『午前三時の交差点』

「どうだろう、ここらでバーチャルユーチューバーになるっていうのは」

 斑月が言うには、もう漫画を描くのは限界らしい。もうソシャゲに課金して苦しいガチャ芸を見せるのも、命を賭けて原稿を描くのも、そうしなければ明日食う飯にも困るこの状況も、限界らしい。専業同人作家らしい悩みだと思うが、自業自得だし、そんなに限界ならバーチャルユーチューバーなんかにならずに普通に働けよと思わずにはいられない。

「なればいいんじゃない」

 けど僕はそう答えることにした。大抵、斑月の言うことは本気じゃないのだ。本気だったら、言わずにやるタイプの人間だ。相談したり、察してムーブを出している間は、やる気がない証拠だ。付き合いが長いし、斑月は創作グループの中でも特に懇意だから、お互いに、お互いのことをよく理解している。

「締め切りが近いからって現実逃避してちゃダメだよ斑月。君は漫画が描けるんだから、漫画を描けば良い。FGOの新刊を描いて、頒布する。君に課せられた使命はそれだけだ。隣の芝生は青く見えるかもしんないけど、実際ライバーになってごらんよ、絶対漫画描いてた方が楽だったって思うはずだから。どうせ人気も出ないし」

「だよな」

 斑月は意外にもあっさり納得して、うんうんと頷いてみせた。まあ、大方止めて欲しくて言ったんだろう。斑月には、そういうところがある。多分今は、漫画に対して自信をなくしている週間なんだろう。僕も同じだから、よく分かる。

「紅島は来ないの?」

「もう少し掛かるって言ってた。言ってたっていうかラインが来た」

「俺には連絡もなしに」

「斑月は筆無精だから」

「筆無精って?」

「既読スルーって意味」

 僕らは午前三時のファミレスで、ドリンクバーと山盛りのポテトを前に、だべっていた。主に創作論を語り合うべき月に一度の会合なのだけれど、最近は人生の悩みとか、今後どうしていくかとか、親父が定年で……みたいな暗い話を言い合う場になってきている。SNSじゃ話しにくいようなことを、言い合っているというわけだ。インターネットが生まれて、現実世界じゃ話せないことをチャットやSNSで話していた時代から一周回って、現実世界よりも、インターネットよりもアンダーグラウンドな場所が、今、ここにある。

「闇夜は最近どうなの、小説」

「書けない」

「書けよ」

「僕はもうダメだ。才能は枯れたし、一日二時間以上椅子に座ってられない。二十歳前後の頃の勢いは失われたよ」

「煙草なんか吸うからだ」

「斑月もたまには吸う?」

「もう二度と吸わない」

「じゃあ僕は失礼して」

 煙草を取り出して火を付ける。創作家四人組のうち、喫煙者は僕だけになってしまったが、ファミレスで集まる時はいつも喫煙席に座っている。心苦しいと思う時もたまにあるが、小説家とはこうあるべきだという僕のイメージが先行している形だ。

「お前ももう三十歳だろ」

「同い年だから、そうなるね」

「定職にも就かずに何やってるんだ」

「そっくりそのままお返しする」

「俺はまだいい……いいっていうか、よくはないんだけど、これでもまだ食えてるからな。専業同人とは言うが、家からもほとんど出ないし、人付き合いなんかこれくらいだから、多分このままずるずると生きて行くんだろうな。幸いなことに、俺は実家住まいだし」

「それは結構だ」

「だが闇夜、お前はもうダメだぞ。来る所まで来た。作家を目指して十数年、数年に一度小説賞に応募しては落選、かといって同人誌を出すわけでもないし、ネット上に二次創作を上げてるだけだ。お前、もう三十歳だぞ?」

「なるほどね」

「どうして煙草買ってるんだ」

「たまに日雇いのバイトをしてるって何度か言ってると思うけど」

「どうしてって言うのは、その日雇いのバイトで稼いだ金でなんで煙草を買うんだって意味だ」

「これがないと生きていけない」

「それでいいのかお前は」

「どうにかしないとと思いながら、十数年経った」

「諦めの境地だな」

「燻ってるよ、色々と」

 自由だが、とても不自由だとは思う。

 インターネットとスマートフォンがあれば、無料の娯楽には事欠かないし、パソコンが一台あれば、小説を書くには困らない。最近はメール応募の出版社が多いし、どうしても原稿をプリントアウトしなくてはならない場合も、セブンイレブンのネットプリントを使えばプリンタを買う必要はない。あとは日雇いのバイトをした日にゆっくりと体を休められる厚めの布団と、急な出費の際に金を貸してくれる友人がいれば、人生は安泰だと言える。つまり、斑月がいれば僕は安泰だ。

「まあ、インターネット落書きマンである斑月も大概だと思うけどね。次の砲雷出ないの」

「出るけど、新刊は出ないな。既刊を出すよ。ぶっちゃけもうゲームやってないし。イベントが来ても触れもしなかったのに、俺が新刊出す意味って? みたいな気持ちになってきた」

「まあ、気持ちは分かるよ。僕もやらなくなったし。そもそもさ、エロ同人漫画っていうジャンルは、いつまで続くんだろうね。エロっていうブームは永遠に続くんだろうか。そもそも、最近は同人誌も違法アップロードされるから、売り上げは落ちてきてるんじゃないの? 特に、斑月みたいに下手に有名だとさ。前に見たよ、斑月の新刊が違法アップロードされてるの。流石に落とさなかったけどさ」

「あんまり実感はないな。欲しい人は買うし、買わないやつは買わない」

「そういうもんなの」

「少なくとも俺の実感はな。大手は知らん。あいつらが何冊刷ってるかも知らん」

「斑月も十分大手だと思うけどな」

「フォロワー数とか認知度では割と高い位置かもしれないけど、そういうのは実売とは全然関係ないからな。そもそも、ツイッターでフォローするっていうことに金銭的な絡みは全くないから、そこは何の基準にもならない。バズったところで、俺の手元には一銭も入らない」

「仰る通りで」

 僕は正直、彼らのいる世界とは全く別の世界で生きているように思う。同人誌を発行したことはないし、イベントにもほとんど参加しない。十年前くらいに、偶然仲良くなった連中と付き合い続けていたら、こうなっただけだ。あまりオタクとも言えない僕がここにいるのは、ただの運。それだけだ。

「いい加減お前も同人誌とか出したらどうだ。それなりに聞くぞ、エロ小説。エロ同人の創作っていうか、エロ同人漫画の三次創作みたいなジャンルも今はあるらしい」

「もうよく分からないね、それ」

「一回やってみたらいい。闇夜の小説は、面白いんだから。エロだって書けるだろ」「エログロは書かないんだ、僕は」

「なんでだよ」

「昔、西尾維新先生が活字倶楽部のインタビューでエログロは書かないって言ってたから、僕も書かない」

「何に操を立ててるんだお前は」

「いいんだよ僕は、西村賢太先生みたいな人生を送って、いつか芥川賞を取るんだ。彼は四十歳を越えて賞を取ってるし」

「ああ、映画化したなんとかいう」

「苦役列車ね」

「でも若い頃から書いてて認められたんだろ」

「んー、どうだろう。それでも三十歳過ぎくらいに小説活動を始めたんじゃなかったかな。ウィキレベルの知識しかないけど。ていうか別に、何歳とか関係ないよ。良いものを書けばそれでいい」

