8.振り払われた手

 残る問題は、キョウヤを連れ出す事だ。

 たったひと言を、キョウヤに口にさせればいい。そんなこと、簡単だと私は思っていた。

 しかし……問題があることに気が付いた。キョウヤと接見するには、条約機構の職員の許可が必要だ。職員が牢の前まで一緒についてきて、会話を監視するかもしれない。

 支部の中を歩きながら、そのことをずっと悩み続けた。本当は走りながら考えたかったが、いくら大きなこの支部も走り回れるほどの広さはないし、やっぱりそれは失礼な行為だし、手続きをしに真っ直ぐ走ったら考える時間があまりにも短くなる。

 結局、歩いたまま考えてみても、事務室に着く瞬間まで何も名案は生まれず……私は、ただミラ様に祈る事にした。

(……うまく行きますよう、どうか力添えを……)

 念じつつ、窓口で小さなベルを鳴らし、職員が現れるのを待つと……祈りが通じたのかもしれない、応対に出たのはアリデッドだった。

「アリデッドさん!」

 驚きながら、彼の無事な様子に安心した事を告げると、彼はいくぶん元気のない笑みを返してくれた。

「いろいろ言われはしたけどね……ここも、じきに前線になるぞと報告したら、どうにか事務仕事ぐらいはさせてくれる事になったよ」

 そうは言うが、実際にはすさまじいやりとりがあったのだろう。

 そんな彼に、無理を聞いてもらうのは気が引けたが……私にも、引けない事情がある。

「すごくデリケートな話なんで……キョウヤと二人きりで、話をさせてほしいの」

 コネを使い、嘘をつき、我ながら卑怯な言い回しをしたと自分を恥じる。だけど彼は、軽く顎に手を当てた後、

「わかった。そんなに時間はとれないだろうけど、手続きをしよう」

 それだけを告げて、書類を用意してくれた。

 感謝しかなかった。この巡り合わせを与えてくれたミラ様と、これからその好意を踏みにじり、別れを告げる事になるアリデッドに。


 牢への格子扉が甲高い音を立てて開かれる。

「面会時間は十分間。外で待ってるから、終わったら外のドアをノックして」

 そう告げて、アリデッドは小部屋の外へ出る。

 牢の前へ駆け寄ると、キョウヤはあの時と同じように起き出して、鉄格子に手をかけて私と向かい合う。

 あいさつを口にしようとする彼に向けて、私は真っ先に声を掛けた。

「現実世界へ、戻ろ」

 驚きに口を大きく開いた彼に、私はたたみかけるように言葉を継いでいく。

「『星渡り』の準備は、すべて整ってる。シセインも協力してくれる、って。だから、お願い。私と一緒に来て」

「俺は今、ここを出るわけには……」

「それも、大丈夫。出してくれる人がいるの」

 そこで、彼が鉄格子をつかんでいる手に、そっと私の手を重ねる。

「ただ一言、口にして。『自分も一緒にもとの世界へ帰る』って」

「自分も……」

 オウム返しに告げようとして。

 キョウヤの口が、そこで止まる。

「俺も……」

 もう一度、何かを言いかける。しかし、彼の口は、その言葉を紡いではくれない。

「……すまない」

 言って、キョウヤは私の左手を振り払った。空いたその手で胸元を強く押さえ、深くうなだれ、沈黙する。その姿に、私は衝撃を覚えずにはいられなかった。

「どうして……!」

 当然、キョウヤは私の誘いを受け入れるモノだと思っていた。あの月明かりの丘で、私たちはたしかに約束し合ったはずだ。

 それなのに……。

「……だめ、なんだ」

「……知らない!」

 苦しそうな声を上げていた彼の左手を、まだつながっていた右手で強く押しやり。その反動を使って私は駆け出し、格子扉の外のドアを手のひらで強く押し叩く。

 外へ向けて開かれたドアの先で、アリデッドが驚いた顔を見せていた。用は済んだ事を短く告げ、私はそのまま走り出す。

 そのまま階段を上って、一階をぐるりと一周、さらに階段を上って二階を駆けまわり、私たちの部屋に飛び込んだ。

 シセインが、ひどく驚き、そして怯えた顔をしていた。

 言葉少なに、キョウヤは置いていくことだけを告げ……私はベッドに潜り込む。

 頭に上りきっていた血が引いていくと同時に、目から涙がこぼれだす。

 悲しくて流す涙だなんて、あの時以来、まともに流した事などなかったのに……。

 そのまま泣いて、そして疲れ切ってしまったのだろう。私の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。

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