第7話 誤差


 美しさは誤差である。そう、夕月は考えていた。

 幼い頃からサテンのドレスの裾を掴みながら、社交の合間に美しく着飾った醜いものをよくよく見てきた少女にとって、美とは表層に過ぎない。

 人の芯はそこにはないのに愛をさらっていくその薄っぺらは、むしろ彼女の白藍色の瞳には邪魔にすら映っていた。


 父は不憫である。母が努めた美麗を底なしと勘違いして結ばれてしまったのだから。

 母も不憫である。父が勤めた大金を底なしと勘違いして結ばれてしまったのだから。

 両方とも、ミリが計る単位に丁度いい、その程度の浅薄だと言うのに。

 そして、当然のように愛情だって無限ではなかった。だから、尽きた二人が別れてしまったのも、至極当たり前のことだったのだろう。

 そんなこんなをトラウマにして、だから少女は一時期自分の面構えすらも忌んでいた。しかし、夕月は何時か本物を知る。


「ワタシはきっと、上等なのでしょう」


 夕月は可憐な少女だ。幼い頃の贅の渦中から抜け出し祖父母の親愛に囲まれるようになり、その溺れるようなスキンシップから離れて一人暮らしになった今も変わらず彼女のレイヤは愛らしい。

 自分が美しいなんてそんなこと、言われ飽きるずっと前から知っている。神が望んだその造作に、手抜かりなんてどこにもなかったというのに。

 けれども、彼女は違うと頭を振るのだった。


「でも、それでも朝茶子様には遠く及びません」


 そっと、夕月は空を見上げる。曇りに塗れて天は暗澹。果たしてその向こうに輝きなんてあるのだろうか。目を開けるばかりの余人には理解できない、絵空の彼方。

 感覚器の拡張なしには覗けもしない遥か遠くに、陽光よりも巨大な炎塊は確かに存在していた。

 それを近くに見てしまった少女は幸か不幸か。想起した眩さに、少女は目を瞑る。そう、夕月は高き天井にて、天蓋を知ったのだ。


「造り、ではありません。そもそもの質が違う」


 それは、位階違いのカオリナイト。純度も白の意味すら異なる、何か。

 夕月の輝きは惹き付ける灯。朝茶子の光は利己をも消し飛ばす日。そんなものを、に見てしまった幼さはどうなったのか。


「なんでワタシはこんなに醜いのだろうと、死にたく、なりました」


 相手が気に入らないバケモノなら良かった。しかし、彼女は愛されるための存在。ミューズですら汚らわしい無垢。とても、うものではない。

 それはそうだろう、何しろ相手は活き《生き》モノでないのだから。生物というよりも血が流れているばかりの静物。愛玩されるための白磁。完成している《終わっている》ものだった。

