3.7 風が吹く

 日本語文法ではアスペクトの中核は「~ている」というような「テ形」と呼ばれる形態を指している。今まで述べてきたような「時制を担う」あるいは「時制に代わる」ものとしてのアスペクトという考え方はほとんどないようだ。多くの人は、日本語に「過去時制」と「現在時制」の存在を認めている。

 それはともかく、時制話はいったん終えて、アスペクト本来の機能にも触れておこう。ぼくとしてはあまり興味がない(日本語教育では重要なテーマだが)ので、日本語の表現の豊かさを示す一つの事例として扱おうと思う。

 例えば「風が吹く」という事態。今、あなたは坂を登って見晴らしの良い丘の上に出たところだと想像して欲しい。そして一陣の風を感じた。そのときの表現である。

 まず「名詞」一語文。「風」。さらに「風!」「風?」「風・・・」など。

 そして「名詞+α」。「風だ」「風ね」「風よ」「風さ」「風か」。さらに「風だね」「風だよ」「風だよね」「風だわ」「風かな」「風なの」。さらにさらに「風じゃ」「風です」「風である」「風なのだ」「風かしら」「風だろう」「風らしい」「風のよう」「風ってわけ」「風みたい」・・・。そしてさらに「風だった」と完了形にして「風だったね」「風だったよ」・・・(できないケースもある)。

 さらに言葉を加えればまだまだ作れるが、このへんでやめる。さて、これらひとつ一つの意味やニュアンスの違いを説明できるだろうか? (なんとなく分かるし、実際に使い分けているものでも、客観的に説明するは難しい。これが外国人に日本語を教えるとき苦労することのひとつだ)

 ここまでは「風」という名詞についての話。ここに「吹く」という動詞とそのアスペクトが加わる。

 まずは単純な形から・・・。「風が吹く」「風が吹いた」(「が」を「は」に変えるとどうなるか・・・以下同様))。これに先の「よ」とか「ね」とかの+α群を加えるとかなりのバリエーションができる。

 そしてアスペクトの中核である「テ」形だ。「風が吹いている」「風が吹いてくる」「風が吹いていく」「風が吹いてしまう」・・・、そして「風が吹いていた」などの完了形や+α形(これらの組み合わせは膨大になる)。

 テ形には他に「~てある」「~ておく」「~てみる」「~てみせる」「~てやる/あげる」「~てもらう」「~てくれる」などもある。

 動詞テ形+補助動詞で動詞(動作)の様態を表す(例えば「吹く」と「吹いた」の間の継続状態が「吹いている」)のがアスペクトならば、動詞連用形+補助動詞も同様にアスペクトといえるだろう。「吹き始める」「吹いている」「吹き終わる」という一連の流れを「吹く」のアスペクト表現と考えたい。しかしそれでも「~ている」は特殊な性格を持っている。「吹き始め+ている」というように、補助動詞にさらにテ形でつなげることができるのだ。

 テ形は独特なニュアンスも持っている。

 例えば「~ている」と「~てある」の違い。「ドアが開いている」「ドアが開けてある」、「ドアを開けている」「ドアを開けてある」。

 また「~終える/終わる」と「~てしまう」はどちらも終了を意味する面がある。例えば「早く食べ終えなさい」「早く食べてしまいなさい」など。しかし、まったく違う面も持っている。例えば「始めてしまう」「死んでしまう」「無くしてしまう」「つい、走ってしまう」など・・・。

 こんな例はどうだ。

  角に建つ家

  角に建っている家

  角に建っていた家

  角に建ちつつある家

  角に建ってしまった家

  角に建った家

  角に建てる家

  角に建てている家

  角に建てていた家

  角に建てつつある家

  角に建ててしまった家

  角に建てた家。

 それぞれに現在の状況や経過、さらに話者の気分やドラマの予感さえ感じさせるものがありはしないだろうか。

 アスペクト表現の機微を追求すると、日本語の対象把握のさまざまな構え(思想)が見えてきて、日本語の思想の肉付けに役立つだろうが、いまはやらない。とりあえず肉よりも骨を切りたいからだ。

 再び、まとめ・・・

 ここまで動詞の様態について書いてきた。

 従来の学校文法との対決を意識して、時の表現にこだわりすぎた嫌いがある。そこで最後に動詞の様態をシンプルにまとめる。

 まず「~する」「~した」の対立がある。

 それを動詞の現在形・過去形とする学校文法の時制論に対して、日本語教育では「~する」を辞書形、「~した」を実現または過去形とし、アスペクト表現の「して~」を「テ」形と呼ぶことが多いようだ。ぼくもほぼそれに従って、動詞の原形、実現形、アスペクトと呼んできた。

 しかし、ここで再整理する。

 「~する」「~した」の対立ではなく、動詞の対立は以下の2種としたい。

 理念態(「~する」→動詞の原義、理念的意味)と現実態(「~した」「して~」→現実における様態)の対立。いわば虚か実か、ウソかマコトかの対立である。可能世界と実現世界の2元論。ここに日本語の現実把握(思想)の特徴が現れていると思う。

 で、現実態にはさまざな様態(事柄の状態―局面)がある。その様態を表現するのがアスペクトだから、「~して」だけでなく「~した」もアスペクトと考える。つまり「テ」形と「タ」形というわけだ。

 「食べる」という理念態があり、それが現実化したときの様態として「食べた」(実現・完了)や「食べている」(進行)などの豊富な表現が生まれるのである。これを「ル」形、「タ」形、「テ」形と呼び、広い意味でのアスペクト表現と考えたい、というのがここでの主張である。

 ついでに言えば、「テ(接続助詞)」形は、「タ」の連用形(接続態)のようなものと考えたい。理念態が現実態となったとき「タ」形(終止形)をとり、その現実の様相を補助動詞(いる、みる・・・)を加えて分節化するとき、「タ」が「テ」(接続形)に変化して、「~ている」「~てみる」となる。

 こうするとかなりスッキリするように思うのだが、どうだろう。

 さらについでに言えば、普通はアスペクトを「相」とか「様相」と表記するが、ここで「様態」と(ちょっと変えて)書いてきたのは「ル」形(理念態)「タ」形(実現態・終止形)「テ」形(実現態・接続形)を含めたいからである。ただ、区別したかっただけで、あまり深い意味はない。


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