第6話 一泊二日のアプローチ

「倫也~、波島出海~、それに恵~」

「あぁ、英梨々か。見たぞ原画」

「柏木先生、今回の絵も最高です!」

 えんじ色のフレアスカートに白のフリルが付いたブラウスに身を包んだ英梨々が出勤する。会社の作業場の雰囲気が一瞬にして華やかに(やかましく)変わる。ちなみに、前三つのセリフは誰が言ったかは説明しなくてももう読者のみなさまはわかってるよね。

「あ、おはよ、英梨々」

 倫也くんとのお風呂イベントでメインヒロインとしての役目をはたした翌日、イベントとか役割とか表現してしまうあたり毒されてしまってなんだかなぁ案件なんだけど、平凡なわたしは倫也くんと愉快な仲間たちの一員としての立ち位置しかなくなってしまう。ステルス性能とまでは言われなくなったものの。

 ただ、そのステルス性能と、メインヒロインたる華々しい出会いとのギャップが、倫也くんを創作に駆り立てて、わたしを選ばせることになったのだから、まぁ十分すぎる結果オーライなんだけど。

「原画のうちの一枚、シナリオの解釈とかちょっと確認したいんだけど」

「あら、原画家さん、シナリオの解釈を確認しようというのに、私の名前を呼ばなかったみたいだけど、私がいると自分だけが独占している華やかな雰囲気が分散してしまうからそれを避けたのかしらね」

「あんたは華やかというより黒オーラ・・・、それはどうでもよくて、あんたはほら、シナリオ遅れ気味なんだから、そういうのはシリーズ構成と演出担当に任せて一文字でも早く進めなさいよ」

「あのー、霞ヶ丘先輩も一緒に打ち合わせしませんか?特に今回のやり取りには因縁も含むものもなさそうですし」

 倫也くんが明後日の方向に全力でボールを投げてしまう前に、演出会議ができる状態をお膳立てするのがわたしの役目。英梨々は『恵がそういうなら・・・』とうつむき加減につぶやき、霞ヶ丘先輩にはにらまれた気がするけど、それはいつものことということでスルーをして。

「そうだな、うちは全員で一つの作品を作り上げるのがモットーだからな。全然登場しないメンバーがいるっていうツッコミは今回はなしでな」

 倫也くんの一声で新作のプロモーションも兼ねてツアーに出ている氷堂さんを除くメンバーが出海ちゃんのデスクに置かれた大きなディスプレイの前に集まる。

 画面には腐れ縁ヒロインがホテルの前で主人公を誘う時の一枚絵が表示されている。相変わらず綺麗な絵だと感動を覚える。

「ここなんだけど、どうもあたしにはピンと来ないのよね。一応描いたには描いたけど」

「これ一応で描いた絵なんですね。ちょっと自信なくなります」

「大丈夫、出海ちゃんには出海ちゃんのよさがあるから」

 出海ちゃんをフォローする倫也くんを英梨々はキッとにらみつける。

「で、英梨々はどこがピンとこないのかなぁ」

「知らないわよ。というか、それが分かればこんな打ち合わせなんてしないでさっさと描いてる。・・・たぶんシナリオが微妙にへっぽこなせいだと思うけど」

 英梨々は片目をつぶり、表情を伺うような顔で霞ヶ丘先輩を見る。霞ヶ丘先輩は怒っていない様子で、それを意外に思う。

「どうかしら、ヘタレ主人公・・・、じゃなかったシリーズ構成さん」

「う~ん、主人公と離れていた十年間に経験済みだと主人公に勘違いされて、必死に否定するその姿は最高の萌えポイントだと思うけどなぁ。ていうか、言い間違いわざとだよね。さらっとひどいこと言ったよね」

「さっきのセリフにもシナリオにも一言も誤りなんてなかったと思うけど」

 霞ヶ丘先輩と倫也くんのくだらなくも平和なやりとりに、十年前のほんの一時だけ味わった、楽しいゲーム作りの時間が再来している幸せをかみしめる。

「あのー、ちょっと全体をみてみませんか?ゲームとして。今からシステムを作るのは難しいですけど、立ち絵と一枚絵を画面に出しながらシナリオを朗読するスタイルなら確認できると思うんですけど」

「わかった。じゃあ、それでやってみよう。俺がシナリオを読むから、出海ちゃんはそれに合わせて立ち絵と一枚絵の切り替えお願いできるかな」

「お安い御用です」


 倫也くんがヒロインのセリフを朗読するたびに『キモイ』などという罵声が飛び、主人公のセリフを朗読するために『ヘタレ主人公はハマリ役よね』などという感想が漏れ聞こえながら、疑似テストプレイが進む。


