9.守護天使の血

「聞いて、沙織」

 その声は、フミに間違いない。でも、その冷たさは今まで聞いたことのない……。

 いや、違う。

 夏祭りの夜、危なそうな人たちを前に、彼女はこの声を発していた。

 ひどく冷静で、肝の据わった、でも静かな毒を内に秘めた言葉遣い。

「条約機構はね。この世界の背後で糸を引いてる、すべての黒幕なの」

 真面目で大人しい、私の親友が、静かに告げてくる。

「フミちゃん……? 何を言ってるの……?」

「条約機構は、大きな戦争を起こさせないために……大きな国が生まれるのを妨げ、技術の発展を阻んできたの」

 彼女が嘘を言うはずはない。だけど、私たちを保護し、属している組織のことを、悪であると、彼女は言っているようだ。

「条約機構はこの世界から消えるべきなの。だから……こっちにきて。沙織」

 炎にあぶられ、歪む空気の中で……彼女は、私に強く命じる。

「なんで? なんで、フミちゃん?」

「禁書庫の本に、そう書いてあったの。アルティールに訊いたら、その通りだよ、って」

「ウソよ! アイツの言葉なんて信じちゃダメ! フミちゃん、帰ってきて!」

「もう、帰れないの……」

 彼女は目を伏せ、首を横に振る。

 脇に立つ家屋が、炎の中で音を立てながら、大きく崩れた。

「……じゃったの」

「……え?」

 瓦礫の沈む音でよく聞こえなかったその言葉を、彼女は透明な雫を散らしながら、もう一度強く叫んだ。

「喚んじゃったの! たくさん! 隣の世界の人たち!」

 さっきの、仮面をかぶった斧を持つ男のことだ。

 アルティールは、フミの魔力を使って、異世界人を喚び出させたんだ。

「それに、私ね……こんな素敵な力も手に入れたの」

 細く白い手を、ゆらりと持ち上げて、宙にかざす。すると、いくつもの小さな書物たちが現れて、彼女の周囲を舞い始めた。そして、閉じた本の上下の縁から、光の刃が伸びていく。

「いけない、沙織! 魔力をうかつに使ったら……!」

「じゃあ、私と来て。でないと……」

「だめ!」

 強く、いなを叫ぶ。

 フミの言い分は、まるで赤ちゃんが突きつけてくる理不尽だ。

 私はそれを……フミの、無知と不安で満たされた小さな心を、抱きしめてあげなくちゃいけない。

 地を蹴り、剣を手にしたまま、彼女のもとへ駆け出す。

 その走る足下に……書物たちの光の刃が飛びかかり、突き立てられた。

 脚の表皮を切り裂く、鋭い痛み。ブーツが破け、手から剣がこぼれ落ち、私はその場に無様に転げた。

「フミ、ちゃ……っ」

 刃は肌をかすめて、ブーツを破壊しただけだ。地の上で泥とススだらけになってはいるが、まだ動けなくなったわけじゃない。

 だけど……それなのに、私は……その場でまぶたをぎゅっと閉じ、身をすくませてしまった。

 こんな外傷……小学生の時以来だろうか。

 私は小学生の頃、いじめを受けていた。

 それまでの友達が、みんな私を裏切った。そしてよってたかって、打ちひしがれている私を攻撃した。

 やがてそのいじめは、男子たちにも感染した。心を狙う女子とは違って、彼らは外傷を負わせてくることに、ためらいがなかった。

 その時の恐怖を思い起こし……身体が、硬直しきってしまっている。

 走り出せない。今すぐにでも、走って、そこにいる親友を抱きしめたいのに……それすらも、かなわない。

「今度は、脅しじゃないよ……?」

 何かが空を切る音がする。かろうじて目を見開くと、フミの左右にジグザグに並んで浮かぶ書物たちが、その身を順に開かせていた。中程のページで開かれた書物たちの上下に、さっきの倍の数の刃が生えていく。

