第5話 単ならない


 大井 夕梨ゆうりは、自分の見目が劣っていると自覚している。デコレーションですら隠せないその損ない、それは一般的な不。大したものではないというのに、しかしいじめられた過去を持つ彼女は己の凹凸ばかりの肌を至極嘆いていた。

 正しく有りたくても、そうはなれない彼女は卑屈に笑んで、人の輪にて目立ちすぎないようにする。自分は影で、劣った存在。そうあることこそ明かりの中で痛みばかりの己に課したもの。

 不整如きで彼女が華である事実は損なわれないというのに。ただ、それで捻くれ過ぎなかったのは、夕梨にとっての幸せだったのだろうか。


 綺麗になれないのならば、せめて、よくありたい。そんな苦しい思いは少女を全うに育んだ。人を思える感ずるための襞だらけの内面は、不揃いであっても優しかった。

 夕梨の良さは、砂粒で磨かれた軽石の如き親切。宝石のように輝く擬石は、とてもありきたりでしかし大切なもの。それを知っている大半は、彼女を嫌いになれなかった。

 むしろ、そんな彼女を好む者も相当数にある。それは家族に友人。たとえば彼、大崎まひるとか。


「だからさ、まひる。そこは違うって」

「ん。どこが?」

「農具便利論は大蔵永常。やったばっかだろ? どうしたんだ?」


 町立図書館での真面目な会話はどうにも狭苦しく響くもの。どこか勉強に気が漫ろな様子のまひるの隣で夕梨は努めて小声で問った。

 どこか整いきらないまひるの隣で、口にしながら夕梨は思わざるを得ない。彼のテスト前の追い込みは普段はもっと必死でなかったかと。

 好きな人の隣であるからこそ集中しきれなかった日本史の教科書から目を離して、彼女はどこかおかしい彼をそっと見つめた。


 恥で斜めりながら、それでも上がる視線。その意味を鈍ではないまひるは理解している。

 けれども、今の青年は恋に愚かでもあった。だから、何時もなら言わないはずのことを、口から零す。

 その一滴は、強く夕梨の胸の水平線を穿った。


「いやさ。気になる人が出来て、さ」

「……気になる、人?」


 彼が気になる存在。問うまでもなく、それはきっと私ではないだろう。天板にぶら下がるライトに凹凸照らされ続けながらも、少女は目の前が真っ暗になったような心地がした。

 熱い胸に氷のような恐怖が差し込まれて、身体がきゅっと縮む。頬の紅は意味を変える。そんな彼女を見て察し、慌ててまひるは言い訳を始めた。


「なんというか、ちょっとその人危なっかしいんだ。だから今どうしているかな、大丈夫かなって」

「そう、なんだ……」


 大好きな彼の言葉を聞いて、しかし彼女の心は落ち着かない。

 慈愛が垣間見えてしまったから。そんな、親のような顔をして、見知らぬ誰かを語らないで。

 そんな心に刺さるような棘持つ文句はしかし優しい彼女の口から出てこない。むしろもっと丸く愛らしい言葉が転がり出るのだった。


「その人元気だと、いいな」

「……まあね」


 真っ当である夕梨は、苦しくも本心から言っている。

 他人なんて、皆元気な方が良いに決まっている。何せ自分が苦しいからといって、他まで悲しげであってはとても辛いから。

 手を組み合わせずとも、心より想うのは無意味にならない。砥石の滑らかさで、彼女は誰かの幸せを願い続ける。

 そんな大切を間近に眺めて、眩さに目を細めながら青年は言葉を繰るのだ。


「っと。そんなことはどうでも良いか」

「そんな、こと?」


 夕梨はまひるの言に当惑する。他人を思うことは大事。ましてやそれが想い人であるならば。

 そんな自然を己を曲げて認める少女に、微笑んで青年は言うのだった。


「いくら忘れられなくっても、目の前を忘れちゃ駄目だ。夕梨に貰った一緒の時間の方を、何より大事にしないとな」


 だからまた間違っていたら教えてくれないかな、とまひるは戯ける。

 そんな青年の気遣いを察し、頬の色付きはそのままに、胸元の恋情を高めながら夕梨はぽつりと呟くのだった。


「ありがとう、まひる……」


 同学年で一番に正答を知っている彼女は己の可愛さばかりを知らず、ただ見難い己の紅顔を隠すためにそっぽを向く。


「こっちこそ」


 しかし、隣の彼は、その愛らしさを何より大事にしているのだった。

 綺麗でない襞の何が悪いのか。単ならない人は複雑であっていい。そう、思わずとも理解して、まひるは夕梨を一番に大切な友達として愛するのだった。




 暗闇には光が似合う。家の窓辺に座り火照った頬を夜風に晒しながら、夕梨はそう考える。

