第11話 十七歳よ永遠に

 生まれてから二十年以上暮らしていた部屋で、恵はゲーム作りのことを頭から排除するように努力していた。少し距離をとって頭を冷やすと決めてから二日目だというのに、油断をすると今回のゲーム作りのことを考えてしまっている自分に気づく。

 時間の進みが遅い。ゲームを作るという発想がなかった頃は、どのように過ごしていたのだろうか。あの人と出会ってからは強引に引きずり回されて、気が付いたらそれが楽しくなっていて、自分の生活の中心が完全にそっちにうつっていて。

「なんだかなぁ」

 十年も続いたそんな生活を思い出してみても、どれもこれもがいい思い出として自分の中にのこっている。思い出は美化されるなどと考えているうちに、あの人たちの自分への背信行為がフラッシュバックして胸を刺す。暗くてよく見えなかったけど、あれは絶対に唇を合わせていた。表情まではわからなかったけど、絶対に優しく笑いながらあの人は別の人の頭を撫でていた。湧き上がってくる黒い感情を自覚して、急いでパソコンの電源を入れる。


 ドアをノックする音が聞こえて我に返る。パソコンをつけたのはいいが、画面を漫然と眺めながら、頭の中はゲーム作りのこととあの人のことをグルグルと行ったり来たりしていた。

「・・・宏美お姉ちゃん?」

 満面の笑みを顔に張り付けながら、まるでいつもそうしているかのように扉を開けて入ってきたその人と目が合った。

「・・・えっと、急にどうしたの?お正月まではまだ少しあると思うけど」

 恵はその言葉を発してから、ブーメランになっていることに内心まずったと思う。

「あ~、相変わらず迷惑そうな反応するのねぇ。恵が帰ってるって聞いてせっかく駆けつけてきてあげたのにさぁ」

 あの人とのことで特になにも詮索する雰囲気がなかったことにほっと胸をなでおろす。

「まぁ、旦那が海外出張の出ちゃってさぁ、それじゃ羽でものばそうかなって思って帰ってきただけなんだけどね~」

 子供のいない姉は夫の海外出張のたびに浜松から帰って来ている。正月前のこんな時期に海外出張を入れなくてもと思う。

「へぇ~、そうなんだ。そんなに寂しければ海外についていけばいいのに。そしてせっかくだから旅先で存分に羽でも伸ばせばいいのに」

「・・・あからさまにここにいてほしくなさそうな反応?」

「そんなことないから。絶対に違うから。素直にそのほうがいいと思って言っただけだから」

 あの人との仲直りお泊りでも姉さんが帰って来ていて面倒なことになったことを思い出す。今の反応はその時と同じく失策だったと、自分自身にいらだちを覚える。

「まぁいいや。それで、あんたは安芸君と喧嘩したから帰ってきたんでしょ」

「ゲーム作りのことで、ちょっと・・・」

「へぇぇぇ。それで、どんなこと?」

「えっと、それは企業機密だよお姉ちゃん」

「商品の機密に関することじゃないでしょ。だってあんたは仕事のことなら仕事で解決するタイプだもん」

「・・・お姉ちゃんにわたしの何がわかるのかな」

「で、安芸君に愛想を尽かして出てきちゃったんだ」

「そんなんじゃない」

「じゃあ、安芸君のほうが愛想を尽かした?」

「・・・」

 自分以上に腹黒で、どうやっても叶わない相手に二択で尋問されて言葉を失う。

「ふぅぅぅん。もしかして、英梨々って子?高校生のころに何回か安芸君の家にお泊りするときに使ってた丘の上の豪邸の。家の位置からしても幼馴染だったんじゃない?何年かぶりの再会とかで、淡い恋心を思い出しちゃったってやつ?」