「そうね」

「そうだね。詩羽先輩」

 主人公が家に帰って正妻ヒロインとの甘い時間を楽しむシーンに入るところで朗読をやめて、シナリオライター勢が納得の表情で顔を見合わせる。

「これじゃ、一方的に主人公が攻略されている感だけあって、ヒロインを攻略している感がないんだ。読み物としてはそれもアリなのかもしれないけど、ゲームとしてはイマイチなんだ」

「ええ。それは理解したところよ。ただ、主人公が既婚者である以上、積極的にヒロインを口説くというのは難しいわね。葛藤の末にどうしても惹かれてしまって・・・という大筋で考えているのだけど」

 倫也くんが英梨々にどうしても惹かれてしまって・・・。想像をしてしまって、胸が苦しくなる。

「それだからダメなのよ、あんたたちは。既婚者だろうとなんだろうと、主人公のなかで何か感情が芽生えたとしたら、積極的に口説きにいけばいいじゃない。少なくとも書いてみればいいのよ。書きたいものがそこにあるなら、だけど」

 今の倫也くんは英梨々のことを積極的に口説くようなことはないと思う。ただ、英梨々が倫也君の小学生の時からの二十年来の気持ちの扉を開けたとしたら・・・。

「ちょっと待て英梨々、それダメだから犯罪だから」

「不貞行為は刑法上の犯罪ではないわ。民法上の規律を乱す行為として、離婚の理由として定められているだけよ。いわば倫理規定ね。倫理君」

「倫理規定違反もダメでしょ!」

 霞ヶ丘先輩は顎に手をあてて、考えを巡らせているような表情で下を向く。

 わたしも考えているふりをして下を向いてはいるが、離婚という言葉に反応してしまってのことで。手に汗が噴き出てくる。フラットに、冷静に、いつもどおり。

「わかったわ。あなたはいくつになっても心の底から倫理くんなのね」

「わかってくれてよかったよ。というかいつまでも倫也です」

「私が書く以上、いたいけな女の子を凌辱するのと同じ心持ちで主人公が不倫をするような倫理観のない作品は書けない。どこかのだれかさんの同人作品とは違ってね。ただ、主人公が既婚であるという、物語上で登場人物の葛藤を生む枷は、主人公の行動に対しては束縛を弱めに、そしてヒロインに関しては各々の性格に応じて束縛の強さを調整することでシナリオを調整してみるわ。今回は霞詩子に任せるといってくれたわよね。社長さん、シリーズ構成さん」

 霞ヶ丘先輩は倫也くんのことを上から見下ろしながら提案する。あの人たちのやりたいことは絶対に尊重するのが倫也くんだから。作品作りに限っての話しだけど。

「わかった。期待しているよ」

 ほらね。少し不満を抱えつつも、その自信満々の姿に神ゲーとなる可能性を期待している表情で倫也くんはいう。

 わたしもその言葉に従う。わたしには何もないから。自分には何もないことに不安はあるけれど、ゲーム作りにおけるわたしの仕事は、みんなが才能を持ち寄って、出てきた素材たちを、みんなの才能が織りなす魅力を最大限に発揮できるようにアレンジすること。とにかく、余分なことを考えてないで、役割を全うすること。自分に言い聞かせる。

「じゃあ、ひとまず英梨々はシナリオ待ちだね。霞先生はなるべく早くにシナリオを仕上げて、社長の確認をもらってください。出海ちゃんは、わたしと一緒にこれまでもらってるシナリオと原画を背景に合わせる作業ね」

 霞ヶ丘先輩は話を最後まで聞かずに自分の席に戻ってタイプをはじめ、英梨々は椅子の背もたれに頭を預けてつまらなそうにわたしの話を聞き、出海ちゃんは大きくわたしに相槌をうち、倫也くんは耳元で『進行とりまとめありがとうな』という。

「家で別の仕事を進めてるから、シナリオができたらメールでお願い」

 英梨々は立ち上がり、玄関のほうへ歩きながら言う。英梨々を呼び止めようか迷ううちに、玄関の扉が閉まり、英梨々の姿が見えなくなる。やっぱり、今の方がいい。わたしは玄関にあった倫也くんサンダルをひっかけて英梨々を追いかける。


