片桐朝茶子は容姿端麗純粋無垢な人殺しである

茶蕎麦

第1話 棄てる

 片桐 朝茶子あささこは容姿端麗純粋無垢な人殺しである。

 上等で見事な配列をした顔に、取っ掛かりが見当たらないくらいに瑕疵のない胸の内。一体全部が白調で美しく、しかし朝茶子のその手は血に濡れていた。



 瀞河とろかわ女子学園――女子少年院の一つ――を退院して、しばらく。最近の否定の続きで疲れた朝茶子は、母親より許可された久方ぶりの出歩きに、色を付けていた。

 コンビニまでの僅かな距離に朝茶子が足したのは、云万円と、数百キロメートル。いい子だった頃に集めていたお年玉を片手に、よく分からない地名を好んで選んだ彼女は、想像以上に辿り着く。

 遠ざかる、車のエンジン音。無愛想にも、いやここも観光地の一つであるためか、夜分にこんなところに少女一人で来ることを問わなかったタクシーの運転手に内心感謝をしながら、少女は眼前の黒黒とした蒼海に向けて、伸びをした。


「うーん、これはすっごい!」


 はらりと落ちた前髪の長さを気にもとめずに、朝茶子は岩に寄せる怒涛の音に感激覚えて天まで指先広げる。その際に切っ先に僅かの間、一等星が乗っかってくれたような覚えをして、彼女は微笑んだ。

 近くを通りかかった車のヘッドライトが瞬く。それだけで、暗黒は克明に粗を見せた。しかし都会っ子の朝茶子はその生々しさこそを楽しんで、綺麗なその身を躍らせる。

 一つ跳ねて、腕を開いて一回転。彼女が纏ったワンピースは白い軌跡を残す。

 天だけが見ていたその綺麗。しかし、足首までもの線の細さが仇となり、砂に足を取られた少女は、無様にもすっ転んだ。お尻から、どすん。シューズの片方は、勢いに乗っかり吹っ飛んでいった。


「あはは。痛ーい」


 しかし、隣に落ちている鋭く尖った石を偶々に避けた朝茶子は、臀部の鈍痛なんて、気にもしない。

 電車やタクシーに何時間もお尻を乗っけ続けて、窮屈に感じていた思いが、むしろ発散されてすらいた。


「よっ、よっと」


 波打ち際まで届かしてしまった靴を取りに行くためのけんけんですら、楽しみ。だって、辺りには何の作為も天才も存在しない。見渡す限りの自然の中で、朝茶子は緊張を大いに解く。

 そもそも少女が黙って家に籠もっていることこそ、無理難題。白けた監視の目があっては、尚更に。

 愛が足りないから、愛したい自然を抱く。そんなこと、朝茶子にとって、当たり前の錯誤だった。故に、夜分に独りでここにある。


「あはは。あたしったら、馬鹿だなあ」


 安定のために白いスニーカーを踏んづけて戦ぎを輝かす水際と合流し、月光に照らされながら笑顔の花が一つ、咲いた。

 しかし、自虐をフロリゲンとした、同意に頭振るものすらないただ一輪なんて、疾く枯れるのが当たり前。次第に頬は引き締まり、人間の基調にごく近づいた朝茶子は、溢す。


「そう。馬鹿で。どうしよう、もないから」


 朝茶子には、これからどうする気持ちも存在しなかった。

 水の馴れ合い波の音騒々しい黒海。そこに、呑まれる気力はない。もっとも、歩を光に向けて進めていくという選択肢も彼女にはあり得なかったのだった。


「疲れた、なあ……」


 不幸続きでくたびれて、自分の先に未練なんてない。けれども命にすがるのが生き物だと教えて貰っていた。大切で忘れることは出来ない、だが、それだけの認識が彼女を生きながらえさせている。

 命が何より大切で無二ではないのは、殺人経験から無駄に知っていた。だから、自分だって特別ではないと朝茶子は思う。

 痛みで傷まない、陶器によく似た少女は、そんな風に鏡を逆しまに見て取っているのだった。


 ため息呑み込むために、ついと、小ぶりの頭を持ち上げ、美しき天球を朝茶子は望む。無知故に星に連なりや意味を考えられない彼女は、ただそれらが僅かに光を投げかけてくれているということしか分からない。