「・・・」

 自分の見立てを正確に言い当てるあたり、やはり彼女は太刀打ちできない存在で。

「へぇぇ~、強敵あらわる!って感じだね。で、どうするの?このままあきらめるの?」

「・・・そんなわけない」

「そう。まぁ昔みたいに口をきかないまま何か月も・・・ってわけでもなさそうだもんね。今回はそばに居て取り繕おうとしてきたけど、もう限界がきちゃったってところかな」

「もぅ、それお姉ちゃんに言わなきゃいけないかな?」

「だって面白いんだもん。・・・本来ならもっと楽しませてもらいたいところだけど、そろそろおいとまするわ~。そんなに暇じゃないしね~」

 姉は手を振りながら部屋から姿を消す。扉を開け放して行ってしまったことに文句を言うと藪蛇になるので自重して扉を眺めていると、姉ではないシルエットが姿を現す。

「あ、この人、帰って来た時にうちの前に深刻な顔して突っ立ってたから、とりあえず上がってもらったのよね~。じゃ楽しんで~」

 姉は出入り口の端から顔を半分だけ出して一言だけ言い残すと、目をほころばせて姿を消す。そして、入り口に佇んでいる人物と対峙する。

「・・・霞ヶ丘先輩、とりあえず入って来てもらえますか?」

「・・・失礼するわね」


「・・・」

「・・・」


 ちゃぶ台を挟んで無言のまま向かい合って座ること一分程度。たかが一分なのにもっとずっと長い時間のように感じ・・・。

「・・・その、何から話せばいいのかしらね」

 沈黙を嫌ってか、年長者の責務を感じてか、口火を切ったのは霞ヶ丘先輩のほうだった。一言発せられたあとに訪れた数十秒の沈黙を受け身の姿勢で待つ。

「・・・その、私たちが世間話をしたところでアレなことになるのは目に見えているから、いきなり本題に入らせてもらいたいのだけど・・・。その、今の加藤さんは今回の作品制作の中で、どんな役割を果たしているかしら。かつてのように裏で組織を操れていないうえに、未来のビジョンすら共有できなくなって、メインヒロインの座さえあやうくなっている状態にあると思うのだけど」

「あのー、それを言う資格があなたにはあるんですかね、霞ヶ丘先輩」

「それはどういう意味かしら加藤さん」

 主導権を霞ヶ丘先輩に握らせてしまったこと、売り言葉に買い言葉で反応してしまったことを後悔する。

「えっと、つまり・・・」

「いいわ。さしずめ加藤さんが言いたいのは、書けなくて役立たずだった期間が長かったこと、加藤さんを出し抜く形で倫理君を温泉宿におびきよせて組織の不和を作ったこと、外部委託の分際で未来のビジョンを語る立場にないこと。かしらね」

 違う。霞ヶ丘先輩がシナリオライターとしての役割を果たしていないとは言えない。倫也君のことを好きでいてくれるのも問題ない。むしろ誇らしく思う。これは霞ヶ丘先輩を脅威に思っていないからかもしれない。そして外部の人間かプロパーかなんて関係ない。仕事にかかわる以上は対等な関係でいたい。

 ただ、許せないのは、あの人をたぶらかすのに仕事を人質にしたということで。

「でもね、加藤さん。勘違いしないでほしいの。私はいつだって、目の前にある作品作りに本気よ。委託だろうがプロパーだろうが関係なく。だから温泉の件はあなたを出し抜いたのではなく作品を書くための決着を付けに行ったのよ。最高の作品を出し続けたいから」

 霞ヶ丘先輩の目には信念がこもっていて。だからこそ、この人と一緒にゲームを作りたいと思えてたわけで。

「ねぇ加藤さん。あなたはどうしたいの?あなたは何を理想としてゲームを作るの?」

 霞ヶ丘先輩の問いかけに答える言葉は出てこない。

「私が書けなくなったのは、今回のゲーム制作をはじめたからよ。それまでは、倫理君が私を追いかけてきてくれたから、そして私が倫理君を別の意味で追いかけていたから、自分の心と、彼の心を動かすような作品たちを生み出せていたのよ。でも、状況が変わってしまった。彼と近づいてしまったがために、彼の心を動かす手段が作品だけではなくなった。自分の中で作家の部分ではなくて女の部分が動いてしまったのね。それでも彼は私を作家としか見なかった。霞ヶ丘詩羽を一人の女性として見ることはなかった。それで書けなくなった」

 霞ヶ丘先輩の迫真の独白に言葉を挟むこともできず、ただ目を見て聞くことしかできない。

「でも気が付いたのよ。女でありたいがために書くことをやめたら、それこそ倫理君を振り向かせることはできないということに。だから、差し当たっては作家であることに専念すべく行動をとった。十年前の英梨々のように。・・・ちょっと違うわね。倫理君の様子を見ていると、別の選択肢が期待薄だと分かったが故の打算もあってなのかもしれないわ。そこは英梨々とは違って」