「そういう時代は終わったもんだと、俺は思うけどな……今は人だぜ、闇夜。人が人を信頼して金を払う時代だよ」

「どうしてそうなったんだろうね」

「中身が見えやすくなったからじゃないか」

 斑月の言い分はもっともな気もする。クリエイターの内側を、今はいとも簡単に覗けるようになってしまった。ていうか、誰も何も言わないのに、勝手に赤裸々な情報を発信しているんだから、作品に付随して、嫌でも目に入る。今日何を食べただの、今日どこに行っただの、映画を見に行ったら隣のヤツがスマホいじってて鬱陶しかっただの、そういう部分が、全部勝手に無償で知らされるんだから。

 まあもちろん、それは読者が望んでいることなのかもしれない。一部の熱心な読者は、昔から、インタビューを全部読破したり、サイン会があれば足を運んだり、そういうことをしていたのだから。だったら、そうして中身が見えることは良いことのはずなんだけれど、諸刃の剣というべきか、作品を神格化するファンにとっては、作り手の都合なんかどうだって良かったりするんだろう。僕も人間だから、作品が好きで作家が好きになったタイプもいるし、作家が好きで読んでいる作家もいるし、作品は好きだけど作家は嫌いというのもある。あるいは作品も作家も別に嫌いじゃないけどファンが嫌い、とか。

「いいから闇夜は小説を書け。もっとも商業に近い存在だぞ、お前は」

「紅島の方が近いでしょう。なんかの漫画でなんかのゲームの四コマ描いてなかった?」

「紅島来てもその話はするなよ。彼女にとっちゃ黒歴史らしいからな」

「なんでよ」

「評判が悪かったようだ」

「そう? まあ、読んでない僕が何か言うでもないけど、そんなに悪評立ってるようなところは見なかったけどな」

「悪評どころか何の反応もなかったらしいからな。ツイッターに上がってる頃は結構人気だったみたいだけど、金を払わない読者からしたら、無料で読めてたものが読めなくなるんだから、そりゃ興味も失せるよな」

「普通は金払って雑誌買うんじゃないの?」

「そういう時代じゃないんだよ」

「嫌な時代だ」

「お前だってそうだろ、闇夜」

 返す言葉もなかった。僕自身、紅島が雑誌で四ページの雑誌連載を持つと聞いた時には胸が躍ったものだが、その雑誌を買うようになったかと言えば、全くそんなことはなかった。そもそも紙媒体が嫌いだし。かといって、キンドルで買うようなこともなかった。要するに、そこに五百いくらの価値を見出していなかったし、僕は紅島のファンじゃなかったんだろう。

「でも、だけど実際紅島は連載したわけだから、商業にもっとも近い……というか実際商業の仲間入りしたのは紅島だろ」

「お前はアンソロも商業に数えるか」

「え? そりゃそうでしょ。契約してるんだし、あれは完全合法でしょ」

「どうだろうな……まあ、俺が言いたいことは、オリジナル作品でもないものを商業誌に連載して、果たしてそれが漫画家なのか、っつー話だよ」

「いや漫画家でしょ。何言ってんの」

「小説家には分からんか」

「僕はただの作家志望だが」

「俺たちは……漫画家に憧れていたわけじゃないのかもしれない、っていう話だよ」

「ますます訳が分からなくなってきた」

 僕は煙草を消すと、コーヒーを一気に飲み干して、席を立った。深夜三時のファミレスは、そこら中が空席だ。二十四時間営業をする意味ってなんだろう。僕らが座るため? 僕らが話合う意味って? 創作する意味って何? 誰か得した?

 ドリンクバーは僕の生活の中で重要な栄養源だった。コーヒーばかり飲んでいては体に悪いとばかりに、野菜ジュースを並々と注いで、それと別に糖分たっぷりのミルクココアを注いだ。グラスを二つ使うのは勇気が要るが、ホットドリンクとコールドドリンクを二つ使う分には、なんとなく抵抗感がない。この辺、すれすれの犯罪意識だ。犯罪っていうか、マナーとかモラルの問題かもしれないけど、僕はそのくらいなら赦せる、というモラル。それって一体、どこまで適用されるものなんだろう。違法アップロードは違法って名前が付いてるから違法だろう。じゃあ、他人から横流ししてもらうのは違法なんだろうか。友達に漫画を借りる感覚で、自炊した漫画本のPDFをディスコード経由で送りつけるのは、違法か? その辺、僕には分からない。ただ少なくとも、モラル的にアウトだっていう意識にはなる。ドリンクバーで飲み物を注いでその場で飲み干すのも、なんとなく。

「お待たせ」

「健康志向だな」

「こう見えてね。栄養足りてないし」

「まあ……俺らには健康診断とかないからな。自費で行けばいいんだろうけど、なかなか行くのも億劫だし」

「そうなんだよね。最後に受けたのなんて、高校三年生の時が最後だ。それ以来、身長も体重も測ってない」

「俺らヤバイよな」

「普通じゃないね」普通って何?

 僕はそう言いながら、諸悪の根源である煙草に火を付けた。甘い飲み物と煙草という組み合わせも、これがなかなか悪くない。

「紅島から連絡来たか?」

「ん」スマートフォンを取り出すが、通知はない。「ないね。勝手に入ってくるでしょう」

「そういや志田は?」

「ああ、なんか推しのライバーが生配信するから今日は来られないって言ってた。本当に斑月って連絡来ないんだね」

「筆無精だからかな」

「嫌われてるんじゃない」

「マジでヘコむなあ」

「でもさ、ユーチューブとかニコニコ動画とかの存在で、僕らは時間に捕らわれなくなったじゃない。アニメが好きな人たちだって、実況勢でもない限り、動画配信サービスで最新話を見れば良いわけで」

「うん? なんの話だよ」

「いや、その……バーチャルライバーたちがさ、この時間に生配信します! って宣言したら、それに合わせて行動する層がいるわけでしょ。まああれらの配信って、テレビと違って結構一期一会感があるというか、アーカイブに全部残るわけじゃないじゃん」

「詳しいなお前」

「そりゃアイフォン持ってるからね」

「で?」

「それってさ、昭和みたいだよね、って思ったわけ。今日はドラマを見るから帰ります、みたいなさ。見たいテレビがあるっていうのと、本質的には変わらないんじゃないかって思うわけよ」

「んー……まあ言わんとしていることは分かるけど、推しの生配信を見たいっていう気持ちは、希少性というか、ライブ感が欲しいのであって、昔とはちょっと時代が違うんじゃないか」

「時代は確かに違うね」

「俺たちが生配信に求めてるのって、こっちのコメントが読まれるんじゃないかっていうライブ感とか、放送事故が起きるのではないかっていう期待とかだろ。昔の、撮って編集して時間きっかりに流すドラマとは本質的に違うと思うぞ」

