第3話 十年の歳月は誰にも平等です

 blessing software 社屋、作業室。住居用に用いるのであればリビングルームにあたるその部屋に置かれた四台のパソコンのうちの一台で作業しているのは、お団子髪の妹キャラ、我が社の原画家兼デザイン担当の波島出海だ。

「出海ちゃん、美術関係の進捗はどう?」

 詩羽先輩との打ち合わせが終わった後に英梨々に呼び出された俺は、「あんただけ来たって意味ないのよ」と一蹴され、詩羽先輩も交えて前半のプロットをもとにキャラデザの最終調整の打ち合わせをした。

 英梨々はそれを信じられない速さで完璧に修正し、その後詩羽先輩から上がってきた、不倫を未遂に終わらせた主人公が正妻との日常に戻るルートの原画に取り掛かってもらっていたところだ。

「完璧です。もう依頼した正妻ルートで確定している分のCGは仕上がってますし、キャラデザの時点で表情差分をたくさん作ってもらっていたので、立ち絵のほうも心配ないです。悔しいですけど、柏木先生のクオリティに合わせて背景やUIやパッケージのデザインをしていくのかと思うと、すでに心がおれそうです・・・。あ、でも絶対に負けませんよ」

「えっと、原画は今回のウリだから食いすぎないように頑張ってね。出海ちゃん」

「任せてくださいよ、倫也さん。その辺はうまくやりますから」

 出海ちゃんもこの十年間で、ゾーンに入ると暴走してしまうクセを、後からの修正でうまくコントロールできるようになった。柏木エリという巨人とのタッグになるが、別のところで英梨々の作品に触れ、自分に合ったやりかたで技を盗みながら描いてきた経緯も見ているから、そこのところも問題ないだろう。安心して任せられる、美術担当だ。

「うん、今回も期待してるよ」

 心配の種は当初は予想していなかった別のところにあって。

 カレンダーに目をやる。制作開始からひと月が経とうというのに、詩羽先輩から上がってきているプロットは正妻ルートだけだ。ほかの個別ルートのプロットが上がってきていない以上、共通ルートのプロットにも変更が考えられる。手戻りを避けるためにもこれ以上は他の部隊を動かすことはできない。もちろん、それらの上に紡いでいくトゥルーエンドも書くことはできない。

 何度か連絡をとってみたものの、案は浮かんで構成を詰めているところ、最終調整中などという言葉が返ってくるだけだ。 

 ポケットの電話が鳴る。詩羽先輩からのプロット完成の連絡だろうか。ポケットから電話を取り出して画面を見る。期待に反して英梨々と表示されている。

「もしもし。どうした?」

『今から、秋葉原の金月に来なさい。あんた一人で。緊急事態よ』

「英梨々?」

 言葉が足りないのはいつものことだが、今日は声のトーンからシリアスな雰囲気がただよっている。

『他言無用よ。恵にも』

「おい、ちょっと英梨々!」

 そこで通話が切れる。英梨々が緊急に俺を呼ぶなど、用件は一つしかない。詩羽先輩だ。まさか昔の文豪のように自殺なんか考えてないよな。それは考えすぎだとしても、何か事故にあったとか、病気で倒れたとか。高坂さんの前例もあるし、俺たちももうあの歳に近づいている。とにかく、話は聞いてみないとわからない。