「英梨々」

 エレベーターを待っていた英梨々を呼び止める。

「今週末、一泊二日で旅行に行かないかな。えーと、せっかく英梨々が会社に戻ってきてくれたから、その、親睦を深めるというか、それはいまさらで、えーと、えーと、とにかく、また英梨々と一緒にゲーム作れるのが嬉しいから」

 ろくに考えもせずに勢いで誘ってしまったことを後悔する。後悔する選択をしてしまったのは、前回(GS2参照)のイベントのときに、二か月間くすぶらせた気持ちもあって、英梨々を誘おうとしたメールが完全に失敗した文面になってしまったという反省があったからで。『なんだかなぁ』と言いそうになる気持ちを押さえながら英梨々の回答を待つ。

「・・・うん、わかった」

 英梨々は少しうつむいて答える。照れを含んだその表情に、指先に安堵の感覚が流れる。

「どこに、しようか」

「恵に任せる。あたしはそういう計画を立てるのは得意じゃないから」

 等身大で、自分の欠点も受け入れての発言をする英梨々を少し意外に思うのと同時に、欠点があろうとも受け入れてくれるという安心感を、友人として持ってもらっていることを誇りに思う。倫也くんの前だったら『あんたそれくらい考えなさいよ。男がエスコートするもんでしょ。普通』とか言いながら、計画を立てるのが苦手なことをとりつくろうんだろうから。

「うん、わかった。候補を決めたら連絡するね」

「ん、誘ってくれてありがと。絶対に今週中に原画の修正、終わらせるから。じゃ、作業に戻るね」

 到着したエレベーターに乗り込んだ英梨々は右手を上げて笑顔を作る。厚い鉄の扉が閉まり、小窓から漏れ出る光とともに階下へと下っていく様子を見送る。英梨々の姿が見えなくなると、とたんに緊張が走る。彼女が等身大で正直であるように、わたしも彼女に対して等身大で正直に接することができるだろうかという不安と、そうしたら彼女との関係がどうなっていくかの不安とが入り混じって。

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。これだけ近づいてしまったら、今までのような遠すぎず近すぎず、適当な距離を置いた親友としての関係は変化していくものだ。素直に、丸腰で英梨々にかかわっていくという決意をもって。これからも親友としての絆をつなぎ、トゥルーエンドへの橋渡しをするために。


* * *


 高速道路は順調に流れていた。十一月の祝日とつながらない土日となると、行楽客もそう多くはないのだろう。

 ハンドルを握り、自分たちの進む道の先を見据える親友の横顔を見る。この進む道というのは人生の比喩ことではなくて、アスファルトで舗装された三車線の物理的な道路のことで。「運転に集中したいから」と言われていた首都高速もとうに抜けて、ずいぶんと進んできたのにもかかわらず、一言も交わさない状況に居心地の悪さを感じながら。

 大きな橋を越えたところで、群馬県に入ったことを告げる標識を目にする。

「群馬県に入ったね。順調だね」

「そうね」

「もうすぐだね。たのしみだね」

「そうね」

 そっけない英梨々の返答に、お互いのわだかまりを察しあっていることを理解する。

「ねぇ、英梨々・・・」

「ごめん!恵!やっぱり着くまで話しかけないで運転に集中させて」

 無言の原因を自分が勘違いしていたことに気づかされて、安堵のため息が出る。

 フロントガラス越しに空を見ると今にも降りそうな雲が立ち込めている。目的地である山の上の天気はどうだろうか。雨が降っていなければいいな。今の時期ってもう雪が降るころだっけ・・・。

「ねぇ英梨々」

「だから話しかけないでっていってるでしょ!」

 俺様の言ってることがわからないのか!と言わんばかりに怒鳴りつけるところを見て、英梨々は倫也くんとそっくりだなぁと思う。我慢がなく、わがままで、人のことを顧みずに、一度決めたら貫き通すようなところ。だからこそ、英梨々が本気になったときには怖い存在で。

 でも、それよりももっと心配すべき事象が目の前で進行中であることをその言葉から理解して。シートベルトをきちんと締まっていることを確認して、手に汗を握りながら流れていくセンターラインを見つめる。一言たりとも話す余裕も聞く余裕もない運転手の横顔に一言だけ加える。

「安全運転でね」

「善処する」


* * *


「んん~~~。ようやく着いたわね」

 車から降りた英梨々が大きく伸びをする。

「運転お疲れさま。荷物下ろしちゃうね」

 雪が混じった小雨に濡れたトランクを開ける。

「いいよ、あたしの分はあたしが持つから」

 英梨々と二人並んで仲良く手をトランクに伸ばす格好になる。出発のときに感じていた二人の距離感への不安は旅の途中で別の不安にとってかわり、先に述べたようにその不安は全く解消されてしまったので、もともとの不安もどこかへいってしまっていた。ぎこちなくもならず、フラットでいることも意識せず、体も口も自然に動いている。