 十年前にあの人とあの女の間に何があったのかは知らない。あの人と私が付き合うことになって、あの女はプロとして巨大プロジェクトにかかわるようになって。そこで二人の間にも何かイベントがあったのだとしたら、それは二人にとってはとても重い決断だったに違いない。

「加藤さん、あなたはまだ何も選んでいないわ。言い換えればあなたにはいろいろな可能性があるということ。これからの倫理君の物語でメインヒロインになる選択肢も、ゲーム作りの仕事に生きる選択肢も、今は目の前にはない別の何かに生きる選択肢も」

 自分の話になってふっと気が付く。霞ヶ丘先輩も選んだのだ。新しい環境での新しい生き方を。あの女だって真剣に選ぼうとしている。出海ちゃんは?氷堂さんは?

 自分はと言えば十年前にほんの小さな決断をして、あとはあの人の夢の実現を必死に考えてサポートしてきた。二人三脚と言えば聞こえはいいが、何をやってどこに向かうのかはすべてあの人任せだった。自分は何をしたいのか。そもそもあの人は?

「それじゃ、失礼するわね」

「ちょっと待ってください、霞ヶ丘先輩。自分だけ言いたいこと言って帰ろうとするなんて卑怯じゃないですか」

 部屋を出ようとする霞ヶ丘先輩を呼び止める。

「私に言う答えがあるのなら、その通り行動しなさい。私から答えやヒントとなる情報を引き出そうとしているなら、それはお断りよ。進む道くらい自分で考えなさい。お礼を言おうとしているのなら、それは見当違いね。私はあなたのためではなく、倫理君のためにやっているのだから。さっきもほのめかしはしたけど、まだ恋敵を降りるつもりはないわよ」

「あ~、最後のはわざわざ言わなくてもよかったんじゃないですか?」

 霞ヶ丘先輩は呼びかけに振り返ることも、言葉を返すこともなく部屋を出ていく。

「それと、ひとつだけ。シナリオライターが登場人物の行動を考えるときには、まずその人物がどのような時間を過ごしてきて、どのような事情があって、それらを自分がどのように認識しているかを整理するのよ。そして、その結果として起こる事象に対してその人物が何を考え、どのような感情を持ち、どのように行動するかを考えるわ。まぁ物書きどころかクリエーターですらないあなたに言っても仕方のないことだけど」

 扉の向こう側から霞ヶ丘先輩の声が響く。そのあとに姉が霞ヶ丘先輩に絡む声がしたけれども、助けに行く気にはなれなくて。


 自分という人物について考える。自分がどのような時間を過ごしてきたか、どのような事情があるのか、それらを自分がどのように認識しているのかはなんとなくわかっている。わかりたくないことも含めて。

 そして行き当たる先は一つだけだ。自分には何もない。みんなが能動的に動いてくれて、自分はそれをサポートできたらいいな。としか思えない。それが自分にとっても楽しい。でもそれは、自分で考えることを放棄して、楽な方向に流れることなのかなぁ。とも思う。

 十年前のあの日、あの人は自分に何もないことを突き付けられた。それよりも十年ほど前に楽しい時間を共に過ごした幼馴染、憧れの先輩とは同じ世界に居られないのだと理解させられた。

 それからというもの、何もないどうしで手を取り合って、もう一度彼女たちに追いつくために頑張ってきたつもりだった。でも、実際に頑張ったのは彼だけで、自分はサポートに徹するだけだったように思う。彼だけが何者かになってしまって、サポートだけだった自分には結局のところ何にもなりえてはいなくて。何もないどうしのパートナーという関係ではなくなった。その十年が今回のごたごたにつながっているのかなとも思う。この状況の中で、自分が進むべき道を選ぶとしたら・・・。

 恵は開いていたパソコンに視点を移し、仕事用のメーラーを立ち上げる。プロデューサーからの事務的なメールが数通入っている中に紛れて、一通の「恵へ」という題名が付されたメールを見つける。


『これを読んでるってことは、会社のことをまだ考えてるってことね。とりあえずよかった。

 これを見たなら結論は一つだけよ。恵は blessing software で倫也と一緒にゲーム作りを続けなさい。倫也には恵は絶対に必要だから。あたしだけじゃ絶対に無理だから。