 だからそれは遠い宇宙からの遠慮がちな、少女のためのライトアップ。彼方の巨大なトゥインクル、リトルスター。それらは距離によって矮小化させられていた。彼らの威光は遠く、儚すぎる。

 だがしかし、確かに過去は美しく輝いていたのだった。天を見て、己を省みる。ついつい、少女が眦を輝かせた、その時。


「わ、女の人! おねーちゃん、だあれ?」


 関われないから尊い高みを見上げてばかりいた朝茶子に、手の届くくらいの愛らしい低みから声が掛けられた。

 小ぶりの体躯の天辺にお団子が一つ。少女の朝茶子よりもずっと幼い、場違いな彼女はにこにこと無邪気に相対してくれている。

 笑窪から目を背けた先、風の流れに、上げ損ねた一房の髪束が少女のうなじに流れた。その細い首筋、とても手折り易そうだな、と朝茶子はぼうと思う。


「誰? あたしが誰か、かあ……」


 遅れて、朝茶子は質問に対する答えを考える。大人達の手により一番に自認させられた表現を用いるならば、自分は人殺し。けれども、それは過去の犯行を口外するなと言う母の厳命によって使えない。

 しかし、それを抜きにすると自分はどうにも何でも無い。学生でもなければ、退院はとうに済んでいる。何一つ、肩書なんて持っていない。そう思い込んだ朝茶子は、自己紹介に窮してしまった。


「わかんない」


 だから、頭を振る。その動きにふわりと広がった髪の艷やかな広がりを見た少女は感動も相まって、驚きを露わに言った。


「わわ、おねーちゃん、きおくそーしつだ!」


 自分が誰か分からない。それは、お母さんと観ていたドラマに出てくるあの主人公とそっくりなこと。そして、朝茶子は主人公みたいに特別な美人さんでもあった。

 故に、彼女は同じなのだと誤認する。広がる少女の鳶色の瞳は朝茶子を大いに映し、しかし正しく見えていない。眼前にあるのは恋愛ドラマの主人公ではなく、人殺しを躊躇わなかった悪鬼。そんな勘違いを、彼女は笑う。


「あはは……そうだね。そういうことにしよっか」


 しかし朝茶子は子供の言葉を愚かと切り捨てず、むしろ都合いいものと取る。それに従い、彼女はさっぱり忘れることにした。絆とか、由縁とか、願いとか、その他諸々を。


――――そう、忘れたことにしてしまいましょう。あんなこと。


 大事なものを捨て去り、益々純粋無垢でしか無くなった少女は、大切を雑多がちゃがちゃに身に取り付けた幼子に、導かれる。


「おとーさんおかーさんに教えなきゃ! わたしに付いてきて!」

「うん」


 子供の駆け足に朝茶子は大股で並ぶ。そして、向けられた手を取り、笑みを見せる。

 それを、幼子――塩田 美雨みう――は大いに喜ぶのだった。やっと、笑ってくれたと。


「あはー。おねーちゃん、手冷たい!」

「ごめんね?」

「うーん、気持ちいいよっ!」

「それは良かったー」


 赤いほっぺをふやかして、足取り軽く。美雨は楽しくおねーちゃんを引っ張っていくのだった。喜んで、朝茶子は少女のよちよち歩きに迎合する。

 大小笑み二つ、朝茶子のその姿はまるで妹の相手をするお姉さん。しかしその実彼女は子供の後をつける人殺し。それはそれは危険な、ナイトストーカーだった。


「あ、そういえばこっちの手は……」

「どーしたの?」

「あはは。なんでもない」


 朝茶子は、繋いだ右手が殊更血に濡れていた方だとようやく気づいて苦笑い。しかし、今更手放すことなんて出来やしなかった。

 幻想の中で、べとりとした赤が、美雨を穢していく。それでも、朝茶子は彼女の前で、微笑み続けた。

 ヘッドライトの光遥かに遠い静かな横断歩道を、揃って繋がっていない方の手を高く挙げ渡り、二人は町中の光に消えていく。

 やがて、無垢は限りなく、不明になった。


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