 二人とも荷物を取り出して、トランクを閉める。英梨々は旅行鞄ひとつと大判のトートバッグひとつだけをもって、旅館の玄関に向かって歩き始めている。

「あれ、英梨々、荷物それだけ?そんな装備で大丈夫か?だっけ」

「ん?あ、大丈夫だ。問題ない。って、それフラグ立ててるんじゃないわよね大丈夫よね」

 英梨々は振り返って答える。

「あ~、倫也くんの受け売りなんだけど、あんまりよく意味わかってないんだよね~」

 見よう見まねでとりあえずオタクに共通して通じるらしいネタを振り込んではみたけれど、実はとんでもないことを振り込んでいた。みたいなことになっていなければいいなと思う。

「まぁいいわ。イーゼルとか画材とかの話よね。今回は合宿じゃなくて旅行っていってたから。まぁ、それでもスケブと鉛筆だけは持ってるんだけど」

 英梨々はそれだけ答えると前を向いて旅館へと入っていく。

 トランクの中に忘れ物がないかをもう一度確認をしてから、トランクの扉を閉める。車のカギは大丈夫だろうかなどと心配をしながら。

「恵!あたしたち予約入ってないって!」

 英梨々が旅館の玄関から顔を出して自分の名前を叫ぶ。確かに予約したはずだ。英梨々に追いつき、仲居さんに名前を告げる。

「安芸ですけど、予約入ってないですか?」

「あぁ、安芸様、お待ちしておりました。ご案内いたします」

 そういって歩き出した仲居さんの後に、二人横並びで続く。

「・・・そういえばもう『加藤』じゃなかったのよね」

 英梨々がぼそっと発した言葉は聞こえなかったふりをする。その言葉に少しの優越感を抱いてしまった醜い自分を見せないように。


* * *


 空はすっかり暗くなり、あたりが何も見えない客室備え付けの露天風呂に親友と二人で浸かる。源泉を引いていると説明を受けた蛇口を開きっぱなしにして、源泉かけ流しになった湯を掌で掬うようにして自分の腕を撫でる。

「英梨々、ありがとうね。また一緒にゲームを作ってくれて。・・・タイミングを逃さないうちに言っておくね」

「あー、新興弱小ソフトメーカーがサミー系列のゲームの新レーベルから出る『昼ドラのような萌えノベルゲー』企画第一弾の一角を依頼されたんだから、あたしくらい大物を投入しないと釣り合いもとれないだろうし」