 動物の斑は生命活動故。いかに生物の中で整っていようとも、そんな代物と並び立ちはしない。

 だが、奇跡的ですら生ぬるい、ひたすらに幽玄でしかない朝茶子は、その中身も生まれたままで終わっていた。変わらずの、白い汚れ知らず。

 だから、生きた人間に感動を残すだけでなく、奇矯な音色を響かせるのだ。

 その時のことを思い出し、胸元を押さえながら、朝焼けと似て非なるものを持つ夕月は語るのだった。


「けれども、朝茶子様は言ってくださったのです。少しくらい汚れていないと生きていられないよ、と」


 磁器と見紛うばかりの至極美しき、白骨屍体。かちかちと、おばけの少女はそんなことを言ったそうだ。


「ワタシには、このお言葉の意味がよく分かります」


 絹に皺が付くくらいに強く、少女は言葉の綾に、感じ入る。程度の差が甚だしくないからこそ、夕月は朝茶子の意図と美しさを理解できた。

 そう、泥を潤滑油とするこの世にて、それ一つまとえない裸の彼女はどれほど。


「死にたいくらいに恐れ入る、ワタシよりも朝茶子さまはよっぽど生きるのが痛かったのですよ」


 それこそ、殺してしまいたくなるくらいには。言の葉の合間に、生まれなかったお終いに対しての敬意と憐れみに、窮屈な笑顔が花のように咲く。

 そんな訳知り顔な少女の言葉なんて、雄三にはとても理解できるものではなかった。



「よーいどん、ってするのあたし嫌いなんだよねー。難しくって」


 生まれながらに書画の静止と変わらない命しか響かせてこなかった朝茶子は、最近の常連さんに向かってそう呟く。

 感情が表立った歪みは艷に、口元に手を当てるその様は絵にしかならない。

 そんな多面の美でしかない代物が中華料理店に鎮座しているある種のシュールレアリスムに、目眩すら覚えながらまひるは返す。


「いやあ……そんなに難しいことかな?」


 まひるは首を捻る。当人の言を信じるならば、朝茶子が入っていたのは陸上部。

 短距離走を専門としていたらしい彼女が、スタートダッシュに難度を感じていたというのは彼にとって不思議だった。

 水泳部を齧っていた程度であるまひるであっても、はじまりに遅れた後悔を覚えようがスタートを嫌うまではなかった。

 しかし、朝茶子は女神のコピーの様子のまま、真面目くさって変てこなことを言うのである。


「だって。皆バラバラに走っても結局同じ距離を走るのに変わりないじゃない。あたし、自分のタイミングで走りたかったなー」


 今度は反対に、まひるは首を傾げた。この、休憩時間だと気安く向かいの席に座ってきたお姉さんは何を言っているのだろう。

 よーいどん、というのは計るための合図。つまり、測定要素がそこにはあるのだ。陸上競技において、いや、そもそも競う物事において比べ合いは当たり前なのに。

 しかし、世間一般の当たり前を朝茶子はまるでどうでも良いように、言う。


「朝子さんは、その。自分のタイムとか順位とか、気にならないの?」

「そんなの気にならなかったなー。世界一位とかなら気持ちいいのかもしれないけど、お家の近くでのナンバーワンはあたしにはピンとこなかったよ」

「なら、どうして朝子さんはわざわざ陸上部に入ってレースに出たのさ」


 まひるがそう零してしまうのも仕方のないことだろう。

 抜きん出ることに快感を覚えるのは人の常。人が人を愛するくらいには、それは当たり前のことの筈なのだ。

 だから、そんな余分は知らないかのように振る舞う朝茶子が彼には不思議だった。

 しかし、最初から動けない、終幕にて遊ぶ少女は言うのだった。


「走るの好きだから! 知らない人と走るのも楽しかったよ! 色んな人が懸命な姿は素敵だよねー」


 まるで、人間がそうあるのが当たり前のように、朝茶子は語った。

 そして、彼女は透明すぎる水を向ける。


「夕梨ちゃんも、そう思うでしょ?」

「へ? えっと、あの……」


 共に距離としては宵闇に近いというのにまるで違う女の子に、夕梨は慌てる。しかし、一つ二つ呼気を呑み込み、そうしてから落胆したかのように彼女は言った。


「私はそうは思わない……です」

「そう?」


 まひるの代わりのように首を傾げ出した朝茶子を見て、夕梨は深く胸元暗がる。

 目の前の、どうしようもない美人に、嫉妬すら浮かばない自分に呆れて。少女はただ、汚れた自分を諦めとともに披露するのだった。


「だって、私は朝子さんみたいに、認められていないから」


 生きるたびに、人は世界の中心を忘れがちになる。だから、確かめたがるのだ。何より、己を認めるために他の視線を使う。それは、安堵のために。

 しかし、朝茶子にはどうしたってそれは要らないようだった。

 見られることが当たり前、観賞用の乙女に自認なんて普通のこと。だからほら、更にこてんと朝茶子の首は左方に落ち込むのだった。


「そっかな? あたしは夕梨ちゃんのこと、認めてるんだけど」

「私、を?」


 そして朝茶子の一人言は見当違いの方向に向かい、偶々に皆中となる。

 ずい、と近寄る朝茶子の目映き瞳に歪んだ夕梨の姿が映った。期待に染まった頬の紅を克明にしてから、彼女は稚く言うのだ。


「ねえ、夕暮れだって――――綺麗だよ?」

「っ!」


 それは、物が人を透かして見た後での感想。解析には自然よりむしろ人工物が良い。そんな当たり前が目の前で披露されて、青くなる夕梨。

 終わりの手前の優しさを、朝茶子は認めた。それは愛を持って、綺麗と言ったのだ。

 今直ぐにでも目の前の美しすぎる尖りから逃げ出したくなった夕梨。だが、そこに彼が、待ったをかける。真剣な笑顔で、まひるは場面を断つ。


「そうだね、確かに夕梨は綺麗だ」

「ねー」

「も、もうっ。まひるも、朝子さんも!」


 果たして、想い人の愛言葉に隣り合っては、陶器の少女ですら怖くなくなってしまうものか。

 取りあえず、動悸は別の心地よいものに変わってくれた。それに喜びを覚えながら、夕梨は。


「私は、認めないんだからなっ!」


 歩調あわせてからかう二人の前で二つの意味を持って捻くれた、言葉を出すので精一杯だった。


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