「ごめん、出海ちゃん。ちょっと出てくる」

「柏木先生ですよね。倫也さんが柏木先生を呼ぶ声、聞こえてました。何かあったんですか?」

「・・・今回の作品の打ち合わせ。問題があれば、みんなにまた相談するから」

「だって、柏木先生はもうシナリオ待ち・・・」

 俺は鍵と財布をズボンのポケットに突っ込みながら、出海ちゃんに向かって笑顔を向ける。

「・・・お気をつけて」

 出海ちゃんはそれ以上問うことをせず、心配そうな笑顔で送り出してくれた。


* * *


 出海がペンタブを叩くカツカツという音が大きく鳴り響く、blessing software 作業室。さらに大きな音を立てて、扉が開く。

「あれ、倫也くんは?」

 恵が作業部屋に入ってきて出海に尋ねる。

「なんか柏木先生から緊急の電話を受けたみたいで、血相変えて飛んで行っちゃいました」

 恵の目から色が抜けて、表情が無になっていく。

「あ、でも、何かあったら相談するって、言い残していきました」

 出海は倫也から聞いた言葉をそっくり恵に伝え、恵の顔色が少し戻ったのを見て、小さく息を吐く。

「そう。じゃあ今から夕飯作るから、出海ちゃん、今日は食べていきなよ」

「はい!」

 出海は意図的に大きな声で、歯切れよく返事をする。

「というか、一緒にご飯作ろう。今日は女子会、だね」

 倫也さんは帰ってこない前提なんだ。と出海は思ったが口には出さず。

「いいですね。そうしましょ」

 出海は無邪気に同意をして、社屋の玄関から外に出る。

「というか、これ、扉が閉まって場面が切り替わったら、私の出番、終わるやつですよね。ただでさえ本編でも脇役で、ここでも一話では名前だけ、二話では存在すら出なかったのに、この話でもゲーム制作の進捗説明要員と、恵さんへの倫也さんの情報を伝達する要員とに終始して、私は全然スポットライトがあたらないじゃないですか」

「あーそれは仕方ないね。ストーリー進行上の都合もあるしね。ほら、私だって、倫也くんに英梨々から電話がかかってきたときに、体よく作業場にいないようにしてあったから」

「あんまりです」

「なんだかなぁだよね」

 玄関の扉をあけたままで、アニメにするとやや尺が長くて不自然になる会話を一通りこなした後で、玄関の扉がしまり、場面が切り替わる。


* * *


 秋葉原駅に着くと、すでに日は暮れ始めていた。大きな複合商業施設を横目に見ながら進むと、場末感のある地区へと景色が変わる。

 金月とは業界人御用達の完全紹介制の会員制バーだ。存在自体は知っていたが、行くのは初めてだ。初めてサロンのような場所に行くことに緊張しているのか、これから英梨々が何を伝えるのか緊張しているのか、手に汗を握りながら速足で場末感のある地区を進む。


 小さいオフィスビルの密集した地区の中に、バー金月はあった。二階へと誘導する置き看板が出ていて、その横には「本日貸切」という文字に、小さくイラストが添えられている。それが柏木エリの絵であることは一目でわかる。

 落ち着け、と自分に言い聞かせてから扉を開けると、カウンターだけの店内に、金髪美女が一人腰かけている。「いらっしゃい」というカウンターの中のマスターの声に反応した英梨々は俺のことを認識して、箸で持ち上げていた卵焼きを口の中に入れる。

 英梨々の隣の席に腰かけ、とりあえずマスターおすすめの食前酒を頼むと、英梨々に問いかける。

「どうした?英梨々。詩羽先輩か?」

 貸切ではあるものの、上品な店の雰囲気を壊さないように、焦る気持ちを押さえながら、できるだけ静かに。

「知らないわよ。あたしだって波島に呼び出されたのよ。詩羽のピンチだって。それ以上何も言わないで、恵には内緒で倫也を連れてこいってだけいわれて」

「伊織?次回作のプロモーションも兼ねて icy tail と地方巡業中だぞ?」

「帰る」

「ちょっと待てよ、英梨々」

 席を立つ英梨々の腕をつかんで呼び止める。

「伊織なら何か意図があってのことなんだろう」

「ふん。ずいぶん信頼してるのね。あんな外注したクリエーターを潰すのに長けた業界ゴロ」

 スマホを取り出し伊織の電話を鳴らす。

「いい加減ゴロツキ扱いは許してやれよ。もう十年も blessing software のプロデューサー努めてるんだし」

「悪かったわね。あたしは一年しかいられなくて」

 呼び出し音が鳴るばかりで、電話は一向につながる気配はない。

 伊織との通話をあきらめ『英梨々といる。連絡求む』とだけメッセージを入れスマホをしまう。

「伊織、通じないな」

 英梨々は不機嫌そうな顔をして頬杖をついて、カウンターの正面に並ぶ酒瓶を眺めている。

「何も聞いてないのか」

「そうね」

 詩羽先輩が心配だ。伊織は、俺と英梨々に何を期待しているのだろうか。シナリオを上げさせる方法でも考えろというのか。

「言っとくけど、詩羽のシナリオが上がらないことなら、あたしは何も知らないわよ。お互いにプロなんだから、共同制作だったりしない限りは、作品については干渉しないことにしてる」