「言われてみりゃそうだ。僕の考えは違った」僕はすんなり持論を撤回した。「なるほどね、ライブ感か。まあ確かに。売れないお笑い芸人のライブに行くってのと似た感じかな」

「そっちの方がまだ近いかもな」

 野菜ジュースとミルクココアを交互に飲んで、フライドポテトを口に放り込んで、煙を吸った。まだ三時十分だ。斑月と合流してから二十分しか経過していないが、未だに明るい話題は出ていないように思う。それだけ、僕らの人生は暗澹としているということなのだろう。

「……そういやさっきの、僕が一番商業に近いって話だけど」

「あん?」

「どういう意味か未だに分からない」

「ああ……なんだろうな、お前の夢って何?」

「作家」

「それは、文章を書いて生計を立てる、いわゆるライター的な意味なのか、それとも小説家なのか、どっちだ」

「小説家だね。小説を書いて本を出して、それで飯を食いたい」

「そこが本質的に違うんだと思う」

「ほおん?」

「俺は、そもそもオリジナル漫画のネームなんか切っていないし、描ききったこともない。ジャンプやマガジンに持ち込んだこともない。やる気ねえんだよ。でも漫画しか描けないし、今さら引くに引けないから、もう同人誌を描くしかない」

「なるほど」

「一方闇夜は、オリジナル小説を書き続けてるだろ。『書けない』とか言っておいて、書こうとはしてる。そこが違いだよ。俺みたいな同人作家は、このまま成長しても漫画家にはならない。オナニーを極めてもセックスは出来ないんだ」

「そのたとえはすげえよく分かる」

「紅島だって、同じだよ。偶然、時代が合っただけだ。ゲームのパロディ四コマ漫画を描いてて、それを商業誌で載せられるっていう時代があって、だからデビューしたに過ぎない。って、本人が言ってた」

「あ、結構深い話するんだ、紅島と」

 ちょっと突っ込んだ物言いになったかな、とは思ったが、「まあ、漫画描き同士だから、一応」と、煮えない回答があっただけだった。流石に口を割らない気らしい。

「確かに創作論で君らと熱い話を交わした記憶ってほとんどないな……そもそも僕は小説書いてるのになんで一緒にいるんだろうな。普通絵描きは絵描きでつるむもんじゃないの?」

「違うから居やすいんじゃないか」

「ライバル視しなくて良いから?」

「嫉妬心もないしな。ていうか単に、友達だろ」

 言われてみればそうかもしれない。もし、紅島が小説を書いていて、例えばゲームのノベライズなんかでデビューしていたら、僕は持ち前の心の弱さを発揮して、連絡を取らないようになっただろう。むしろ、そういうライバルがいないから、僕はいつまでものんびりのほほんと生きているんだろうか? 焦ることがないし、必死になることもない。ただなんとなく生きて、ただなんとなく小説を書いて。そりゃあ、デビュー出来ないはずだ。

「あ、紅島からライン来た」

「なんだって?」

「そろそろ来るって」

「そろそろってのは何分のことを指してるんだ」

「五分くらいじゃない」

 そういう感覚は、僕と紅島の間では割と共通化している。それは、モラルの価値観と似通っているのかもしれない。僕にとってのそろそろが五分から十分くらいのことだとして、それは斑月にとっては十分から三十分なのかもしれないし、そもそもそうした曖昧な言葉が許せないかもしれないし。そういう価値観が合う人間が友人になれるとするなら、そしてその価値観の上位を普通とするなら……いや、なんか考えても栓のないことを考えてる気がする。

「前に何度か言ったかもしれないけどさ」

「何?」

「闇夜、スマホ似合わないよな」

「スマホが似合わない人間なんているのか。この現代日本において」

「いや……俺らが会った頃って、ガラケー全盛期で、スマホってまだ登場してなかったよな、確か」

「そうだねえ……そうだったかな。海外で初期型のアイフォンは出てたくらいかな」

「その当時、闇夜はガラケーすら持ってなくて、鞄も持ってなくて、財布と煙草しか持ってなかったよな、確か」

「よく覚えてるね斑月は。僕はほとんど憶えてないけど、多分そうだろうなあという感じはあるけど」

 そもそも彼らとの出会いは、とあるゲームのファンサイトで二次創作をしていた繋がりだ。斑月と紅島は主に漫画を描いていて、僕は小説、そして志田はイラストを描いていた。他にも数人いて、確か東京で行われたイベントに参加して、オフ会の真似事をしたのが最初だった。馬が合ったとか、特別親しくなるような会話をした覚えもないが、僕らだけがまだ続いている。単純に、創作をし続けているから、取り残されただけのような気もする。

「あの頃の闇夜は、もっと尖ってた。情報なんかクソ喰らえって感じとか、周りに合わせる気なんか微塵もない感じがあった。俺はそういう闇夜に惹かれたんだ」

「やめてよ気持ち悪い。BLは興味ない」

「いやそういうんでなくてな……俺はこう、サブカルにどっぷり肩まで浸かって逃れられなくなった人間だから、憧れがあったんだよ。当時大学生で、アニメ見たり漫画読んだり絵描いたりするくらいしか能がなかった俺が、なんか真っ直ぐ何かを見つめてるような人間に出会って覚えた感慨は、こいつは他人と違う、だった」

「何これドッキリ? 愛の告白?」

「いやなんか……丁度十年だろ、直接顔を合わせるようになってからさ」

「まあ、そうか。当時丁度二十歳だったっけね」

「なんか思い出したんだよなあ、急に」

「そういうのあるよね」

 本当にあるのかどうかは分からないし、僕には多分起き得ない現象だろうけれど、そう言っておいた。多分、あるんだろうな、そういう、ふと思い出すようなことが。

「そういう昔を知ってる俺からすると、今の闇夜はなんつーか……俗世に塗れたな」

「失礼なことを言うな君は」

「俺は闇夜にスマホなんか持って欲しくなかったし、ラインなんかやって欲しくなかったよ。もっと言えば、SNSなんかやって欲しくなかった」

「いや……言いたいことは分かるよ。あれだろ、風来坊というか、世捨て人というか、そういうイメージだったんだろ。分かる分かる。大いに分かるよ。ただ——世捨て人はそもそも、インターネットをやらない」

「ああ……いやまあ、確かに」

「パソコンでインターネットして、ゲームの交流サイトに入り浸って、小説書いて投稿して、テキストチャットルームに入り浸っているような輩は、どう足掻いても世捨て人なんかになれないし、風来坊にもなれないし、仙人のような生活は出来ないんだよ。そもそもね、小説家というか、作家と呼ばれた連中は、昔から割と最先端を行く人間たちの集団だよ」

「そうなのか? イメージが違うけど」

「まあピンキリだとは思うけど、海外の作家なんか見るとさ、鉛筆なり羽根ペンで始まって、それがあれよあれよという間にボールペンとか万年筆に変わって、そのうちタイプライターに取って代わって、ワープロ、パソコン、今じゃアイパッドとかで書いている人も少なくないんじゃないかな。多分、ツールに対して敏感な人が多いと思う。小説を書く人間ってのは、基本的に自堕落で、楽をしたい人間だから。未だに原稿用紙で書いてる人って、赤川次郎先生くらいじゃないの」

