第9話 終わり



 異性に対する好きの終着点は告白であると、青いまひるは考える。

 どうしようもない高まりは、言葉になって溢れるもの。想像していたばかりのそれを、実体験で彼は理解した。

 そう、偶に出会った朝茶子と公園で会話を楽しんでいた時に、まひるは零したのだ。貴女が好きです、と。

 気持ちの篭もった吐息のような声色を聞いて、さしもの停滞少女も少年の想いを知る。赤ら顔の前で、綺麗なものが困惑に歪んだ。


「えっと、好き? それって……」

「恋愛としての好き、ですよ朝子さん」

「うーん……嬉しいけど……」


 こうなっては仕方がないと、腹をくくったまひるに対して、朝茶子はそわそわと慌てた。それは、別段彼女が告白を受け慣れていないから、という訳ではない。ただ、この子にどう断りの言葉を入れるべきか悩んでいるからだった。

 まだまだ日は陰らない。下らない大切なものが克明である今。壊れ物を繋げた綺麗の指を動かしながら、朝茶子は言う。


「あんまり、いやらしいことはしたくないな」

「え?」


 朝茶子は彼の告白が成就したその続きを思って、少し嫌な顔をした。全く、彼女を汚すことなど考えていなかったまひるはその言葉を理解して、ぼっと紅くなる。

 そして、まひるは下から朝茶子の笑みを見た。少年は、年上の彼女にからかわれたのだと勘違いして、口を尖らせて言う。彼女の微笑みが、己を嗤うものと知らず。


「いや、そんな。そんなことは考えていませんよ! そこまでこう……先走ってはいません」

「でも、男の人と女の人が手を取り合っていれば、何時かはそこにたどり着くよね?」

「……そう、ですね」


 何、好きな人にいやらしさの当たり前を聞かなければならないのか。どうにもまひるにとってはむず痒いことだった。そも、こんな美しい人の口から生々しさが転がり出てくるなんておかしいが。

 そう、彼の思い通りにおかしいのだ。朝茶子は、汚い物と綺麗なものの違いがあまり分からないのに。いや、それにそもそも。


「あたしはね。恋愛が分かんないんだ。そこに価値を見いだせないの」

「え?」


 まひるは、朝茶子の浅薄なほどの真っ白さを甘く見ていた。

 太陽の光を誰より浴びそれをそのまま返しているだろう白。それが面の色ではなく心の無染色から来ているとは。

 驚くまひるに、朝茶子はカートゥーンの交わりを続ける。


「みんなどうしてか持て囃すけれど。でも、恋愛ってつまり助走だよね。えいや、って飛び越えて良いくらいの」


 隣で鉄パイプの柵に載せていたお尻を持ち上げ、少女はぴょんとまひるから離れた。思わず、彼は顔を天へ向ける。

 青空の雲はうねりによって姿を奇妙に変えていく。それに心を相似させてしまっているまひるは、言う。


「そんなこと……いや、一緒に歩むそれこそが大切でしょう?」

「ううん。あたしにはどうしても、それが大切には思えないんだ」


 頭を振る、少女の綺麗がまひるには理解できない。どうして、この人は笑っているのだろう。

 そんなにもまっ更に、情動を無視できるのか。何故、朝茶子は人と手と手を取り合う未来を諦めていられるのだろう。

 認めてばかりいる、普通のファインダーたる少年にはそれが分からなかった。


「ねえ。どうして人は、恋をしなければいけないの?」


 恋愛の必要性を問う。それほどまでに、朝茶子はピュアだった。

 少女は恋に、落ちて汚れた試しがない。

 代わりに別件でずっぷりと、紅に穢れたことはあったのだが。


「そんなものなくたって、人は人を、犯せるよ?」


 だからそう、朝茶子は口走るのだった。

 陶磁器の身体のラインの価値を気にもせずに、生温かな言葉を女は転がす。


「結局物と物の付き合いなら、擦れ合うのが当たり前だもんね。そして、それが生物のものであるなら、くっつくために液体で塗れ合うのが自然だから。ちょっと、恋愛ってばっちいなって思っちゃう」


 粘液って、なんか気持ち悪いよね、という朝茶子の言。しかしまひるには彼女のその言葉こそが気持ち悪かった。

 何を察しているのか、どうせそれを行ったこともないだろうに、人の快の素晴らしさをどうしてそんなに嫌がるのか。

 いやらしくなんてない。だって、それを求めることこそが愛の本質なのに。互いを温めて繋げ合うことこそ、生き物だ。

 そんな当たり前を考え、しかしと少年は迷う。もし人が泥より出来ていたら、綺麗を音色としてぶつけ合い、お互いを台無しにしてしまうような愛し方もあったのではないかと、血迷った。