 英梨々は先手を打つ。クリエーターとしてのプライドを背後に感じさせるやり方で。

「・・・」

 手詰まりになった俺は何も言うことができず、沈黙が続く。

 英梨々に目をやる。変わらない姿勢で、カウンターの正面を向いている。そういえば、英梨々とこうして二人になるのは、あの夜以来だ。英梨々と生きる世界が決定的に違ってしまったことを突き付けられたあの夜。そして、英梨々を追いかけることを誓ったあの夜。

 十年間のうちに、英梨々は業界では敵なしの(ある意味、敵を作りまくりの)神イラストレーターになった。俺は業界で名前が少しは通る経営者になった。決定的に違ってしまったお互いの住む世界は、少しは近づいただろうか。それとも、英梨々の勢いに俺は離されるばかりだっただろうか。

「・・・倫也、この卵焼き、食べていいわよ。あんた、うちのママの卵焼き大好きだったでしょ」

 英梨々は正面を向いて頬杖を突いた姿勢を崩さず、横目でちらりと俺の方を見て、頬杖をついている手と反対側の手で卵焼きの乗った器を俺の方に押しやる。

「サンキュ」

 卵焼きを一つ、口に運ぶ。英梨々と卵焼きといえば、小学校のころの遠足を思い出す。小百合さんの作る弁当は、お嬢様に似合わず庶民的なもので、英梨々の弁当の卵焼きと俺の弁当の唐揚げを交換したりして。

 英梨々とのできごとはよく覚えている。一つも忘れたことなんてないんじゃないかってくらいに。

「ていうか、同じようなこと、高校三年生のときの教室でも言ってたな。昼休みに英梨々が強引に机をくっつけてさ。一緒にお弁当食べて。俺は焼きそばパンとカツサンドだったけど。懐かしいな」

 クラスが一緒だった高校三年生の時、やっぱりあの時も小学校の頃の遠足を思い出していた。

 仲直りするのに八年。一年おいて再び離れて十年。知り合ってからの時間は長いものの、離れていた時間の方が圧倒的に長い。それだから、一緒にいた時間はよく覚えているのだろうか。

「あれは、あんたが一人寂しくお昼食べてたから一緒に食べてあげようっていう慈悲の心からの行動よ。別にあたしは懐かしいともなんとも思わないわ」

 こいつもよく覚えている。言っていることは違うけれども、自分から机向をけろって指示したことも覚えているだろう。そんなだから、何かあるとひきずって、素直になれなくて、仲たがいの時間も長くなってしまう。

 というか飯を食う友達ならヨシヒコが居たじゃないか。というツッコミは、完全に忘れてしまったことにして。ほんとうに漢字は忘れた。

「いいや違うね。お前、あのとき俺にべったりだったじゃないか。あれだけ学校での接触を避けてたのに、『あーん』とか急にやりだしたりして」

 そのあと、ヒビが入ってしまった恵との友人関係を取り戻したい英梨々に相談を受けて。俺がいい加減に聞き流したせいで脛をけられて、その時食ってた焼きそばパンを奪われて、自分はカップ焼きそば派なのに分かってないといわれ。

「は?ばっかじゃないの?それこそ妄想垂れ流しってやつよね」

 あの頃の俺と英梨々は、人生で一番信頼関係が築けていたんじゃないかと思う。そういう関係で、こいつとゲームが作りたかった。わだかまりを抱えたまま、俺一人に認められるためだけに絵を描くのではなくて、能力のない人間がその気持ちだけにすがるのではなくて。

 結局、わだかまりは解消したけれども、何の努力もせず、能力もなく、ただ英梨々を離したくないだけだったあの頃の俺には、わだかまりのなくなった英梨々に絵を描かせることはできなくて。