 それで、恵には本当に悪いことをしたと思ってる。恵に黙ってコソコソと隠れて倫也とああいうことになって。これからは正々堂々いくわね。


 倫也が恵を選ぶって言うなら、私はしばらく外の人間として blessing software に下ろす絵を描き続けることにするわ。倫也があたしを選ぶって言うなら、恵はどうにか乗り越えてあたしも恵もみんながいる blessing software でゲームを作り続けなさい。


 あたしからはそれだけ。


 あとは親友を信じて 澤村・スペンサー・英梨々』

 

 先月の合宿のときの英梨々のアレさ・・・眩しいほどの純粋さや真っすぐさに複雑な感情を抱かざるを得なかったのだけど、やっぱり純粋に真っすぐで眩しくて。彼の気持ちが自分から離れていくかもしれないという恐怖のなかで、やっぱり英梨々には好意しかいだけなくて。

「なんだかなぁ」

 心の底から、その言葉を発してしまう。

 自分には直接活かせる技能がないから、他のメンバーの才能を認めて、進みたい方向を受け入れて、それを活かせるようにサポートすることしか能がない。今までだってそうやって生きてきた。これからだって、あの人の才能や目標に限った話じゃなくて、blessing software にかかわるすべての人たちが気持ちよく才能を発揮して、自分の興味にそった形で仕事をしてほしい。そうやってみんなの個性が詰まったゲームを作りたい。

 そして、その中心にはやっぱりあの人がいてほしい。でも、彼を頑張らせるのではダメなのはわかっている。それをしてしまうと、英梨々にルートを譲ることになってしまうから。

 自分の強欲さにため息をつく。英梨々や、霞ヶ丘先輩や、出海ちゃんや、氷堂さんや、波島君・・・はどうでもいいけど、倫也君に恋するヒロインたちを惹きつけておきながら、それでも自分はルートは譲らずに、倫也くんを中心に据えて仕事をうまく回して、結果として神ゲーを作りたいと考えているのだから。それのすべてが手に入らなければ嫌だと思ってしまうのだから。高校生のサークルだったあの時と同じように。


* * *


 池袋のマンションの一室。扉の前で鍵を片手に大きく息を吐く。自分の家の前で気持ちを落ち着かせなければならないというのは、なんとも問題ありな雰囲気で。問題があっても三日で帰って来てしまう自分はなんともちょろい妻で。

 鍵を静かに回して「ただいま」と小さな声で呟いて室内へと入る。倫也君が出迎える様子がないことに少しの落胆を覚える。

 寝室の扉を開ける。床に物が散乱していて、戦場に設けられた安全地帯のように開けたベッドの上で倫也くんが寝息を立てているのを発見する。心が他のヒロインにうつっていくかもしれないのに、彼をいとおしいと感じてしまうのはやはりチョロインだからだろうか。

 ひとまず片づけをしないとと思い、段取りをつけるために部屋を見渡すと、机の上に倫也くんのパソコンとゲームソフトのパッケージが二本、乗せられていることに気が付く。それは見間違えることもない、わたしたちが高校生のときに作った同人ゲーム二本で。自分をメインヒロインにしたアドベンチャーゲーム『cherry blessing』と『冴えない彼女の育て方』だった。思わず手に取って眺めてしまう。みんなの才能がぶつかりあって、認め合って、混ざり合って作られた、幸せな作品たちだ。商業デビューしてからも基本的な方針は変わらなかったけれど、この時ほど純粋に作品作りを楽しめたときはなかったように思える。きっかりとした締め切りに追われていたというのもあったけど、なによりも倫也君からは焦りのようなものも感じられて。