 くっつかずにただ、損ね合う愛。そんなものの存在を彼は薄々と察した。

 からりと、何一つ汁気が伺い取れない静物は、混乱するまひるに、問いかける。


「まひる君は、そうしたいの?」

「ボクは……」


 本当は、即答したかった。何せ、目の前の綺麗と交わることはきっと埒外の幸せ。

 どうしてかそれを考えたことはなかったが、深みに嵌まれば互いに内へと導きあうようなこともあるに決まっている。

 人同士ならば、それで然り。けれども、まひるは思う。

 目の前の女の人が純潔を望むのならばそれでもいいじゃないか、と。別に、自分は排泄器官への刺激を求めてばかりの人間ではないのだから、と己を曲げて。


「朝子さんを汚したくない」


 だから、彼はそう言った。僅かで下手な文句。そんな可愛らしさに、彼女は笑う。


「あは」


 零す、零れ落ちる。嬉しさに、甲高い音を立てて心には罅が入った。

 そして、白の下から真っ赤が覗く。真っ赤な舌をぺろりと出してから、朝茶子は述べるのだ。


「私はとっても汚れているんだよ?」


 くるり、と少女はその場で回る。周囲は巡り巡って線となびく。その中にいつの間にか、幼子とおじさんが紛れ込んでいたような気がするが、朝茶子にとってそんなことは些事。

 どうでも良いように、彼女は言うのだった。


「私は人殺し」


 ピタリと止まって、お終い。そう、朝茶子はお終いになっている現時点を語った。

 認めたくないけれど、認めさせられたそんな事実。あれと、どうしようもない人間は、そこで湿潤を覚える。


「あはは……あたし、泣いてる」

「そんな」


 少年は歯噛みする。

 終わっていたものは、守れない。何をしようとただ、終焉が目の前で流れていくばかり。

 さらさらと、陶磁の器は砂と消える。

 その後には、悲しみに顔をぐちゃぐちゃにした一人の少女がうずくまっていた。



 生きるということは、ただ意識があるだけの状態ではないと小さな頃の朝茶子は思っていた。生は推移であり、変化と反復を交えた動きの総称だと幼き少女は考えていたのである。

 つまるところ、朝茶子にとっては世界の多動が生々しいものに映るのだった。太陽活動ですら命の輝きで、小石の転がりにすら意味がある。


「お空、すっごいなあ」


 だから少女が空を見上げることは、生き物の腹を覗く行為と似ていた。まるで大いなるもののダイナミックな生命活動。朝茶子にとって風のそよぎは空の優しさで、雲は蠢く何かだ。見せつけてくるその偉大に、どうにもその下に転がっているだけの彼女はこのままで良いのかと悩むのだった。

 おもむろに頬を両手で挟んで、そうして柔らかさを捏ねながら、朝茶子は嘆息するように呟く。


「あたしって、小っちゃいんだねえ……」

「そうだな。どうでも良いくらいに、僕らは小さい」

「あ、真夜(まよ)おにーちゃん!」


 そんな小粒な少女の独り言を拾い上げたのは、彼女の従兄弟である片桐真夜。博覧強記なばかりの足りない青年は、笑顔を転がす完全な未熟である朝茶子を見下げながら、続ける。


「朝茶子は、大きくなりたいのか?」

「うん! あたしはいつかお空みたいに大っきくなって、皆に優しくしてあげたいんだー」

「なるほど、触れ合いに快ばかり抱く子供らしい。朝茶子、お前は知らないんだな」

「なにを?」


 朝茶子が人間のお手本のような見た目の少女であるなら、真夜は陰気の見本であるような青年だった。この世を凡てと諦めて、すっかり心を離している。

 凡ては穢。生来の持ち物ではないその考えが、真夜の胸の内にはぴたりと嵌まっていた。


「触れ合いとは自他共に薄汚れることだ。本当に優しくありたいなら、疾く死んだ方が良い」


 嫌いな自己を認めたくて良くありたがる潔癖症はそんな囀りを見せる。しかし、何も考えていない子は、ただ真っ直ぐに青年を認めて言うのだ。


「汚れるのも、たのしいよ?」

「僕にはとてもではないが、楽しくないな」

「そーかな-?」


 泥んこで遊ぶ少女と、自分の悪心すら憎む青年は違う。通じ合えないことは自然だった。

 しかし、未だ薄片でしかない朝茶子は、それでも当たり前のことを口にすることは出来る。大好きなおにーちゃんに向けて、幼気は呟くのだった。


「ばっちいのって気持ちいいのに」

「そうだな」

「なら……」


 真夜も朝茶子の言を否定はしない。人の擦れ合いは穢れを押しつけ合うものであるが、果たしてそれこそが快楽であるのは間違いなかった。

 いやそも穢れこそが生ならば。汚らしいことこそ正しくて、清廉であることこそおかしいのだろう。

 だがしかし。


「僕はね。気持ちいいのが気持ち悪いんだ」


 青年は認めない。気持ちいいからと、異形にて己を慰めることなんてあり得ないと。

 異を認めることこそ愛なのに、それを否定して孤独になる。

 そんな真夜のことが、朝茶子は心配でならなかった。


「ならおにーちゃんは、どうすれば気持ちよくなれるの?」


 打ちのめされてばかりの人生に、心より心配してくれる人間が現れるのは珍しい。

 餓鬼の戯言であると錯覚しながらも、それでも気持ち悪いくらいに嬉しくなってしまった真夜は、素直に本音を口にした。


「殺された時、かな」


 真夜は、とうに結論終わっているが故に、思う。そう、死にたいくらいでは死ねないけれど、それでもきっと、誰かに殺されるほどに思われたなら潔く死ねるだろうと。 

 愛すら苦手な自分なんて、生まれてしまったことこそ間違いだ。だから、嫌われ者らしく、嫌われて亡くなりたいと、真夜は本気で考えていた。

 それを聞いて、朝茶子は笑む。

 変態にて成る蝶に幼き時はない。けれども、かもしたらその幻想は目の前に存在しているのではないだろうか。真夜は胸を嫌気で押さえる。少女のその可憐さは、正しく彼への毒(薬)だった。


「じゃああたし、大きくなったらおにーさんを殺してあげる!」


 そして、そんなことを朝茶子は言う。ころりと、笑いながら。


「そうか」


 真夜は、久しぶりに不格好に微笑んだ。どうせ消えゆく思いやりなんて、笑顔で送ってしまえば良いと思って。


「任せてー」


 だが、覚悟し心に決めた朝茶子は、間違いない。壊れて砕けて、鋭い破片は彼のために。

 だからきっと彼女は、この時より終わってしまったのだろう。


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