「それで、出海ちゃんが教室の外からその様子を見ててさ、恵に実況しててさ。あれは参ったな」

 英梨々は結局サークルを抜けることになり、出海ちゃんと伊織と新生 blessing software として活動することになった矢先に、英梨々がすさまじい絵を出して、恵も出海ちゃんも大変なことになったころの、俺と英梨々の関係だけが能天気に平和だったころの、出来事だっけ。

 英梨々は下を向いて黙り込む。

「・・・恵とは、うまくやってんの?」

 英梨々は自分の前に置いてあったグラスワインを一気に飲み干し、マスターにお代わりを要求する。それ、いつかの英梨々のパパのイギリス土産(ウィスキーボ○ボ○)の時みたいにならないよね。大丈夫だよね。

「お次はマスカットのジュースでございます。先ほどのブドウとはまた違った香りや味を楽しんでいただけると思います」

 マスターがすかさず俺の心配にフォローを入れる。英梨々は「ありがと」とお礼を言ってグラスを受け取る。あ、恵の話を振られてたんだったっけ。

「そうだな・・・」

「やっぱいい。話さないでいい」

 英梨々は俺の話を途中で止めて、マスカットジュースの注がれたワイングラスに視線を落とす。

「言わなくてもわかるから。恵にあって、あたしにない十年のこと。波島出海にあって、あたしにない十年のこと」

 美智留と伊織も忘れないであげてね。という突っ込みはここではナシで。英梨々にそう言わせてしまったのには俺にも悪いところがあるから。

「ごめんな、英梨々」

「何よ、あんたが恵とくっついたこと?シナリオライターとしてメインヒロインをたらしこんだこと?社長権限で副社長の地位との交換条件でめとったこと?」

「違う、全部一緒だし、最後のは語弊があるし、それにそれは悪いとは思ってないし・・・。そうじゃなくて、もっと直接的に英梨々に関係があることで、ごめん」

「っていわれても、今度は心当たりがなさすぎて何のことだかわかんないわよ。二十年前にあんたがあたしの親友にも盟友にもなれなかったことも、十年前にあたしがあんたのサークルを離れなきゃいけない原因を作ったことも、全部、受け入れて、お互いに許して、そこからはお互いの道を一生懸命に歩んできたじゃない。あたしに謝ることなんて何もない。倫也は悪いことをしてない」

 今度というのは、前回があるからで。前回というのは、本編の十三巻を参照ください。

「・・・でも、やっぱ、ごめん。英梨々を、この十年間、いやガキの頃から含めると二十年間、宙ぶらりんにしてしまった」

「あんた・・・、何言って・・・」

 本当は、英梨々も詩羽先輩も離したくはなかった。完全無欠の blessing software で業界に旋風を巻き起こしたかった。ずいぶんと時間はかかってしまったけども、今は目の前に英梨々がいてくれて、委託ではあるけれど、一緒にゲームを作っている。

「それなのに、ずっと待っててくれてて、ありがとう。またこうして一緒に来てくれて、ありがとう」

 オファーの時には伊織も詩羽先輩もいたから、言えなかった、英梨々だけに特別な気持ち。もちろん、詩羽先輩には、詩羽先輩だけに特別な、ありがたい気持ちもあるんだけど。

「・・・バカじゃないの」

 英梨々はワイングラスの淵を指でなぞりながら、下を向いて吐き捨てるように言う。


「ねぇ倫也」

 英梨々は顔を上げて、俺の顔を見ながら言う。

「あたしたち、元のように戻れると思う?」

「元に戻れるかっていったら、元には戻れない。それぞれに積み重ねた時間があるから。でも、これから、その時間の上に、一緒に、新しい、最強の関係が築けたらと思ってる。てか、絶対に築く。それを夢見て、十年間、俺はおまえに追いつこうとして頑張ってきたたんだから」

「倫也・・・」

「正直、離れすぎて追いつかないと思ったくらいの状況だったけど、今は英梨々がこうして俺の隣にいてくれて、やっぱ俺が求めてるのはこれなんだと思えてて」

 英梨々の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「だから英梨々」

 俺は英梨々の手を取って、決意を語る。

「完全無欠の blessing software を作っていこうな」

 