「恵?」

 背中から自分の名前を呼ぶ声がして我に返る。振り返ると隈のできた顔で、でも引き締まった表情でこちらを見ている倫也くんがベッドに座っていた。

「なんか、疲れてそうだね。書いてたの?」

「あぁ。ちょっとな」

「そんなに疲れてて作品がかけるのかなぁ?」

「それがライターの性ってもんなんだから。一度ゾーンに入ると寝食を忘れて書き続けちゃうの」

「それにしてはちゃんとベッドで寝てたみたいだけど・・・」

「それは・・・」

「で、書けたの?」

「それも・・・」

 倫也くんは立ち上がり、鏡台がわりに使っているミニテーブルの前に腰かける。

「恵、ちょっとここに座ってもらえるか?」

「あ~こんなに散らかってたら座る場所なんてないんだけどな~」

「ブルドーザーみたいに、こう、かきわけてさ」

 英梨々とのことだろうか。それとも倫也くんのやりたいことの宣言だろうか。いずれにしても、これから言われる内容への不安と、高校生のときのようにみんなの才能が作用しあってゲーム作りをしていきたい、そのためのファシリテータになりたいという自分の将来に対する宣言よりも先手を取られてしまったという焦りが脇を汗で濡らす。この人に主導権を握られると明後日の方向の解決にしかならないから。方針は納得できるものだったとしても。

「あのさ、恵」

 はじまった。うなずきながら唾をごくりと飲む。

「俺さ、やっぱり恵にそばに居てほしい。一緒に夢を追いかけてほしい」

「ふ~ん、それで、どんな夢?」

「夢はいつも変わらない。恵と、英梨々と、詩羽先輩と、出海ちゃんと、美智留と、伊織がいる、完全無欠の blessing softwareで、本音でぶつかり合ってゲームを作っていきたい。神ゲーになるかどうかは結果論だけど、そうやって目指していけたらいいと思う」

 同じだ。この人とは、喧嘩をして離れたとしても、同じ目標を共有できてしまう。

「うん。わかった。それで今回のゲームはどうするのかなぁ。もうα版のアップまで時間はないし、みんな遠慮しあいながら作ってきちゃってるように思えるけど」

「よくぞ気が付いた、そう、時間がないのと、皆が本音をぶつけ合う土壌ができていない。そういうこともあろうかと思って、日程は調整してもらってるところだ」

「自分の手柄みたいに言うけど、プロデューサー発案なのは知ってるから言わなくてもわかるから」

「ちょっとは立ててよ、副社長・・・」

 倫也くんの調子も出てきた。霞ヶ丘先輩も吹っ切れた。わたしと霞ヶ丘先輩の関係もわだかまりがなくなった(お互いにちょっと苦手意識があるのはもともとのこと)、出海ちゃんや氷堂さん、波島君は通常運転。あとはわたしと英梨々との間のわだかまりをなんとなしないと・・・。

「とにかくだ恵、善は急げだ。早急に解決しなければならない問題がある。それは、澤村・スペンサー・英梨々をやる気にさせることだ」

 英梨々の名前を聞いて胸が波打つ。倫也くんがこれから選ぶであろう選択肢は、英梨々ルートに入る決定打となるもので・・・。

「・・・英梨々なら、大丈夫だと思うよ?きっと何もしなくても描いてくれるよ」

 とっさに嘘を言う。私たちの目標は達成できない結果を招くような嘘に、罪悪感を覚える。

「それじゃダメなんだよ、恵。英梨々は確かに何もしなくても描いてくれると思うよ。だけど俺が目指してるのは、ただ描いてくれるんじゃなくて、本音でぶつかり合うような関係なんだよ。英梨々は引きずるから。絶対に、恵や俺に気を遣ってしまうから。だからさ・・・」

「それって、誰のせいなんだっけなぁ~~~~~」

 わたしと英梨々の間のわだかまりは倫也くんに端を発するもので。

「・・・それは、俺が悪いとは思ってるけど・・・」

「けど?」

 だから、それを解決するには、倫也くんが動かなければいけないわけで。

「英梨々は絶対に引きずるから、短期決戦を仕掛たい。その、だから、えっと、・・・英梨々とデートしてくる・・・けどいいかな」

 予想はしていたものの、解決法はあさっての方向で。デート以外にも、作品を議論したり、情熱的にゲーム制作の方針を説いたり、いろいろやり方があるんじゃないかなぁと思う。妻が家を出て戻ってきたばかりだとういうのにそれはそっちのけで、仕事の都合で他の女とデートするなんて。でも、それは倫也くんらしいやり方でもあって。隠れてこそこそとどっちつかずの関係を続けるよりも、一度決着がついた方が完全無欠のblessing softwareのゲーム制作にはプラスであることもわかっていて。だから明確に嫌だともいえなくて。