「誰だそりゃあ」

「三毛猫ホームズ書いてる人」

「知らん」

「マジか……ドラマ化されたらしいよ? 見てないけど」

「俺は基本的にドラマってものを見ないからな」

「マジか……」

 まあそれもそうか。多分、根本的に、斑月と僕ではアンテナの張り方が全然違うんだろう。僕のタイムラインでは、小説家先生たちの動向とか、最新作とか、メディアミックスのリツイートが黙っていても回って来るけれど、層が違えばそれは常識にはなり得ないのだろう。よほどバズるツイートでもない限り、共通認識にはなり得ない。

 まるでモラルのようだ。

 いや、むしろ——

「おつ」

 何かが閃きかけたタイミングで、僕らの席に紅島がやってきた。ちょっとオシャレをしているようで、黒ジーンズに黒シャツという僕や、チノパンにパーカーという出で立ちの斑月とは、住む世界が違う人間のように見えた。

「私どっちに座れば良い?」

「僕は煙草吸うから、斑月の隣かな」

「志田は?」

「推しのライバーのライブ見るから来ないって。ていうか連絡取り合いなよ」

「黒影氏が一番マメだから」そう言って、紅島は斑月の隣に座った。「おつ」

「うっす」

 彼らを隣同士にさせてみたけれど、これといった変化は見られないし、気まずさみたいなものも感じられなかった。

 本当かどうかは分からないが、紅島と斑月は一時期——本当に短い期間、恋人としての関係を結んでいたと、志田から聞いたことがある。だからなのか、彼らが一緒にいる様を見ると、妙な気持ちになることは確かだった。関係が崩れるとか、僕も紅島が好きだったとかそういうのではないのだけれど、踏んではならない地雷が埋め込まれているような気がして、下手なことを言えない空気というか、そんな感じだ。

「なんの話してた? ちゃんと創作論展開してた?」

「してた……よな」

「いやしてない」僕はゆるゆると首を振った。「どっちかっつーとBLよりの会話をしてた」

「詳しく」

「してないだろ」

「斑月は僕のことが好きだったらしい」

「えーうそーマジー? 私、ナマモノも全然行ける」

「お前NLエロ同人作家だろ」

「その過去は捨てました。私は顔が良い女と女の関係性が好きな百合四コマ漫画家です」

「僕ちょっとコーヒー取ってくる。紅島、なんか持って来ようか?」

「私の分頼んだ?」

「もう三つ頼んである」

「じゃあ、コーラ」

 親の敵とでも言わんばかりに吸い殻を灰皿に押しつけて、席を立った。彼らを二人きりにすることにほんの少しの緊張感があったが、今更だろう。そもそも本当に付き合っていたのかも怪しい。志田は結構、他人の関係性に興味を持ちすぎるきらいがある。二人がちょっといい仲だったのを勘違いしたという可能性も、多いにある。

 ドリンクバーでコーラとコーヒーを注いで、ついでに人間観察力を発揮してみる。趣味と聞かれて人間観察ですと答えるほど愚かではないが、ファミレスや駅のホーム、ショッピングモールなんかでは、よく他人の姿形を観察する。これが人生において何かの役に立つのかと言えばそんなことはないが、結構、流行や現代を知るのには最も優れた行為だと思っている。服装だったり、アイテムだったり、髪型だったり。もちろん、いつの時代も奇抜な格好をしている者は多くいるが、十人、二十人くらい見れば、大体の時代は判別出来る。そうすることで、僕は多分、普通ってなんなのかを判別しようとしている。

 深夜三時にファミレスにいる層は、お一人様のサラリーマン、金を持っていそうなおっさんと露出の多いおばさん、大学生らしき集団、必死に何らかの課題をこなす女子大生あるいはOLくらいのものだった。お一人様のサラリーマンは、酒とつまみを広げながら、スマートフォンをいじっている。金を持っていそうなおっさんとおばさんは、四人席でわざわざ隣同士に座り、くだらない話をしている様子だった。しかし、テーブルの上には財布とスマートフォンが置かれている。大学生らしき集団は、四人全員、スマートフォンを見つめながら会話している。課題をこなす女性は、スマートフォンこそ見ていないが、そこから伸びるイヤホンは耳に繋がっていた。

 それが現代。

 僕は別に、この光景を奇異とは思わない。電車の中で、乗客の九割以上がスマートフォンを眺めていたとしても、それが異常だとは思わない。現代では、それが正常だ。一昔前、みんなが新聞を読んでいたように、時代によって正常か異常かの判断は変化する。

 それが普通?

 じゃあ、モラルは?

 席に戻り、紅島にコーラを渡した。二人は何か話していたんだろうか。創作論か、僕の話か、志田の話か、それとも二人の関係についての話か——邪推しても仕方がないし、面と向かって聞きたくなるほど興味があるわけでもなかった。僕は深くソファに腰掛けて、手持ち無沙汰になって煙草を取り出した。

「んじゃ乾杯」

「おつ」

「お疲れ様」

 メンバーが集まったところで、別段話題があるわけでもない。斑月は専業同人作家で、紅島は兼業同人作家で、僕は——なんだろう。フリーター、が今一番正しい役職かもしれない。別になんだっていいし、どうだっていいけれど、なんだか切ない気がするのも事実だ。

「最近どう、斑月」

「漫画、描いてねえな」

「それは私も一緒。仕事が忙しくて」

「でも次のイベントは出るんだろ」

「私は出るけど、新刊が出るかは謎」

「謎、じゃあないんだよ。出せよ」

「正直さあ」紅島は深く溜息を吐いた。「役職がついたんだけど、これ言ったっけ」

「聞いてない」

「俺も」

「そっか。志田に言ったんだっけな……役職ついたんだよね。課長とかじゃないけど、主任、みたいな。二十九歳の女社員にしては、まあ順当かな、くらいの」

「やるじゃん」

「おめでとう紅島」

「まあ……ありがとね。ありがたいんだけどさ、手当ても付いて、まあ仕事量も増えたんだけど、全然今まで通りにこなせる作業量だからいいんだけど、精神的な疲れというか……色々考えちゃうよね、いつまで私、創作活動するんだろう、みたいな」

「一生だろ」と、斑月は間髪入れずに言った。「趣味ってそういうもんだろ」

「いやでも結構ね……そもそももうアラサーだし、結婚は? みたいなこともね、一応、考えたりもするんだけどさ……そんなことしたら、絶対しなくなるじゃん、イベント参加とか。子どもとか出来たら、もう絶望的じゃない? もちろん、理解ある人と結婚すれば、出来るんだろうけど」

 僕はこの話題には、なんとなく反応しづらかった。こういう時、煙草は便利だとつくづく思う。毒を吸っているだけで、その場に居る意味が生まれるのだから。百害に対する一利だが、気まずさを回避するという意味では、十分な利益だ。