「ミラ……様……」

 苦し紛れに、呼びかける。

 見守っていてくれるなら。

「ミラ様、助けて!」

「彩織……あのね……」

 フミの、容赦ない言葉が、耳に刺さる。

 ……ミラ様なんて、存在しないの。

 ひときわ強く、動悸。

 その瞬間に、書物たちが空を舞い、私にめがけ、飛びかかった。

 視界を強く閉ざす。あの痛みが、今度は身体の芯に突き刺さってくる……強く覚悟して、私は全ての感覚を閉ざさせた。

 光が絶え、音が消え、炎の熱さも、血の臭いも、口の中の鉄分も、肌に覚える土埃も、なにも、なにも、感じなくなる。

 心と身体を固くして……全てを、耐える。

 あの、いじめの時のように……。

 しかし……。

 しかし。

 いくら待っても、痛みは、来ない。

 ゆるやかに。ほんのわずかずつ、心を許す。

 口の中は、粘りの強い唾液で固まっている。目には、かすかな涙の粒。

 そこに、ふわっとした花の香り。かすかに傷口の匂いも混じる。

 そして、柔らかな、だけど強く芯のある肌触り。

 炎の熱が遮られている。代わりに覚える、あの温もり。

 私は驚いて目を見開いた。

 視界は覆われ、かげっていた。その中で、私を優しく包んでいたのは、柔らかな白い腕と、羽根。

 その腕と羽根をもって、私を抱きしめているのは……。

「……ミラ様?」

 護天星騎士の……ミラヴェル様。

 私の守護天使様が、私を強くかきいだき……その身を盾にして、守ってくれている。その様が、はっきりと目に映った。

 痛みに耐えて、歯を食いしばり……それでもミラ様は、私の耳にそっとささやきかけてくる。

「大丈夫……私が、守るから……!」

 その背中から広がっている、ずっと思い描きながらも設定ノートに描くことのできなかった、豊かな白い天使の翼。それが……突き立つ光の剣たちを、食い止めている。熱にあぶられるその傷口から、赤い血が流れ出て……羽根の先へと伝い、地にしたたっていく。

「うそ……」

 声が重なる。

 私と同時に、フミが、同じ言葉を発していた。

「そんな……」

「ミラ……様?」

 書物から生えた光の剣たちが、ゆるやかに翼から引き抜かれる。

 それと共に、ミラ様の白い羽根が抜けて舞い、鮮やかな血がしぶきを上げた。

 そしてミラ様は……最後に、私に微笑みを向けて……宙で淡く光りながら、消えていった。

 フミが、その場に膝をついた。そして私と一緒になって、ミラ様の消えた後を呆然と見つめていた。

「驚いたね……」

 少年の声が、そんな二人の間に割って入った。

 アイツだ……アルティールだ!

 時が再び動き始めたのだろうか。両脇の家屋が、激しく崩れだす。少年はその間を悠然と歩き、フミのもとへと寄っていく。

「ひとまず……帰るよ、フミ」

 フードを目深にかぶった少年。その顔の内が、燃える炎に照らされて、一瞬の間だけ、のぞき見えた。冷たく光る金の瞳。口には、凍るような薄笑いを浮かべていた。

「いや……」

 小さく口を開いて、フミは拒む言葉を放った。

「いや。さぉ……!」

 私の名を呼ぼうとした、彼女の声が……唐突に途絶える。

 アルティールはまた、あの魔法をかけたのだ。眠りの魔法。それがフミの付けていた白いチョーカーから入り込んで、彼女を深い眠りに落としてしまう。

「まって……フミちゃん!」

 呼びかけるも、私の声は届かない。

「フミちゃん……!」

 また、私のそばから親しい者が、離れて行ってしまう。私を裏切らない者が、本当に私だけになってしまう。

 アルティールは、私にも眠りの魔法を掛けたのだろうか。それとも情けない私が、激しさを増した熱気の中で、気を失ってしまったのか。

 意識が混濁し、身体が崩れて、上体がどさりと地に落ちる。

 身体と心をあぶる炎が、容赦なく私をなめ尽くす。

 このまま……炭になって、みんな消えてしまうのかな……。

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