや、待てよ」


 突然、どす黒い巨大な塊が内心を支配した。それはゆっくりと思考を蝕んでいき、破裂する寸前まで肥大化した。


 ――あのOLは何故ストッキングを買っていったのだろう。


 この疑問が何か重大な気がした。

 今朝のストッキングはまだ破れていなかった。それなのに、あのOLは肌色のストッキングを買っていった。二度とも黒色のストッキングだったにもかかわらず、彼女は肌色のストッキングを選んだ。何か意味があるはずだ。あれは替えのストッキングなのだろうか。それとも、「何か」が関係しているのだろうか。

 だが、深夜に買ったストッキングが破れたのは偶然だ。OLはテーブルの角でストッキングを破いてしまったと言っていた。今朝の出来事はただの事故だった。「何か」が入り込む余地はない。

 しかし、だ。三度目のストッキングの購入で、偶然という推測は覆った。さすがに不自然だ。午前二時以前に「何か」があったとしか思えない。これから「何か」があるような気がしてならない。午前二時以前の「何か」とこれからの「何か」は恐らく同じだ。

 あのOLは「何か」のためにストッキングを買っていったのではないだろうか。OLは「何か」と同居しているのではないだろうか。

 相変わらず「何か」は靄に包まれてはっきりしない。

 玄関のドアに手をかけると、疑問の塊は空気を入れすぎた風船のごとく破裂した。

 リビングを覗く。寝転んでテレビを見ている両親。いかにも面白くなさそうな番組だ。生気のない表情。まるで蝉の抜け殻のようだ。

 家に帰ると、今度は別の疑問が鎌首をもたげた。

 両親は生きている意味を考えたことがあるのだろうか。彼らにとって生きる意味とはなんなのだろうか。

 早朝、支度をして仕事に行く。仕事で一日を費やし、帰宅して夕食を取る。シャワーを浴び、取り憑かれたようにテレビと向かい合う。そして、眠る。明日から休日だが、だからといって特にすることもない。暇を持て余して、ひたすらテレビを見つめるばかりだ。

 何が面白いというのだろう。テレビ同様、つまらない日常だ。

 だが、この世界は両親のような人間で溢れている。両親のような人間が普通なのだ。

 惰性こそが幸せの敵だと思う。惰性は人間を堕落させる。全てのことが惰性になり得る。幸せさえも。幸せは蝉の命のように短い。幸せが続くと、それは惰性へと変貌する。惰性となった幸せは仰向けになり、今度は不幸となる。

 この世界で幸せな人間は一握の砂よりも少ないかもしれない。もしかしたら、砂を払った手のひらに残った数粒くらいかもしれない。

 脳内が混乱してきた。凜は脳内の思考を一掃するために熱いシャワーを浴びることにした。

 脳の負担になる全てを脱ぎ捨てて裸になる。汗と共に余計な思考を洗い流す。

 タオルで髪の水滴を拭き終わる頃には、夕食はすっかり消化されて小腹が空いていた。凜は椅子に座り、ビニール袋から缶コーヒーとフライドチキンを取り出した。OLにもらったフライドチキンは、雛鳥のごとくまだほのかに温かかった。

 フライドチキンを一口齧る。口内に染み渡る油。咀嚼するたびに解けていく繊維状の鶏肉。夜食のフライドチキンはこんなにも至高だったというのか。OLが我慢できなくなるのも納得だ。

 フライドチキンをぺろりと平らげて、凜は缶コーヒーのプルタブを開封した。聞き慣れた音が耳に心地いい。

 口内が苦味に塗り替えられる。口内に纏わりついていた油が、黒い液体によって喉を流れる。コーヒーは胃で落ち着き、油と喧嘩しながら消化を待つ。胃がもたれそうだ。

 空き缶を捨てようとして、ごみ箱がいっぱいであることに気付く。

 凜は黒い山の上に空き缶を載せた。ごみ箱からはみ出してしまうが、別に気にはならなかった。

 元より部屋は汚い。デスクの上は教科書や資料で雑然としている。カーペットを敷いた床も長らく掃除していないため、うっすらと埃が積もっている。今さら空き缶くらいで部屋の印象は変わらない。

 凜はノートパソコンを開いた。

 OLのストッキングが脳内で瞬く。再び疑問が浮上してくる。

 しかし、凜は首を振って疑問をかき消した。


「執筆に集中しろ。時間はないぞ」


 己を奮い立たせようとするが、なかなかうまくいかなかった。凜の心はストッキングに拘束されていた。

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