「まあ……そう、だなあ。確かに、男の俺らより、深刻かもな、お前の場合」

「別に結婚しなくてもいいんだけどさ。考えはするよね。女の幸せに正解があるとも思わないし、私、そこまで他人に依存しないから、一人の方が気楽でいいんだけど。ほら、私、母子家庭じゃん」

「いや知らねえ」

「僕も知らねえわ」

「言ってなかったっけ? これも志田にしか話してなかったのかな……」

 まあ別に、仲良し四人組の中で、特定の二人がさらに仲良しであることに異論はない。かくいう僕だって、斑月にしか見せてない僕を持っているし、きっと斑月もそうだ。だが、それをこんなに無防備に展開してくる紅島には、違和感があった。

「……あれ、紅島、酔ってる?」僕はなんとなく尋ねてみた。真意を得たわけでもないし、鎌を掛けたつもりでもなく、ただ口から出た言葉だった。「飲み会とかだった? 今日」

「んー……多少」

「あー、服装がオシャレだと思ったんだよ」

「マジぃ? 黒影氏、結構ちゃんと見てるんだねえ。そう、合コンでしたよ、今日。二十六歳の子と、二十一歳の子と、私っていう、もう勝ち目のない戦に行ってきましたよ。当然お持ち帰りはされませんでしたとも、ええ」

「よく来たな、この時間に」

「仮眠してきたけどね。合コン終わって、十一時くらいに家ついて、ちょっと寝て、出て来た」

「志田は推しに投げ銭してるってのに、真面目だな、お前。相手俺らだぞ」

「そうー……真面目なんだよ私は」

 創作論どころか、アラサーオタクのお悩み相談会みたいな感じになりそうだ。かと言って、それを押しのけてまでしたい話もないし、どうするべきか悩んで斑月に視線を送ると、彼も同じような目を僕に向けていた。真意はともかく、噂をされるくらいの存在なのだから、君がなんとかしてくれ。元彼氏。

「なんか言えよぉ」

「大変なんだあ、紅島は」結局応対したのは斑月だった。「いや、立派だと思うよ。俺はこんな身なりでオタクオタクしながら適当に生きてるのに、お前はちゃんと女子やってて、社会人やってて、オタクやってんだから」

「大変なんだよう……慰めてくれよう……」

 酔ってるというよりは、どちらかと言うと疲弊している感じだった。僕には想像し得ぬ領域だ。日中働いて、空いた時間に創作活動をしたり、ゲームをしたり、アニメを見たり。それでいて現実のイベントごともこなしているのだから。普通だったら耐えられない。

 普通って何?

 耐えられないって、何に?

「斑月がさあ、壁サーの王になって私を養ってくれよ。神絵師になってくれ」

「神絵師は儲からないだろ、多分」

「儲からないの?」僕が尋ねた。「神様なのに?」

「ゴッホが儲かったか?」

「時代の違いでしょ」

「ていうか神絵師って本当に実在すんのか? 現実世界の神様みたいなもんで、本当はそんなもんいないんじゃないか?」

「今一番神絵師に近い存在って誰だろうね。私も考えたことなかったけど」

「誰だろう。尾田栄一郎先生とか?」

「あれは……漫画家だろ」

「神漫画家か」

「普通に漫画家でいいと思うぞ」

「鳥山明先生とかかな」

「まあ漫画を主とするかどうかで呼び名が変わるってのもおかしな話だし、漫画も絵だからそれも一理あるけど、なんかイメージと違うんだよな……神絵師っていうミームは、一体なんなんだろうな。みんな何を目指して絵を描いているんだろうか。明確な目標って、あるのか?」

「私は新刊を完売したい」

「それは技術力とは関係しない話だろ。ただ少なめに刷れば、完売するんじゃないか」

「確かにい」

「闇夜はどう思う」

「僕? 僕に絵の話振られても困るんだけど……そうね、一時期のピクシブランカーになりたいとか、そういうのと同じようなもんだとは思うけど、今はちょっと違うのかな……知名度が数値化出来ないし。あくまでも僕の中での考え方だけど、神絵師っていうのは、様々な絵描きたちから認知されていて、憧れられていて、企業からも認識されていて、イラストだけで飯を食って、尚且つ裕福な人間を指すんじゃないのかな」

「やっぱそんな人間いねえよ」

「そりゃ神だからね」

 斑月は僕の答えにあまり納得行っていない様子だったけれど、紅島はなるほどね、とでも言いたげに頷いていた。僕らが——僕は文章畑の人間だけれど——目指しているのは、何か途方もない、完璧超人みたいなもので、それに到達してようやく、絵描きは満足出来ると考えているのかもしれない。いや、そもそも——

「いとうのいじ先生って神絵師?」

「ん? んー……どうだろうな。分類してもいい気もするし、違う気もする」

「金子一馬先生は?」

「誰?」

「金子一馬先生も知らないやつが絵描きを名乗るんじゃねえ!」僕は思わず激昂してしまった。「お前はそれでも絵描きか!」

「いや……なんか……すまん」

「メガテンの人でしょ?」と、紅島が言う。「神絵師っていうより……なんだろう、殿上人だよね。あきまん先生とかさ」

「雲の上の存在ってこと?」

「多分、若い子たちとか、私たち世代が憧れてる神絵師って、そういうものじゃないんじゃないかな。金子先生とかって、結局、ゲーム会社のデザイナーとかイラストレーターだったよね? 確か。そういう、会社に入って仕事をして絵を描く、っていう存在になりたいんじゃなくて、自分の好きな絵を描いて、それが勝手に認められて、自動的に依頼が来るような存在になりたいってことでしょ」

 言葉だけを見れば辛辣そのものだったが、紅島の口調からは、その意図は感じられなかった。まあ、確かに——僕だって、出来ることなら、アップロードした創作物に対して、狂信的な反応を受けて、即書籍化したいものだ。だけど残念ながら、僕は天才でもないし、秀才でもない。売り込まなければ、何も得られない。なのに売り込むことすらしていないのだから、そりゃあ、何者にもなれなくて当然だ。就職だって、履歴書を出すから面接を受けられるのだ。

「耳が痛いけど、紅島の言う通りだな。多分、俺もそうだ。俺も、同人誌書いて、人気者になって、いつの間にか横の繋がりで仕事が貰いたいんだろうな。でも、そんなことそうそう起こらないし……いや、紅島は起こったか」

 と、自分で振るなと言っておきながら、斑月は例の四コマについての話を切り出した。

「ああ、あれ? まあねー……運が良かったけど、別に何にも続かなかったよね。一年くらいしか持たなかったし。結局、力がないんだよ、私たちには。生産力というか、想像力というか。好きなことを好きなようにしか出来ない人間だから、仕事として続けられない。偉そうに言ってごめんって感じだけど、働いたことのない人には、その辺の責任感とか、必要な能力とかって、分からないんじゃないかな。若い子たちは、分からなくて当然だし、別にそれが偉いとか言うつもりもないけどさ」