 相変わらずのツンデレ回答をもらって安心する。

「そうだね。倫也くんも大変な仕事を請け負っちゃって。テーマもほら、あれだし」

「そうね、絶対に倫也には書けないから、シナリオも依頼したのは正解ね。依頼先があの詩羽だってのには少し不安があるけど」

「萌えの部分には定評があるんだけどね」

「そうね」

 英梨々は立ち上がって湯船から出る。

「英梨々?もう出るの?」

「体を洗うだけ。長く浸かっててものぼせるでしょ」

「それにしても短いような・・・」

 わたしは英梨々に続いて洗い場に出る。

「・・・寒いわね」

「英梨々がちゃんとあたたまらないからだよ」

「・・・洗い場くらいは屋内にしない宿が終わってるのよ」

 二人で並んで、さっき夕食で髪にからめついてしまった信州牛鍋のにおいをシャンプーで落とす。

「久しぶりだね。旅行」

「前回はそっちのゲーム作りのネタにされに来たって感じだったけどね」

「あ~、その節はどうも~。でもあの作品で完全に倫也くんが本気になったというか」

「あたしにとってはあの作品を機に失ったものは大きかったけどね」

 やはり、その話に触れてしまう。お互いの距離を縮めるためにこうして旅行に来たのに、お互いに微妙な距離を発生させる原因をつくっている人物のことに。

 わたしは反応する言葉をさがし、英梨々はそれ以上の言葉を紡がず、体を洗い流すシャワーの音だけが聞こえる。

「めっ、め、恵。・・・その、失ってしまったものをもう一度追いかけようという気持ちになったことはある?」

 英梨々が沈黙に耐えかねて、大型の爆弾を投下してしまう。

 黙って英梨々の出方を伺う。英梨々も何も言わず、彼女の白い肌を石鹸をつけたタオルで撫でている。

「・・・あ~、えっと」

 英梨々はタオルを桶に放り込むと、シャワーで体についた泡を流す。シャワーから水が噴き出る音が響く。

「・・・ごめん、なんでもない。別の話しよっか」

 英梨々はシャワーを止めて立ち上がり、湯船の方に歩き出す。

「なにがいいかなぁ、そうだ、リトル・ラブ・ラプソディのリメイクの・・・」

 英梨々が湯船につかり、わたしの足元にあふれたお湯が伝う。わたしは体を流していたシャワーを止めて、英梨々の浸かっている湯船に向かう。

「誤魔化さなくていい」

 わたしはリメイク版リトラプについて話し続ける英梨々の言葉を遮って話し始める。

「あのね、英梨々。今回は、英梨々と、本当の親友になりにきたんだよ。その、えーっと、今までも親友だったけどのは変わりないんだけど、ほら、あの、まだ一点だけ、前みたいに国交が断絶してしまいそうな、決して仲が途絶えるわけじゃないんだけど、えーと、えーと、まぁ、もうちょっと、本当の意味で英梨々に近づきたいかなって」

 湯船に足を入れて、英梨々の隣に腰を下ろす。

「だからその、失ったもののことなんだけど・・・。わたしは、そんなに強い感情を抱いたことはなかったし、強い感情を抱いたものを失ったこともなかった」

「・・・っ」

「けどね、近くにいる人は、その失ったものを必死で追いかけてた。むしろそれしか考えてなかった。失ってしまった原因を突き付けられて、自分を見つめて、試行錯誤しながら走り続けて」

 英梨々は、苦し気で、それでいて誇らしげな表情を作る。たぶんわたしも英梨々と全く同じ表情をしてるんだろうなぁと思う。

「だからね、英梨々。わたしは、英梨々にちょっとした罪悪感と、ちょっとした嫉妬と、ちょっとした恐怖がある。英梨々は、もっと報われてもよかったんじゃないのかなって。子供のころから十年間の両想いの歴史、その間の努力、それからも十年間ずっと努力し続けて・・・」

「あんたね、言わせておけば何言っちゃってんのよ。それでも選ばれたことを誇らしく思ってるくせに」

「・・・ノーコメントで」

 やっぱり英梨々と同じ、苦し気で、それでいてもっと誇らしげな表情を作っていたことを認識する。さすがに絵描きで、言葉で表現しなくても、表情を読み取ってくる。

「・・・あのね、あんたと出会ったことで、確実に倫也は変わった。あたしも変わった。もちろんいい意味よ?昔は納得いかない部分もあったけど、今思えばそういう選択もありだったんだなって思うわよ」

「英梨々・・・」

「それに、詩羽も含めてだけど、あたしたちを追いかける倫也を支えてきた、というより二人で一緒になって追いかけてきた、そういう歴史も恵は紡いできたでしょ。あたしたちと比べると何もないって思ってるのかもしれないけど、あんた立派にメインヒロインやってきたじゃない、正妻を務めてきたじゃない」

 嫉妬と、嘆きと、敬意の混じったあてつけのような言葉を全身で受け止める。

「あんたは、手段を間違えなかった。いや、間違えたとしてもすぐに修正してきた。あたしみたいに、七年間も冷戦状態で、手段が間違っていることに気が付けるようなイベントを発生させることもしなかったわけじゃなくて」

 絡み合った感情と、それをストレートにぶつけるだけの自信を持った目の前の親友の姿に、十年前に仲直りできないと大泣きした少女だったことを忘れさせるような強さに、圧倒されて言葉を失う。

「小学校のころ、倫也と絶交しちゃって、悔しくて、悲しくて、つらい思いをしなきゃいけなかたこと。いくら努力をしても、波島出海の本はべた褒めするくせに一向にあたしの作品は認めてくれなかったこと。倫也に認められたら描けなくなってしまったこと。全部、目的と手段をはき違えてた。倫也の顔色だけをうかがってて、倫也の評価を求めてた。それからも、世界一の絵描きであると、倫也や恵が認めてくれることに執着した。今のこの状況は、もっというと、倫也があたしじゃなくて恵とともに人生を歩んでいることは、あたしが間違って、恵が間違わなかった結果だから。全部、あたしの責任。恵が罪悪感を感じることはひとつもない。それに、あたしは、恵のおかげで学ぶことができた。だからこうして親友をやってられる」