 彼女が二階から見下ろしているのは世間の輝き。夜間活動の励み。エネルギーの尽かなさ。

 人々の生の証となる街の光を少女は好きで、よほど肌に寒さ染み入ることすらなければ、夕梨は長風呂の後に眠くなるまで外を見下ろすのだった。


「気になる人、か」


 そして、瞬かない明かりの数々に飽かずともその持ち前の知恵故に暇になった夕梨は、先のまひるの言葉を思う。

 人が気になる、それは夕梨にとってよくあることである。好きだから、というのもあるが基本的には恐れ故に。

 狭い人の交わりの中で蔑まれ、無視され続けた傷は浅くはない。彼女が勉強に熱中したのも、学習ばかりは即応的であり疾く自信を慰めてくれるものだったからだ。

 しかし、少し厚めの唇をきつく閉ざしてから、夕梨は続けた。


「でも、あいつは私とは違う。まひるは真っ当に人を思える人間だ」


 そっと、夕梨は胸元に振り返る。自分のように、人の坩堝を怯えと恋しさから好んで覗くのは、数寄者。でも、あの青年にはそんな異常さはきっとない。


「だって、皆の私に対する嫌いを、あいつはどうでも良いって言ってくれた」


 恋はそこから萌えた。彼女はどうしてか構ってきてくれた、転校生のぼやきのような言葉をすっと忘れない。

 感謝がある。だからそれを返すために見つめた。そうして夕梨はまひるをある程度以上理解することになったのだ。

 彼は普通という名の異常だと。どうしようもなく、染まらない存在なのだと夕梨は知っている。


「そんなあいつが好きになったんだ。きっと……うん。間違いなくいい人だ。私なんかよりもよっぽど」


 一人では笑顔はどこまでも卑屈に。汚く見える己をダシにして、少女は世界の綺麗を持ち上げる。

 もちろん、世の中は殊の外平坦。夕梨の不なんて気に止めるべきですらないほどにどうでもいい。そして、下から見上げずとも全ては綺麗であるに違いないだろう。

 しかし、一度歪んでしまった少女に、真っ当は難しい。ただ優しく全てを認め、しかしそれでも一言口から出ていくのは止められなかった。


「でもちょっと、辛いな」


 胸元にずきずきと。愛は盾にならずに、しかし恋は槍。思おうとも、想いには勝てなかった。

 彼が、好きだ。それは、間違いのないことで。

 それだけで良いはずなのに、しかし夕梨は複雑。だからどうしようもなくって涙がこぼれそうな、そんな時。


「……あ。誰? 子供と、女の人だ」


 夕梨は足元に余計を見つける。それは一組。小さな影と、そこそこの影の二つ。

 知らない間に町中を歩んでいたのだろう暗がりの中の彼女らに、彼女の気は行った。

 仲良く手を繋いだ二人は、こんな夜に散歩でもしているのだろうか。いや、今日は胸のモヤモヤをどうにかしようとと早く風呂に入ったのだったな、そう考えていた時。

 夕梨は揺れる手のひらを見つける。


「私に気づいた。はは、手振ってるよ。わ、女の人も手を振ってくれてる」


 近づいて理解し、まず先に稚気がひらひらと元気を表した。その隣で合わせるように、手が柔らかく動く。

 その所作に親愛を感じた夕梨は返答代わりに手を振り返す。そうして、上から下から互いに視線を通わせた。


 やがて二人は街灯に足を踏み入れる。その姿を克明に眺め、夕梨の心は停まった。いや、そんな気になったのである。


「綺麗だ」


 闇夜の元、街灯の下に現れたのは一羽の蝶。

 離れていても、よく分かる。単色でその整いを浮かび上がらせるのはどうにも勿体ないと思ってしまうような、綺麗。

 暗闇には光が似合う。けれども、光にはきっと彼女が一番に似合っているに違いない。そう錯誤してしまうような美がそこにあった。

 曲線の綺麗を身に纏う少女はどうにも白く透明で。だから輝いて綺麗なのだろう。そう、朝茶子は夜な夜な陶磁の明かりを発していたのだった。


「あ、笑った」


 見ているものは見返される。それは当然。朝茶子は夕梨を確かに認め、しかし嫌味一つなくただ、微笑んだ。そうして彼女は幼児を引き連れ去っていく。

 その、自分の不をもどうでも良いものとしている自然の所作にあまりのたおやかさを感じながらも、夕梨は思った。

 彼女は、彼と同じだと。


「ああ、なれたら良いのに」


 そう、夕梨が呟いてしまったのは間違いか。何時も正解ばかりが彼女を形作っているというのに。

 しかし、複雑が単純に憧れるのは在り来たりなことでもあるのだった。



 忘れてしまった無垢の、その中身の脆さが、もう分からないから。

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