 僕も斑月も耳が痛かった。そういう面倒事とか、現実感みたいなのから逃避して、それを除いても尚求められる神絵師という存在に、僕たちはなりたいんだろう。僕は文章だから、なんだろう。神作家だろうか。そんな存在、聞いたこともないが。

「なんか……落ち込んできた、俺」

「斑月は漫画描くしかないでしょ。どっちにせよ大成しないとしても、描かないよりマシだよ、絶対」

「まあ、描かないと飯食えないしな、俺」

「黒影氏も書かないと」

「書きたいのは山々なんだけど、書けないんだよな、僕は。午前三時に書き終えたものが、寝て起きて夕方読み返すと、白けて映る。こんなもの、小説でもなんでもない、ただの文章の羅列だって思うんだ。だから長い話が書けなくなってきた」

「目が肥えたんでしょ。それか自尊心が育っちゃったんだね」

「紅島は臆面もなく痛いこと言うよね」

「ちょっと俺トイレ」

 言って、斑月がグラスを手に持つ。紅島が席を立って、彼を通した。

「胃でも痛くなったのかな」

「斑月も情緒不安定なところあるからね。僕ほどじゃないにせよ」

「黒影氏もでもさ、アラサーなんだし、そろそろ決断すれば? 意外とあるよ、働き手。キーボード打つの得意なんだし、プログラマとかさ」

「僕は作家になれなかったら、このまま朽ちていくよ。風化したい」

「あと五年もしたらそんなこと言ってられなくなるよ。ご両親もいるでしょ」

「うーん……そう、ね。一人っ子だし、親父も再来年あたりで定年かな。どうしようか、僕……あ、鬱になってきた」

「小説を書いて賞を取って本を出す。それでいいんじゃない?」

「シンプルなのが一番キツイんだよ」

 考えないようにしているだけで、頭にないわけじゃない。そもそも僕は年金だって払っていないし、将来、社会的な地位を脅かされることは確実だ。いつまでもだらだらとやっているべきじゃないし、日雇いのバイトなんかしていないで、コンビニバイトでもいいからちゃんと働いて、まとまった金くらい作っておくべきなのだ。貯金もないし、資産もない。付き合いのある親族もいない。この創作家たちの集まりがなかったら、僕は本当に孤独だ。インターネット上とは違う。もしインターネットがなかったら、僕は毎日、気が狂いそうな日々を送ることになる。

 分かってはいるんだ。

 飲みに行く友人も、発狂しそうで苦しい夜に相談に乗ってくれる友人もいない。僕には、本当に何もない。何もないって分かっているのに、仮想世界の集団に依存して、一体どうするって言うんだ。リアルは、現実は、現在は——僕はまるで、ここにいてはいけないみたいだ。

「虚空見つめてるよ、黒影氏」

「ヤバイヤバイ。鬱になるとこだった」

「実際、書いてないの? 本当に創作出来なくなったんなら、諦めるのも手じゃないかな。別にこんなの、一過性の夢みたいなもんだと思うよ、私。正直、最近はもう、モチベが下がっててさ」

「マジか」

「マジマジ。だってさあ……もう、不思議なことに、毎年のように歳を取るじゃない? 私たち」

「やっぱり? 僕も薄々そう思ってた」

「二十代はおろか、十代で活躍する絵描きの子とかいるわけ。学生で。そういうの見てて、感覚とか、育った環境とか、時代とかも全然違ってて、この群れの中で戦って行くのはもう辛いっていうか……恥ずかしいっていう感覚? あるんだよね」

「恥ずかしい、か。それはちょっと僕には分からないな」

「大人じゃない、もう。一端に社会人やってて、辞令を受けて、それでも学生の頃と同じことやってるってさ。別に漫画描いたりイベントに参加するのに年齢制限があるとは思わないけど、もう私はおばさんで、斑月や黒影氏は立派なおじさんなわけで」

「確かにね。おまけに僕は無職ときてる」

「もういいかな、って。全部ばっさり辞めるってわけじゃないけど、受け手に回る? ていうか、比重を変えないといけないかなとは思うんだよね。日常生活に支障を来すレベルで頑張って本を出して、別に利益になるわけでもなくて。楽しいからやってるんだけど、このままじゃ嫌いになりそう」

 紅島の叫びは悲痛だった。しかしその苦悩は、実のところ、僕には分からないものだった。僕は多分、紅島のように、同年代と過ごしたり、会社に行ったりしていないから、相対的な自分を客観視出来ていないのだろう。いや、目を背けているんだ。僕は僕として、絶対的な存在としてここに在って、だからどうなったところで、僕が変わることはない。やりたいこともやりたくないことも普遍的で、それだけやっていればいいんだって、毎日毎日を消費している。

 本当にそれでいいのか。

 いいに決まってる。

 そうとでも思わなきゃ、僕は、生きてちゃいけない存在になっちゃう。

「黒影氏? 鬱になった?」

「割と。三割くらいは鬱出たよ」

「ヤバイじゃん。この話やめよっか」

「何の話やめるって?」

 斑月が帰ってきて、今度は紅島が奥に詰めた。彼は胃に優しそうな温かい飲み物も持って来ていた。本当に胃が痛くなったんだろうか。考え過ぎだろうか。

「将来どうするかって話」

「ああ、じゃあ本当にその話はやめといた方がいいな。俺も闇夜も多分明日から何もしなくなっちゃうから」

「男勢は心が弱いなあ」

「すぐ心が折れるんだよ。なあ?」

「過呼吸になりそう」僕は言って、薬に手を伸ばすように、煙草を持った。「平穏無事に暮らしたい」

「そうも言ってられない日が……って言おうとしたけど、やめとこっか。暗い話ばっかしててもしょうがないし。もうちょっと建設的な話ないの?」

「創作と鬱は紙一重だからね」僕は煙草に火を付けて、やっと精神が安定する。「何か作ろうって話には、必ず本当にそんなことやっていていいのかっていう気持ちがついてくるんだ」

「面倒くさいんだけどこいつ」

「俺もそう思う」

「いやでも実際、本腰入れてなんか作品を作ろうと思うってことは、少なからず人生を犠牲にするってことじゃないか。僕だったら……いや犠牲にするものなんてないのかもしれないけどさ」

「じゃあいいじゃん」

「いや、闇夜が言ってるのは、将来の予定を埋めるのが辛いってことだよ」

「はあ?」

「その通りだよ斑月。君は僕のことを本当によく分かってる」と、僕は深く頷いた。「一度何かを書くと決めたら、それを書き続けなきゃならない。その状態が僕には既に重荷になるんだ。正直言えば、こうやって数ヶ月に一回、午前三時に集まるっていうのも、今となっては生活の一部になっているからまあ耐えられるけど、最初の頃は行くの面倒くさいっていう気持ちになったものだよ」

「どれだけ面倒な人生を送ってるの」

「僕が聞きたいくらいだ」

 僕だって、出来ることなら普通になりたい。

 普通に学校生活を送って、普通に恋愛をして、普通に漫画を読んで、普通にゲームをして、普通に交際して、普通にキスをして、普通に手を繋いで、普通に初体験をして、普通に受験戦争に身を投じて、普通に大学生になって、普通に一人暮らしをして、普通にバイトをして、普通に友達と遊んで、普通に運転免許を取って、普通にドライブして、普通に夏休みを過ごして、普通に旅行に出掛けて、普通に失恋して、普通に飲み明かして、普通に酔っ払って、普通に失敗して、普通に遊んで、普通にモラトリアムに陥って、普通に卒論書いて、普通に就活して、普通に就職して、普通に働いて、普通にまた恋愛をして、普通にまた交際をして、普通に結婚して、普通に結婚式を挙げて、普通に子どもに恵まれて、普通に——気が狂うくらい普通に、過ごしたかった。

 どこで間違えたんだろう。

 どこで普通じゃなくなったんだろう。

 小説を読んだから?