 嫉妬と、恐怖を覚えていることには何の言及もなく・・・

「でも今は、今からは、ちょっと違う未来を目指してもいいと思ってる。フィールズに加わって、紅坂朱音にだいぶいたぶられてから世界が変わった。あいつの影響だと認めたくはないけど。純粋に自分が最高だと思える絵を送り出すことにした。いい絵が描けれてれば、それが倫也の一番になるためのものでなくても、倫也は認めてくれた。もちろん、恵だって。そうやって積み重ねてきた結果があたしに自信をくれた。だから・・・やりたいことを、自分がいいと思ったことを貫いていこうと思う」

 いつの間にか苦悩の表情もなくなり、晴れやかな表情になっていて、まばらに舞い始めた細雪の空を見上げて英梨々は語る。自分の夫を巡っての堂々とした宣戦布告ともとれるその言葉に、嫌な気分など何もなくて。

「それって、なんだかなぁだよね」

 感情は止められない。英梨々も倫也くんと同じで走り出したら止まらないから。それを止めようと思うことはとても浅はかで、無理があって。

「・・・それって正妻の余裕?」

「ううん。全然。危機感、覚えてるよ。妻としては深刻な事態になってるなって、自覚あるよ?」

 英梨々は突然立ち上がり、風呂場の扉のほうへ走り出す。

「恵、表情はそのまま。ちょっとスケッチブック持ってくるから」

 表情はそのままといわれても、どのような表情をしていたかは自分でも自覚はなく。ただ、英梨々との距離を縮められたこと、縮まった距離によって火花が散ったこと、親友でありライバルである関係を続けていく覚悟ができたことを自覚して。

 細雪の降る空を見上げる。この雪がロマンチックだとは思えない。露天風呂というシチュエーションを加えたとしても。「くっ、また降ってきやがった」「どうしてこうなっちゃんうんだろう」「ふぇぇぇぇん」という三コンボをどうしても想起してしまうから。雪を見てもそうはならなかった現実を思い、体がだるだるにゆるむ。

「あー、もう!表情キープって言ってたでしょ」

 英梨々が戻ってきてわたしに不平を言って、それでも書き始めたわたしの絵が一糸まとわぬ姿だったことは言うまでもない。英梨々は倫也くんへの土産にするという、いつもどおりの挑発をうけたけど、もう差しさわりはないからと挑発で返して、英梨々を拗ねさせたことは付け加えておいてもいいかな。


* * *


 長湯から部屋に戻ると、スマホに着信履歴があることに気づく。倫也くんから不在着信八件。メッセージ二件。メッセージを開く。

『ごめん恵、何度か電話したんだけどつながらなくて。ほんとうは事前相談できればよかったんだけど。詩羽先輩がシナリオ降りるって言いだした。詩羽先輩を探して、説得してくる。連絡は欠かさないし、何かあれば相談するし、結論が出たら必ず報告する』

『それと、英梨々との旅行、楽しんでな。英梨々には気を付けて運転しろって伝えといてくれ』

 怒りにも似た感情が湧き上がる。霞ヶ丘先輩に向けられたものだ。倫也くんは何一つ間違ってないから。作品を人質にとるようなやりかたをするなんて・・・

「恵?どうしたの?体調悪い?」

「ううん。大丈夫。長湯してちょっと疲れちゃっただけかな」

「そっか。布団も引いてあるし、少し休もう?」

 英梨々に話すべきだろうか。窓の外では強くなった雪が舞い落ちている。たぶん、積もることはないとは思うけど、初心者が山道を走るには、夜の雪模様では状態が悪すぎる。

「ねぇ英梨々、今日は早く寝ることにしない?明日は車を運転して帰らないといけないし」

「えー、恵ともうちょっとおしゃべりしたかったのになぁ」

 話さないという選択肢はない。ただ、話すのは東京に無事に帰還してからだ。今ここで英梨々に話してしまったら、今すぐここを出ると言い出しかねないから。

「もう一緒に仕事してるんだから、丸太の喫茶店に行ったって、お互いの家に行ったって、また旅行に来たっていいから」

「じゃあ、次は新幹線ね。その方が、夜の時間も有効に使えるから」

 どうしてこうなっちゃうんだろう。新幹線で来ていれば、今にでもその事態を告げて、仲間として一緒に考えることができるのに。背負わないでいいリスクを背負い込むことになってしまって。チームの存続にかかわるような情報を、わたしが握りつぶしていることになるから・・・

「そうだね。今日のところはおやすみね、英梨々」

「ん、おやすみ」

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