「はいはい、ギャルゲ脳乙。とか言っておけばいいんだっけ?」

 できるだけフラットに、皮肉を込めて、否定しない意志だけ伝える。

「煽る場合はな。それと。恵、戻ってきてくれてありがとうな。恵は戻ってくれるって信じてた。俺とこれからも夢を見続けるパートナーであってほしいと願ってた。これからもよろしくな」

「ふ~ん。よくわかったけど、倫也くんの中ではわたしは何ができると思ってるのかなぁ?文章も書けないし、絵も描けないし、音楽も書けないし、ごり押しの調整だってできないよ?」

 本当はそれだけ信頼されていることが嬉しくて、でも悟られないように少しだけ意地悪をしてみたくなって。

「腹黒くみんなを・・・じゃなくて。具体的にそれが書けなくて、メールの文面の前でうなりながら、昔の恵をヒロインのモデルにしたゲームをやってみたりしたんだけどさ、でも言葉にはできなくて。だけど、なんかよくわかんないけど、恵は必要なんだよ。俺にとって、そしてblessing softwareにとって」

 だいたいのところは分かってくれてる。だからいつもこの人は安心感があって。

「だから、まずは英梨々の攻略だけど、協力、頼むな」

 やっぱりそこだけは複雑な思いが心を支配していて。そこだけがこの人は何もわかっていないんじゃないかと感じる部分でもあって。でもこの人はそんなに器用な真似はできないから。もっと器用だったら好きになんてなっていないはずで。

「それって妻へのお願いとしては、ほんと、なんだかなぁ、だよね」

 妻はあくまで自分であることに釘を刺し、かといって夢に向かう彼を否定せず、やりきれない思いをなんだかなぁで伝える。結局のところ、自分にはそれしかできないのだ。

「ごはん、作るね」

 そそくさと立ち上がり、寝室の扉にむかって速足で歩く。これ以上やりとりをしたらフラットでいられる自信がなかったから。

「恵、・・・その、手伝うよ」

 後ろからついてきた倫也くんが声をかける。人の気も知らないで。

「いいから。いつもだってご飯作ってる間、倫也くん仕事してるでしょ?それか疲れてるなら休んでて」

「でも今日は・・・恵は帰ってきたばっかりだし・・・」

「それも別にいい。わたしの都合だし。ほら、寝室に戻って」

「・・・その、えっと、・・・怒ってるんじゃないかなって。・・・英梨々と、デ、デートって」

「それは堂々と妻に対して別の女の子とデートしてくるって宣言されれば少しは思うところはあるよ。でも会社のため、ゲーム作りのためなんでしょ?」

「あぁ、うん」

「・・・それじゃあ。お風呂洗ってきて。どうせわたしが居ない間、一度も洗ってないでしょ?」

「イエッサーです恵様!心して洗ってまいります!」

 英梨々を誘う目的を確かめたときの言いよどみに、お風呂掃除を頼んで威勢よく働く罪滅ぼしついでのわたしの前からの逃避行に、倫也くんの心の奥を察してしまう。

『倫也が恵を選ぶって言うなら、私はしばらく外の人間として blessing software に下ろす絵を描き続けることにするわ』

 それじゃあダメなんだよ。倫也くんは納得しないし、わたしも幸せになれない。だから、もう一方の選択肢を取るしかわたしには残っていなくて。

『倫也があたしを選ぶって言うなら、恵はどうにか乗り越えてあたしも恵もみんながいる blessing software でゲームを作り続けなさい』

 倫也くんにしろ英梨々にしろ、それはわたしにとってどれだけ辛い選択だかわかって言ってるのかな。

 刻まれる玉ねぎを押さえる左手に光る指輪が目に入る。指輪に込めた自分の思いを戒める。一緒に夢を実現しよう。そのために彼を全力でサポートしよう。十年間でひと時も忘れなかった思い。彼がわたしに忘れさせなかった思い。目じりにたまる涙に気が付き、目の周りをエプロンでぬぐう。玉ねぎがしみただけ。

 ミートソースができるころには、また皮肉や呆れの混じったフラットなわたしに戻ろう。自分に言い聞かせる。トゥルールートを紡ぐといった彼の言葉を信じて、みんなが幸せなグランドフィナーレになるように。私はメインヒロインで、彼の夢を追いかける最強のパートナーで、そしてなんといっても彼の妻。それができれば、トゥルールートでは大丈夫なはずだから。

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