 小説を書いたから?

 とんでもない物語や、とんでもない人生や、とんでもなく普通じゃない考え方が芽生えてしまったから?

 それとも、生まれつき?

 普通って何?

 普通の人って、何か書いたり描いたり、歌ったり造ったり、するの?

 普通の人って、インターネットするの?

「大丈夫か、闇夜」

「大丈夫じゃない。鬱」

「どうしたの、彼は」

「闇夜は鬱になった。それだけだ。放っておけば治る」

「治らないよ」僕はちょっと語気を強めて言った。「僕は治らない。でも、しばらくしたら、治まる」

「年齢と共に激化してるわけ? 黒影氏は」

「こいつのは、生まれつきだよ」

 僕は煙草を何度も噴かした。灰に煙が入ると落ち着く。思考速度が鈍って、どんどんどうでもよくなってくる。酒が入ればもっとどうでもよくなれる。そうしてこうした鬱屈とした感情とオサラバ出来ればそれでいい。どうしてこんなことになったのかなんて考えなくて良い。夢なんか見なきゃ良かったと思わなくて良い。どうして、普通じゃない人生を歩もうとした僕が、普通じゃないことにこんなにも苦しむ必要があるんだろう。僕の努力が足りなかったから、僕の決意が甘かったから、僕の覚悟が不完全だったから、こんなことになっているだけなのに。僕は、何になりたかったんだろう。普通の人になりたかったんだろうか。普通になったこともないのに。普通の生活をしていれば、こんなに苦しむこともなかったんだろうか。いや、普通になったらなったで、きっと普通じゃない生活に憧れるんだろう。僕は多分、一生掛かっても、落ち着かない、安定しないで、ないものねだりばっかりで、ずっと恨み続ける。

 人生や。

 世界や。

 他人を。

 妬み続ける。

「斑月、お酒が飲みたい」

「飲め。よし、ビール頼もう」

「いやいやいや、完全にアル中のヘビースモーカーじゃん。大丈夫なの、飲ませて」

「大丈夫だよ。闇夜はこれでいい」

「何、これでいいって……」

 斑月が呼び鈴を押した。すぐに店員がやってくる。斑月は、慣れた様子で、生中を一つと、ソーセージの盛り合わせを頼んだ。僕はその間、ずっと鬱屈としていた。鬱屈としながら、その光景を他人事のように眺めていた。実際他人事なのだけれど、世界とは離れた場所で、俯瞰しているような気分だった。

「彼、前に会った時もこんなだったっけ」

「いや、多分、今は結構スランプなんだろうな。最近何も更新してないし」斑月は頬杖をついて、僕を眺める。「俺は結構個人的にこいつと会ってるから、慣れたけど」

「聞いてるけど……そんなに頻繁に?」

「こいつが発狂したら家まで行って一緒に酒を飲んでる」

「ホモじゃん」

「軽々しくホモとか口にするなよ、公の場で」

「すみませんでした……」

「闇夜は書けない書けない言いながら毎日なんか書いてるんだけど、本当に書けなくなると、こうなってくるんだ。多分、もう、小説に振り切っちゃったんだろうな、人生を。でも苦悩とかを上手く口に出せなくないから、普段は結構飄々としているように見える。で、それが溜まって、消化出来なくなると、今みたいに虚空を見つめて活動停止する。しばらくすると、よく喋る」

「おお……ヤバイヤツだ。旧知の仲じゃなかったら付き合い方を考えるレベルに」

「闇夜は本物だからな」

「だから何、本物って」

「本物の創作家。ネイティブクリエイター」

「よくわかんない」

「俺たちってさ、紅島が百パーセントそうかは知らないけど、創作物を見て育っただろ。漫画とか、イラストとか、それこそインターネット上の創作物とか。誰かが絵を描いてるのを見て、その絵を見て、俺も描いてみよう、っていう感じだと思うんだ。同人誌だって、ネット上で活動してる人たちを見て、俺もその中に加わりたいっていうような気持ちで始めた部分が大きい。違うか?」

「いや、全くその通り。でも最初はそうやって入るでしょ、みんな。本屋で漫画読んで、漫画描こうってなるでしょ、普通」

「闇夜は元々詩人でな」

「詩人! けったいな言葉が出て来たね」

「まあ詩人って言うか、俺も上手くは説明出来ないんだけど……」

 やっとビールが運ばれて来た。ソーセージには見向きもせずに、僕はジョッキを掴んで、ぐっと飲み込む。急いで煙草にも火を付けた。思い切り煙を吸い込む。そしてまたビールを煽った。二口で、ジョッキが半分なくなった。おかげで僕の思考回路は鈍って、少しだけ現実に戻って来た。

「あれヤバイヤツの行動だよ斑月」

「紅島や志田の前じゃ結構抑えてたから、初めて見たら引くよな。俺は慣れたから平気だけど。多分、スランプ気味なところに来て、紅島のアラサー話で火が付いたんだろ、今日は」

「私のせい?」

「いや、紅島のせいじゃないよ」やっと僕は口を開くことが出来た。「ごめん、抑えようとは思ったんだけど、グルグルし始めちゃって、どうにも耐えきれなくなってしまった。本当に申し訳ない」

「いや……いいんだけど、大丈夫?」

「大丈夫。いつものことだから。自分を客観視すると、今やってるのがヤバイ行動ってのも理解してる。でも、長年付き合ってきて、こうするのが一番早く治まるって分かってるんだ。ごめんね、気持ち悪いと思うんだけど、多分あと数分で治まると思う」

「長年って……どんくらいこうなの」

「出会った時からだよ」と、斑月は言った。「まさか公の場で発狂するとは思わなかったけどな」

「ずっと知ってたんだ、斑月は」

「いや、五年前くらいかな」

「僕自身はずっとこうだったんだけど、若い頃はここまでひどくなかったんだ。そりゃあ、未来ある若者だったから、なんとかなるだろう、っていう気持ちが強くて、鬱になってもしばらく考えてたら楽観的になれたんだ。鬱ですらない。ちょっと気持ちが落ち込んだとか、そういう、ただそれだけのことだったんだ。でも、いつの間にかそれが長引くようになって、寝付けない夜みたいなもんでさ、布団に入っても悶々として色々考えて眠れないみたいに、何をしててもずっと鬱屈とした思考がついて回るんだ。それが、煙草を吸ったり、酒を飲んだりすると、落ち着くってことを教わって、そうしてるんだ」