 一瞬の間があって、英梨々は髪を手で束ねてツインテールを作り、ツインテールビンタを繰り出す。

「そっちじゃない!じゃなくて、あたし・・・でもなくて、とにかく文脈もなにもないくそみそライターが!」

 一通り叫んだ英梨々は、俺の方に寄せた卵焼きの皿を自分の方に引き戻して一気に卵焼きを口に押し込み、俺に背を向ける。

「・・・でも、近いうちに、あたしと詩羽のいる blessing software をとりもどしてよね。倫也」


* * *


 家に帰った英梨々は窓から住宅街を、というより今はもう倫也が住んでいない、倫也の実家を見下ろす。

『霞詩子は今のままだと書けなくなる。彼女は作品を一人の男のために書いていた。それから、悲恋の物語は、その男との関係に悩む彼女自身と、近くの戦友のため、つまり君のために書いたものってところかな』

 倫也と会う前に聞いた伊織の電話口での言葉が英梨々の頭の中をかけていく。

 その通りだ。詩羽は、あたしと同じくらい倫也のことを思っていて、あたしと同じでその気持ちが創作へと駆り立てるものであって、あたしも詩羽も作品に倫也への思いを込める。

『今回の題材は、その男の幸せを壊し、彼女自身や近くの戦友の淡い期待さえも壊すものだ。だから、残酷な描写といわれていても裏返しのやさしさが必ずあった彼女には書けない』

 あたしと詩羽で決定的に違うのは、その思いの込め方だと思っている。あたしは、倫也にとって、恵にとって、あたしが一番の絵師だと常に思わせるように、そして自分にとって、最高の絵だと常に思えるように作品をつくる。対して詩羽は、作品に倫也への直接的なメッセージを込める。作品で倫也と会話をしようとしている。

『彼女は、その個人的なしがらみを乗り越えなくてはかけるようにならない。でも、どうしたものかな、動くことを恐れているように、僕は思えるんだよね』

 こんなの、倫也に言えるわけがないじゃない。実際、聞いた勢いで呼び出してしまった倫也に、言うことはできなかった。ましてや恵にも。そして、クリエーターとしてのリスペクトのある詩羽にも言うようなことではない。

 十年という歳月は、あたしにも考える能力を与えた。倫也から、詩羽から、自立して一人の絵描きとして生きていくための処世術。高校生のあたしだったら・・・

「っ・・・」


 英梨々はスマホを取り出して、詩羽を呼び出す。

『なに?英梨々。今何時だと思ってるのよ』

 詩羽は数秒のコールで応答する。

「午前一時よ。あんたはいつも起きてるでしょ」

『そうね。起きてるわ。あまり常識的だとは思わないけれど。で、用件は何?』

 柏木エリとして生きてきた時間が長くなったから忘れていた。

「あたし、今日、倫也と会ったわ。二人で」

『そう。打ち合わせ?よかったわね』

 今回請け負った仕事は、それは作品に対しては真摯でなければならないけど、大人の事情を考える必要もなければ、気も遣う必要なんてない。

「あんた、わかってるくせに回りくどいのよ。デートよ。デート。倫也を貸切の金月に呼び出して。倫也がデートだと思ってるかは知らないけど」

『あなた、それがどういうことだかわかってやっているの?彼の夢と幸せを壊すことになるかもしれないのよ』

 違う。クライアントが本当に求めてるのは、倫也の夢は、幸せは、利害関係のないところで本気と本気でぶつかり合って、最高の神作品に仕上げること。

「そんなことない。絶対にそんなことさせない」

『・・・』

「あたしは、あきらめない。倫也も、恵との友情も、作品も」

 もちろん詩羽、あんたのことも。あんたとあたしがいる blessing software も。何もかも。

 だってあたしは、高慢で、強欲で、わがままな、澤村スペンサー英梨々だから。

「絶対に、妥協はしないから」

 英梨々はそう言って、一方的に電話を切って、ベッドに横になる。新作を作り始めるときに似た、胸の軽やかな感触をかみしめながら、英梨々はゆっくりと瞳を閉じた。

 


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