「……」

「まあ、引くのは分かる」

「別に引いてはいないよ。ただ、驚いただけ。そういう人なら、それでいい」

「無理してくれなくてもいいよ。傷付かないし。それに、僕だって、自分のことを、普通じゃないって思ってる」

「……ていうか、普通って何?」

 紅島の言葉は、僕がよく考える言葉と同じだった。けれど、言葉自体は同じでも、それが持つ意味は全く別のように思えた。

「黒影氏が普通じゃないとして、じゃあ私は普通? 違うよ。私だって、普通じゃない。来年三十路なのに結婚どころか恋人もいないし、同人活動なんかしてるし。絶対普通じゃない。普通のOLじゃない。普通のOLは、午前三時に、オタク二人に会いに来ない」

「俺だって普通じゃないよ。普通のやつは、今頃会社でもそれなりの地位にいるんじゃないか。順当に行けば、三十歳なんて、部下が何人もいて不思議じゃない。それで平気でいられるのだって、多分普通の神経じゃない」

「黒影氏のそれは、もしかしたら『普通じゃない』レベルじゃなくて、異常かもしれないけど……別にいいんじゃない。そうやって自分で対処出来てるんだし、誰に迷惑掛けてるわけでもない」

「俺は迷惑被ってるけどな」

「話の腰を折らないで」

「すいません」

「別に私は引かない。ていうか納得した。そっか、黒影氏、だからあんなに綺麗な話が書けるんだね」

 ようやく、というか、今日になって初めて、創作論らしい話になったな、という気持ちを、どこか遠い場所で認識したような気分だった。綺麗な話……そんなことを思っていつも書いているわけではないけれど、僕の作品に対する評価は、それが多い。綺麗、美しい、澄んでいる、そんな評価——そういうものを書こうと思って書いているわけではない。でも確かに、僕が書いている作品の中で、公開に踏み切った作品というものは、自分の中でのラインを越えたものだけだ。それらはきっと、綺麗なんだろう。僕が許した作品は、きっと美しく映るんだろう。

「斑月が言ってた、ネイティブクリエイターって、そういうこと?」

「ああ、多分それに近いと思う」

「詩人って言うのは大袈裟だけど、僕は元々、そういうフォーマットすら知らない頃から、思ったことを言葉にしてて、詩みたいなものとか、小説みたいなもの書いてたんだ。そうすることで、逃避してた。小さい頃からあったんだよ、こういう鬱屈とした瞬間が。それを言葉にして吐き出すと、なんとか楽になれた。誰かが読むわけでもないのに、それを言語化して、名前を付けてやると、一瞬気が楽になる。で、忘れられたんだ」

「最初っからなんか書いてたのね、黒影闇夜っていう人間は」

「うん。それがずっと後になって、詩だったり、小説だったり、随筆だったりっていう言葉があることを知って、また安心した。こんな気持ちを抱いているのは僕だけじゃないんだって」

 僕はまたビールを口にした。思考回路が鈍って、思考速度が低下して、それはやっと言語化されていく。暴走する感情に名前が付けば、安心出来る。理由が分かれば、落ち着ける。特に名前のない感情こそが、僕には怖ろしい。

「僕はそうやって過ごして来たけど、今度はそれが重荷になってきた。小説を書くっていう大義名分を得て、そうやって日々の恐怖を文章にして生きて行けるなら、僕にはそれ以外生き方がないって思った。でも、実は僕は、日雇いのバイトをしながら、ただ日常を浪費しているだけでも、生命としての活動を全う出来るってことにも気付いてしまった。そうしたらなんか、もう、どうしたらいいのか分からなくなってきて、じゃあ僕が創作をする意味ってなんだ? そういう、固定概念かされたフォーマットに閉じ込めないと、価値がないのか? とか、そういうこと考えてるうちに、どんどん暗くなって、今ここにいる」

「……どうしようか」紅島が言う。「斑月、これは、いつもの黒影氏?」

「いつも通りだ」

「どうやって終わるの、これ」

「放っておけばいい。今闇夜がやってるのは、小説を書く作業と同じだよ。気持ちを言葉にして、安心してる。それが終われば、終わる」

「はー……斑月、あんた結構、我慢強いんだね。これにいつも付き合ってるわけだから。私一旦離脱する。コーラ取ってくる」

「俺取ってくるぞ」

「いやいい、トイレも行くから」

 斑月を押しのけて、紅島は席を立った。僕は吸い終えた煙草を灰皿に押しつけて、またすぐに新しい煙草に火を付けた。

「ごめん」

「いやいいよ、いつものことだ」

「斑月だけだ、僕を分かってくれるのは」

「さっきは気持ち悪いとか言われたけどな。BLだとか」

「悪いと思ってるよ」

「でもまあ、闇夜はそれでいいと思う。世界が普通のヤツばっかじゃつまらないし。闇夜は普通じゃないよ。でもそれって特別ってことだろ? 胸を張れとは言わないけど、一人くらいいないとな、そういう人間が。道化でも、演者でもなく、正真正銘おかしいやつが、一人くらい」

「僕は普通になりたい」

「だから、普通ってなんだよ」

 結局正解は分からない。

 もしかしたら、僕の周りには、普通の人間なんていないのかもしれない。誰もが、どこか捩れていて、淀んでいて、曲がっていて、捻くれていて、鈍っていて、燻っていて、焦げていて、褪せていて、欠けていて、壊れていて、飛び出していて、膨らんでいて、緩んでいて、尖っていて、離れていて、締まっていて、萎んでいて、終わっている。みんなそうだ。きっと、誰もが、普通じゃない。ただ、それを演じられるだけの機能が、どこかに備わっていて、その目に見えない普通を想像出来る力が、標準的に備わっている。

 神絵師って誰だ、っていう疑問と、それはもしかしたら同じなのかもしれない。モラルってなんだ、っていう疑問と、それはもしかしたら同じなのかもしれない。本当はそんなものの定義はどこにもなくて、なんとなくみんなが想像する『それら』を、共通的に認識して、座標みたいに存在する『それら』を僕らは信仰して、見つめていて、『それら』になれるように形を変えようとしているに過ぎないのかもしれない。多分、そんなものいない。まやかしに過ぎない。どこにもなくて、普遍的に、どこかに存在しているように見えているだけだ。僕が捕らわれている普通はどこにもなくて、けどみんなの視線の先にだけ、多分、ある。

「普通って言うのは」

 僕は考える。でも、考え過ぎると思考がオーバーヒートする。だからビールを飲み干した。煙草を吸った。思考がゆっくりになる。言葉に直る頻度が下がる。そして少しずつ、平均的な言葉が生まれてくる。ああ、じゃあ、綺麗ってこういうことだ。誰もが見たことのある、でも誰もなれないものが、美しい。神絵師がそうであるように、普通がそうであるように、僕が追い求める普遍的な存在がそうであるように、誰も到達出来ないけれど、誰もが見ている視線の先にだけあるその存在が、きっと美しい。

「普通って言うのは、きっと、綺麗なことなんじゃないか」

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